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0910-「20世紀少年」の町-291 (南吉生誕103年-146)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-3

茨木のり子のことをもう少し調べようとして先日、図書館へ行ってきました。ところでそこでハタとつまづきます。というか自分が根本から間違っていたことを知らされました。図書の検索をしますと一冊の本も出てこないのです。「そこそこ有名な詩人なのに、そんなばかな!?」

0910-「20世紀少年」の町-291 (南吉生誕103年-146) _f0005116_22104122.jpg数秒考えてから検索し直したら、今度はいっぱい本が出てきました。何を間違ったかというと、茨木は「いばらき」ではなく「いばらぎ」と濁って読むのでした。そんなことさえ知らずに、茨木のり子の話を書こうとしているわけです。ついでに言えばタイトルがずっと「茨城」になっていました。(笑)

ところで少しのり子のペンネームのいわれを見ていきますと、歌舞伎の舞踊曲に「茨木」(なんと通常の読みは「いばらき」)というのがあり、ペンネームを考えていた時、ちょうどそれがラジオから流れていたからだといいます。

だったら初めから「いばらき」で良いのに、と思うのですが「いばらぎ」となった理由を、私はまだ見つけられていません。歌舞伎でもそう呼ぶこともあったのか、何か強い響きがほしかったのでしょうか。

また、歌舞伎の茨木童子(いばらきどうじ)は大江山の酒呑童子の家来の鬼で、羅城門または京都の戻り橋で源頼光の四天王の一人・渡辺綱に悪さをし、片腕を切り取られますが七日目の晩に綱の叔母に姿を変え、隙を見てその腕を取り返すと空に舞って消え失せます。

のり子はこの話が好きで、「鬼の我執というか、自我にあやかりたいと思って、ヒョイとつけたペンネーム」だったと「櫂」小史に書いています。何かに向かって真っすぐとか、意思をしっかり持つということなのでしょうか?
ところでのり子の生まれは大阪府で、5歳で京都へ移ったことしか知りませんが、同小史には後年京都の戻り橋に行った事や、大阪府の茨木(いばらき)市の茨木童子伝説に関連した記事がみられます。

0910-「20世紀少年」の町-291 (南吉生誕103年-146) _f0005116_20462825.jpgということでのり子の生涯を知る参考本として、先にあげた後藤正治著「清冽 茨木のり子の肖像」を借りたり、「茨木のり子詩集 言の葉」1などを購入しました。

先の「清冽」というのは「水などが清らかに澄んで冷たい様」ですが、本文(10章-1)に「茨木の主調音が個の精神の清冽さであった」と書かれています。(詩「古歌」にも出てくるそうです)また図録「詩人・茨木のり子とふるさと西尾」の冒頭の、「ごあいさつ」文には「凛とした生きる姿勢」「社会を見つめる鋭い批評眼」「優しさとユーモア」という記述があります。

さて何も知らずに「清冽」を読んでいくと、「根府川の海」や「わたしが一番きれいだったとき」が、戦争詩の部類に入っていることに、最初は違和感を覚えていました。しかし読み進めていくと彼女の詩の底辺には、日本を奈落の底に陥れて、何百万もの人たちの命を奪った戦争や戦争責任に対する憤りが、戦後の時が流れてゆくほど降り積もっていきます。

もちろん彼女は戦争詩(反戦詩)ばかり書いていたわけでないのですが、二十歳の前後に受けた戦争への不信感は、1960年の安保闘争でのデモ参加を記した日記形式のエッセイ「恐るべき六月」や、日本軍に強制連行され北海道で炭鉱労働者となり脱走し、終戦も知らずに13年間逃避行を続けた中国人「劉連仁」のことを書いた長編詩「りゅうれぇんれんの物語」、天皇の戦争責任についての記者会見を題材にした「四海波静」(1975)などに、時にはユーモア、時には皮肉、時にはやさしいまなざしを向けて発表しています。
by ttru_yama | 2016-02-24 23:45 | 茨木のり子
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