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0910-「20世紀少年」の町-251 (南吉生誕102年-106)

帰ってきた「ででむし詩碑」-23

0910-「20世紀少年」の町-251 (南吉生誕102年-106)_f0005116_2254023.jpg「前述した大野秋紅氏の「新美南吉ノート」によれば、S17.3に最初に送り出した19回生のクラス会は、その年の10月にあったと書かれていますが、その時 南吉先生は病気のため不参加でした。

そして学校をS18.1月から休み自宅療養をするのですが、病状が思わしくないという話はすぐ卒業生に広がり、何人かは見舞ったり手紙を出すものもいました。しかし見舞っても会えずじまいの生徒もいました。

南吉より高正惇子さんという生徒に宛てた葉書(写真/新美南吉記念館)には、「いしや(医者)は、もうだめといひましたが もういつぺんよくなりたいと思ひます
ありがと ありがと 今日はうめが咲いた由
」と書かれています。(消印S18.2.26)

0910-「20世紀少年」の町-251 (南吉生誕102年-106)_f0005116_2563710.jpgその頃の南吉先生を卒業生が見舞った様子が、「新美南吉に親しむ会」さんの会誌「花のき」第19号(H16.8発行)にあります。これは19回生の鈴木秀子・加藤千津子・本城良子さんによる「恩師 新美南吉先生を語る」という中にあるのですが、その中の本城さんの記事を拾い出してみます。

『先生は・・「離れ」と呼ばれている家に、一人で寝てみえました。・・先生はひどく咽喉を痛めておられ、声も出ないしもちろんのどもしみるわけですけれども、・・寝ていらした先生が、身を斜めによじるようにして、(すっぽんの)スープを差し出す生徒の手から、ちょっと奪うようにして、一口すすられました。』

『すると咽喉はしみるわ、むせるわ、もう大変苦しまれて、三人でどうしたらよいかと、おろおろしていました。しばらくして・・静かにやすまれました。・・これが先生との最後のお別れになってしまったのです。』

『昭和十八年三月二十ニ日、学校の方から連絡がありまして、・・お悔やみにと、戸田先生・加藤さん・私と三人で、再び半田まで参りました。・・お葬式は翌四月十八日、あの離れの家で営まれました。連絡のつく限りの卒業生が集まってお参りしました。・・』

ということでしたが今週22日の日曜日には、昨年より「貝殻忌」と命名された、南吉72回目の命日がやってきます。
by ttru_yama | 2015-03-18 10:00 | 新美南吉
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