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0910-「20世紀少年」の町-299 (南吉生誕103年-154)

2016年 南吉没後73年「貝殻忌」-2(3/20日)
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3/20の記念館前広場です。入り口で手回し風琴の、優しい音色が来場者を出迎えてくれます。広場もほぼ渇きミニトレインが家族連れを乗せて人気です。お店も出てアイスや野菜を売っていました。ごんの段ボール迷路も、狭い室内から広場に移され子供たちが遊んでいました。
と、記念館のスロープを山本館長さんが上がって来られたので、写真を1枚お願いしました。館長さん始め関係者の方たちも、4日間あちこち忙しい日々を過ごされました。
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そしてこの日のリーフレットですが、左側が半田市雁宿ホール講堂でのイベントで、右が安城市観光案内所「KEY PORT」でのイベントです。

0910-「20世紀少年」の町-299 (南吉生誕103年-154) _f0005116_20515520.jpg半田市の方は「貝殻忌講演会」と称し、横浜国立大学名誉教授で国語教科書や子ども読み物に関する研究に詳しい、府川源一郎氏の講演でした。
演題は「ごんぎつね」から「良寛」まで~「童心」のゆくえ~について、当時の時代背景や南吉の初期作品から、後期作品への変遷を解説されました。

0910-「20世紀少年」の町-299 (南吉生誕103年-154) _f0005116_21293671.jpg安城市では安城市出身の女優・石川惠深(えみ)さんが、南吉先生の画像の前で、「牛をつないだ椿の木」の朗読をされ、最後に石川さんの貝殻笛の演奏で「でんでんむし」を全員で歌いました。
翌日は新田の下宿の家で、「ででむし会」さんの朗読もあるとのことでした。
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半田市の方では昼と同じ雁宿ホール講堂で、19:00から「貝殻忌コンサート」が行われました。都合で行けませんでしたので、リーフレットを貼っておきます。
# by ttru_yama | 2016-03-28 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-298 (南吉生誕103年-153)

2016年 南吉没後73年「貝殻忌」-1(3/19土)
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「詩人・茨木のり子とふるさと西尾」の途中ですが、今年も南吉命日(3/22)「貝殻忌」がやって来ました。こちらが半田市新美南吉記念館のメインリーフレットです。ごらんの様に今年は命日が平日〈火〉なので、式典イベントも分散して4日間となりました。
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3/19(土)の記念館の様子です。晴れてはいますが前日の雨で屋外イベントは中止となり、館内でごんの段ボール迷路、ワークショップのモビールづくり、「南吉童話おはなしの会でんでんむし」による紙芝居が行われました。
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矢勝川ぞいには、菜の花が植咲いてのどかです。その向こうには、狐のごんが住んでいたという「権現山」も望めます。
午後からの「南吉講談席」にて、「名古屋講談を聴く会」の内神田こりすさんが、「たけのこ」「花のき村と盗人たち」、洋子さんが「鳥右エ門諸国をめぐる」を講談調で聞かせてくれました。
南吉が本名・新美正八と名付けられたのは、父・多蔵さんが講談に出てくる豪傑・梁川庄八をもじってつけたという話があります。
# by ttru_yama | 2016-03-25 20:27 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-297 (南吉生誕103年-152)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-9

0910-「20世紀少年」の町-297 (南吉生誕103年-152) _f0005116_2340824.jpg地図を西尾駅周辺に絞ってみました。前回のおさらいですが最初出来た西尾駅は、後に警察署に転用された話をしました。(図左部)
そして警察署から東に向かった先でみどり川を渡る橋が五條橋でした。


0910-「20世紀少年」の町-297 (南吉生誕103年-152) _f0005116_0504760.jpgその五條橋から駅方向を見ると、右端に茶色い建物が見えます。もう一度地図の方を見てみると、警察署の北東に旧山尾病院というのがありますが、そちらはS7(1932)年のり子の父・洪氏が京都から西尾に移ってきた時の医院の場所で、写真の方は現在の山尾病院です。


0910-「20世紀少年」の町-297 (南吉生誕103年-152) _f0005116_21372337.jpg現在の山尾病院を西尾駅前通りから見ると、H29年10月完成をめざし全面建て替え中でこんな感じになっています。
ちなみにここの交差点名は「花ノ木5丁目」になります。
同じ場所を下記のGoogleマップの地図にて、警察署・五條橋・山尾病院・西尾高女をマークしてみました。(2回クリックで拡大)

0910-「20世紀少年」の町-297 (南吉生誕103年-152) _f0005116_230149.jpgと、ここで気づいたのですが、花ノ木町にある交差点名は、(おそらく耕地整理の賜物で)みどり川に架かる橋の名前とすべて合わせてあります。
つまり北から「2丁目→二條橋・・5丁目→五條橋」なので、駅前通りから目的の橋や旧市街を目指す時、例えば西尾城を目指す時は花ノ木4丁目から、四條橋を渡って真っすぐ西へ・・みたいな感じです。

0910-「20世紀少年」の町-297 (南吉生誕103年-152) _f0005116_22451034.jpgところで現在の山尾病院の前には、醫学博士・山尾宰博士の碑が建っています。それによれば山尾宰氏(M34.11.30生)は当病院の初代院長でT13(1924)年5月、京都府立医学専門学校卒業、S5(1930)年8月、京都帝国大学医学部専修科終了、S7(1932)年7月1日開業、病院はS9年4月29日開設とあります。
そしてのり子の父・洪氏とは大学時代の教室で知り合ったようで、洪氏は副院長に就任しています。
図録には洪氏の生年月日はありませんが、もし二人が同年であれば開業したのは30歳の頃になります。
# by ttru_yama | 2016-03-21 23:45 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-296 (南吉生誕103年-151)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-8
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それではまた図録の地図を参照させていただきます。〈2回クリックで拡大〉地図はのり子が西尾へやってくる7年前のS3(1928)年頃の西尾市街図がベースで、左半分の緑色 (原図では黄色)のエリアが旧城下町で、
0910-「20世紀少年」の町-296 (南吉生誕103年-151) _f0005116_12321548.jpg右のそれこそ京都のように碁盤の目状に整備された西尾駅周辺区域が、T14(1925)年3月創立の「花ノ木耕地整理組合」(組合長は中村謙作町長)によって開発された新興市街地です。

前回出てきた「みどり川」は、青色表示で城下町の東部を流れています。(写真/永楽橋~桜橋付近にある「花ノ木耕地整理組合碑」)

0910-「20世紀少年」の町-296 (南吉生誕103年-151) _f0005116_12454020.jpg図上で西尾駅の東側に赤色で囲われているのは、のちにのり子も通った西尾高等女学校で、T7(1918)年7月に仮校舎にて開校し、翌8月にこの場所に本校舎が竣工しました。
ところで実は当時の愛知電気鉄道の線路は、みどり川の1本西筋を走っており「警察署」となっている場所が以前の西尾駅でした。思うに以上のことから京都を意識した道路計画や、四條橋などの名称は、この耕地整理計画から出来てきたように想像します。

ということで線路はこの「花ノ木耕地整理」により、S3(1928)年この地図の位置に移動し、新しい西尾駅も高等女学校に隣接して建てられたのでした。
この碑には「西尾の歴史的発展段階に於ける画期的計画により(中略)市街の中核を形成し、近代都市西尾の誕生に寄与す」と刻まれています。

0910-「20世紀少年」の町-296 (南吉生誕103年-151) _f0005116_11395115.jpgこちらが移動前にあった最初の西尾駅兼本社で、M44(1911)年10月に開業しました。(写真集・明治大正昭和・西尾より)社長は岩瀬弥助といい、今回の「茨木のり子」展の会場となった、岩瀬文庫を創設した地元の事業家で、耕地整理組合の副組合長でもありました。
鉄道の開業当時は西三軌道といい西尾から岡崎新駅までを結んでいましたが、翌年改称して西尾鉄道となり、T4(1915)年8月、その後のり子が移り住む吉田町の吉良吉田駅までが開通しています。

0910-「20世紀少年」の町-296 (南吉生誕103年-151) _f0005116_12415316.jpgこの旧西尾駅舎はS5(1930)年から、(図にも描かれていますが西尾)警察署として使われましたが、屋上から八ツ面山方面を俯瞰した様子(写真参照)が、同写真集に残っています。
解説によれば写真中央を斜めに縦断する白い道が、かつての線路跡で現在は2車線の道路になっています。そしてわかりにくいですが、その右手に並行して木々が連なっているところが北浜川(みどり川)です。
ちなみにこの建物は現在ありませんが、五條橋の筋で西側が吾妻町の駐車場になっています。
# by ttru_yama | 2016-03-17 22:17 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-295 (南吉生誕103年-150)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-7

0910-「20世紀少年」の町-295 (南吉生誕103年-150) _f0005116_20542133.jpg八ツ面山からの眺望を少し見てみましょう。写真はちょっと霞がかっていますが、西尾市街をズームしたもので左の横長のビルは大型スーパー・アピタ西尾店で、鉄道の名鉄(めいてつ)西尾駅はその向こう側に隠れています。

その西尾駅の東口には、のり子の通った西尾高等女学校がかつてありました。また当時住んでいた家は駅西口の向こう側でした。駅から八ツ面山へは直線で2kmです。
写真中央や右端のビルは駅前周辺の高層マンションで、今の西尾市は名古屋への通勤圏内となっています。城下町西尾のシンボル西尾城は、写真の背景方向ですが霞んでわかりません。

0910-「20世紀少年」の町-295 (南吉生誕103年-150) _f0005116_2372362.jpgさて西尾の観光パンフレットには、よく「小京都西尾」という言葉が使われています。確かに今でも市内には古くからの寺院や町並みが残っていますが、まあ観光宣伝的なイメージ目的が強いので、なるほどと思う人もいればそれほどでもという人もいるかもしれません。ただ「全国京都会議」という団体に、愛知県では西尾市だけが参加しています。

ということで八ツ面山から東の方向を見ると、小京都を感じさせる由縁の一つである万燈山(まんとうやま/145.9m/写真)が、直線距離で4.5km先に見えます。山頂付近に三日月を伏せたような弧が見えますが、「かぎ万燈」というお盆の行事で束ねた108の柴に火を点け、戦国時代に戦で亡くなった死者の霊を弔ったものといいます。また万燈山のふもとにある長圓寺の肖影堂には、家康により初代京都所司代を任ぜられた板倉勝重が祠られています。

0910-「20世紀少年」の町-295 (南吉生誕103年-150) _f0005116_12532288.jpg万燈山の頂上付近には小さな石の祠が建っていますが、そこから南西6.5km離れた西尾市街を見渡すとこんな感じです。地平線上の中央が先ほどの市街域で、右手にうっすら八ツ面山も見えています。山の斜面の黄枯れたところで「かぎ万燈」が焚かれます。のり子もお盆の夜には、明るく燃え盛る「かぎ万燈」を眺めたことでしょうか。

0910-「20世紀少年」の町-295 (南吉生誕103年-150) _f0005116_13534736.jpgもうひとつ小京都を感じさせるのが、城下町の東部を流れる北浜川(市内中心部の流域はみどり川と呼ぶ)に架かる橋の名前で、他の名前の橋も交えながら北から南へ二條橋から六條橋まであります。
ということでこちらは四條橋にある市内を循環する、「六万石くるりんバス」のバス停になりますが、のり子が西尾時代に住んでいた家も近くにあります。
# by ttru_yama | 2016-03-13 23:45 | 茨木のり子