帰ってきた「ででむし詩碑」-31
この先、安城高女から安城高校への変遷と詩碑の状況をみてゆくつもりですが、詩碑が移転するまでの出来事も書いておこうと思ったのは、前回の「聖火」に寄稿した河合弘氏(写真は著書「友、新美南吉の思い出」/大日本図書より)の記述があったからでした。
河合氏は岐阜県大垣市の出身で、東京外国語学校時代は仏語部の文学好きの学生でした。ある日英語部の南吉が声をかけた所から二人の交遊が始まっていきます。その様子は「青春日記」にも出てきますが、河合氏の記述により更に深く南吉の素顔に触れることができます。
河合氏について私は本に出て来ること以外には知りませんが、出身地の大垣市へ行ってきました。
大垣市の中心部には1500年代に造られ、その後再建された大垣城があり、関ヶ原の戦いでは西軍の拠点ともなりました。江戸時代には大垣藩が置かれ戸田家10万石がこの地を治めました。
そんな大垣城から数100M西に戸田家の菩提寺「圓通寺」があります。入口に立派な山門があり、写真左奥の敷地には歴代藩主の墓が並んでいますが、その手前左手に河合氏の眠る墓があります。
ところでS14年12月28日の南吉日記には、26日に河合家を訪れた記録があります。
『両側に柳の竝んでゐる水の多い川のそばで、・・教へられたお寺のそばへ来た。・・報恩講をしてゐる寺の前を通って東を向くと、・・高い松の木二本をうしろに持った小さい家が見えた。』
『しばらくといふと「よく来たな」といひ、「あまり變らんな」と云ひ足した。・・美しい頭髪は以前のやうにながく、あの貴族的な丸みを持った細長い顔は以前より少し太ったかのやうに見えた。』