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0910-「20世紀少年」の町-279 (南吉生誕102年-134)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-4

f0005116_2215219.jpg南吉の代用教員期間は、S6年の4-8月までの期限付きでした。
退職した翌9月に巽聖歌や與田たち、白秋門下の同人がS5年3月から立ち上げた「チチノキ(乳樹)」(與田準一記念館蔵)の同人となり、10月号から作品を発表していきます。
南吉の「巽聖歌」あての手紙(S6.9.18)『・・”チチノキ”とあなた方先輩の童謡集の出るのを待つてゐます。與田さん(こんな風におよびしては失禮ですか)の童謡集は・・』(全集12)
この中の手紙にも出てきますが、南吉は高等師範の受験のため12月上京し巽聖歌の下宿を訪問します。

f0005116_22161029.jpg高等師範は失敗したものの翌S7年、東京外国語学校に入学、聖歌宅に下宿し與田とも親交を結びます。「ごん狐」が赤い鳥に掲載されたのは、この年の1月号です。(右写真)

残念ながらS7年の南吉日記は無いのか見つかっていませんので、S8年の「青春日記」へとびます。
南吉の「青春日記」(S8.5.17)『与田さんが来たので”カナヅチ”を見せたら、ほめてくれた。・・古い童謡ノートを見せたら、なかなかいゝものを持つてゐるとお世辞でなく(与田さんの言によると)言ってくれて力を得た。聖歌が駄目と言ったものに与田さんは眼をつけてくれてゐる。・・聖歌の様なデリケートなものには縁が遠い。』

ここで分かるように巽聖歌のことは、食事だとか病気の時とかいろいろ世話になっている割に、「聖歌」と呼び捨てで、與田のことは「与田さん」と呼んでいます。どちらも南吉より8歳年長の、同い年なのですが・・。
ところで「青春日記」にも、白秋と三重吉の袂別れの話が出てきますが、與田はS8年2月白秋の後を追って「赤い鳥社」を退職します。
先述の年譜によれば、その後任で愛知県刈谷出身の「森三郎」が編集者となったとあります。同じく白秋門下の南吉の「赤い鳥」への投稿も、同年4月号をもって終了していることが残念です。

f0005116_23404021.jpgそれはさておき、写真は與田が最初に自費出版した童謡集「旗・蜂・雲」(S8.6アルス/與田準一記念館蔵)で、13ページもの序文を白秋が書いています。
くしくも、この出版記念会に南吉も同席しており、7月10日の「青春日記」に少し書かれています。

いずれにせよ南吉サイドの見方からすれば、こういう南吉の東京時代の聖歌や與田との交友が、その後南吉自身の作家としての出版にも大きな影響を与えていきます。
(つづく)
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# by ttru_yama | 2015-11-02 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-278 (南吉生誕102年-133)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-3

f0005116_15573777.jpg続いてこちらも訪問順とは違いますが、代用教員となった與田が、T13年から勤めた隣町の八女郡「下妻尋常小学校」(現・筑後市立下妻小学校)です。このように小学校教員となったのも、南吉と境遇が似ています。
與田は前年の12年から「赤い鳥」に投稿していますが、最初に採用(白秋選)されたのは「霜夜」(4月号)という詩でした。T14年に訓導となった與田は、児童に自由詩を指導しつつ、とともに「赤い鳥」に投稿していきます。

f0005116_1121527.jpg
與田が下妻尋常小の4年生を教えていた頃の写真(記念館蔵)が残っています。(中央右)

こののち「赤い鳥」には翌T13年6月号に母校の下庄小6年生の投稿詩が見られ、続く7月号には下妻小1年生の詩が載っています。ちなみにこの7月号には、野村七蔵の名で「巽聖歌」の投稿詩、「お山の廣つぱ」(赤い鳥初出)も掲載されています。

f0005116_12514331.jpgついでながら吉田定一編、「与田準一年譜」には、T12年頃から「聖歌」と同人誌の交換をしたという記事があり、その聖歌はS2年4月 キリスト協会の仕事で近郊の久留米にやってきます。

写真は記念館にある展示資料でT15年「赤い鳥」11月号に載った、與田の「雨の日」と近隣熊本の投稿少女で與田も指導した海達公子(4年)の「ぼたん」、そして下妻小5年の下川すまえの「空」を1枚に纏めたものです。

f0005116_23542089.jpgちなみにこの号には、他にも與田の詩と教え子の4作が載っています。またこの頃與田はガリ版刷りで、4年生と記念詩集「雀の青空」を作っています。
大きなシミがあったりして外装はボロボロになっていますが、背綴じをテープで補強して大切に扱われてきた感じをうけます。これを見ると南吉の安城高女時代の生徒詩集、「雪とひばり」を想い起させます。

そしてこのT15年8月の夏休み、與田は初めて上京し北原白秋と鈴木三重吉を訪問しています。
翌年1月 隣校の水田小学校に転任しますが、健康を害し3月退職しますが、久留米に来た聖歌らとともに、各地の「赤い鳥」投稿仲間と同人誌「棕梠」を刊行しています。

f0005116_075235.jpgS3年與田は、東京馬込村緑ガ丘の白秋を頼って上京、この頃與田が描いた白秋邸(木造洋館)のスケッチが、先に寄り道した白秋記念館に残っていました。
S4年には聖歌とともに、白秋の弟が経営する出版社「アルス」に入社し、翌5年8月「赤い鳥」に入社します。

新美南吉の詩「ひかる」(新美正八名にて掲載)と「ひる」、童話「正坊とクロ」が、「赤い鳥」に掲載されるのは、その翌年S6年6・7・8月号のことになります。この頃南吉は母校の代用教員でした。(つづく)
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# by ttru_yama | 2015-11-01 22:55 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-277 (南吉生誕102年-132)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-2

f0005116_20264136.jpg與田 凖一のふるさと瀬高町は、有明海にそそぐ筑後川・矢部川の流域を中心とする筑紫平野の南部にあり、米野菜を中心とした田園地帯の中にあります。
町の中央には鹿児島本線が通り、博多駅から特急で40分ほどの距離にあります。背景にうっすら見えますが、町の東部には山地がつらなり最澄が開いたという天台宗の「清水(きよみず)寺」があります。

清水寺は九州西国霊場であり県下でも名の知られた名刹で、京都の清水寺に追従して整えられ、與田の師である白秋の碑と後には與田自身の詩碑が建てられています。

f0005116_21213320.jpgあいかわらず雨が降っていて、車中からの写真ですが鹿児島本線「瀬高駅」で、S17年までは「矢部川駅」という名前でした。
前回の話で矢部川近くの與田の生家跡を訪ねましたが、M45年 與田7歳の時に與田・浅山家の家業を整理し、この駅前にて菓子店舗と青果業を始めたといいます。姉ヨシが嫁いだ料亭も駅前にあり、現在も営業しています。

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訪ねた順序が前後しますが、こちらは與田が小学校及び高等小学校時代を過ごした、現・みやま市立下庄(しものしょう)小学校の写真です。
後に與田はこの母校の校歌を作詞(S30年)するのですが、赤枠内はその当時の小学校写真(記念館資料)です。
南吉や多くの文学少年がそうだったように、 與田もこの小学校・高等小学校時代を通じて文芸書に親しみ、卒業後も学校の謄写版を借り同人誌をやっていたようです。

f0005116_20113220.jpg小学校の廊下の一角に「與田準一コーナー」があるというので、見せて頂きました。こちらが校歌の作詞と作曲をした、與田準一・細谷一郎両氏の額縁です。

f0005116_2130512.jpg校庭にある童謡「小鳥のうた」(S29年発表)の詩碑です。この童謡は芥川也寸志の作曲で、広く子どもたちに歌われることになりました。
歌碑は下庄小学校創立130周年記念歌碑として、H19年1月に建立されました。(つづく)
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# by ttru_yama | 2015-10-27 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-276 (南吉生誕102年-131)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-1

f0005116_21382362.jpg10月の始め、童謡「小鳥のうた」の作詞者であり、かつ「赤い鳥」の編集者で南吉の上京以後、巽聖歌とともに南吉の良き理解者でもあった「與田(与田)準一の「ふるさと」、福岡県みやま市瀬高(せたか)町を訪ねました。
写真は「與田準一記念館」で、みやま市立図書館に併設された郷土資料室を改装し、2009年10月に開館しました。
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こちらが與田準一記念館の入口付近の様子で、左手に「小鳥のうた」の原稿をバックに立つ與田の姿があり、右手が記念館の入口です。

f0005116_20142137.jpgその右手には市内の小学校の児童の寄せ書きで、與田の詩「ぶどう」のオブジェが飾られています。
『ぶどうのように/ ひとつひとつが/ まるく。//ぶどうのように/ みんながひとつの/ ふさになって。・・』
館内には各小学校の児童が、與田準一について調べたノートが置かれていました。

f0005116_21594727.jpgふだん記念館は撮影できませんが、特別に中を撮らせていただきました。館内は上方に年表や説明パネルがあり、下方の陳列ケースには書簡とか自筆の原稿等が置かれています。

今回 管理する図書館員さんと、ボランティアの方に説明を聞かせて頂きましたが、まだ専任の学芸員までは置けないので、資料整理なども数名のボランティアの方たちが整備中とのことでした。
(ただし南吉との書簡等は見つかっていないそうです)

與田準一(1905-1997)はM38年6月25日、福岡県山門(やまと)郡 瀬高町上庄(かみのしょう)に、父浅山与太郎、母スエの6人兄妹の二男として生まれ、翌M39年に親戚の與田家の養子となりますが、養母養父ともその年になくなり、與田姓のまま実家に戻ります。
この点で生い立ちが南吉と重なりますが、準一はまだ1歳の頃ですから、南吉のように寂しいとかの記憶はなかったことと思います。

f0005116_2342768.jpgここからは記念館の資料などを参照しながら、與田準一のふるさとを見ていこうと思います。まずは館員さんの車で與田準一の生家跡に連れて行っていただきました。
みやま市は、北原白秋の生家のある柳川市とは隣町となりますが、市境を流れる矢部川にかかる瀬高橋付近に、その生家跡があります。

残念ながら雨が激しく車内から眺めるだけでしたが、この写真の赤い家の手前付近の敷地が、與田の生家があった場所です。ただここには7歳までで、その後鹿児島本線の瀬高駅付近に転居します。(つづく)
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# by ttru_yama | 2015-10-17 09:00 | 「20世紀少年」の町

0910-「20世紀少年」の町-275 (南吉生誕102年-130)

帰ってきた「ででむし詩碑」-お休み

f0005116_20172356.jpg今年も、毎年秋恒例の「安祥文化のさとまつり」(第10回)の時期がやってきました。「安祥文化のさとまつり」とは、安城市の歴史文化を小学生から市民のグループまでが、日頃培った歴史・文化の研究成果を発表する催しです。

10/3-4の開催日には、安祥城址公園にて武者行列や和太鼓演奏等のイベントに加え、市民ギャラリーでは研究発表の展示、歴史博物館では発表した児童・生徒の表彰式、各市民グループの発表会がありました。

このうち南吉関連では「ででむし会」さんが朗読を、「新美南吉に親しむ会」さんが、「御所で見つかった”小さな詩集”~美智子様が訳された新美南吉の詩~」の発表をされました。

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この「御所で見つかった”小さな詩集”」とは、表紙がクリーム色の新書サイズの22ページもので、御所の書庫に保管されていたといいます。
美智子妃は1975年から「東京英詩朗読会」に参加されるようになり、そのおりに南吉の詩の英訳朗読をされるのですが、同じ会員であった武蔵野美術大学の内藤教授が、それらを詩集にまとめて差し上げようと、デザインを一人の学生に託して実現したものです。
(写真は今回の説明用で、現物の詩集のものではありません)

f0005116_22411090.jpgそしてこの英訳詩の元となった、南吉の詩集「墓碑銘」(1962年出版)は、巽聖歌から献上されたとのことで、美智子妃はその中より9編を朗読し、内6編を英訳されその6編が詩集に収められました。

今回「さとまつり」の発表では6編のうち、南吉の安城時代の作品「朝は(IN THE MORNINNG)」「落葉(FALLEN LEAVES)」「垣根(HEADGES)」「初夏抒情(LYRIC OF AN EARLY SUMMER)」「泉(A SPRING)」の5編が、順次2人のペア(写真参照)により日本語と英語で朗読されました。

日頃 南吉の詩に馴れ親しんでいる会員さんばかりですが、こと英文それも美智子妃の英訳となると緊張もあったと思いますが、みなさん堂々と発表されていました。
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# by ttru_yama | 2015-10-07 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-274 (南吉生誕102年-129)

帰ってきた「ででむし詩碑」42
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再び、帰ってきた「ででむし詩碑」-39に続き、校舎内の説明に戻ります。(「安城高女略図」(かつお・きんや著「人間・新美南吉」より))以下、主に教室や廊下そして花壇の話になります。

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そしてこれが普通教室の写真です。((第一回)卒業記念寫眞帖より)ただし19回生(S16年度入学)の頃は、すでにセーラー服での授業風景となります。

写真では右側が廊下側に見えますので、講堂の方角(西向き)を向いての授業だったようです。19回生は56人(7列×8人)だったとのことで、ほぼ写真の並びの状態で南吉先生も、新入生と対峙していたことでしょう。

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最初の図にあるように普通教室は、(入学当初は)1学年に1教室があてがわれ、3棟ある校舎の中央棟に置かれていました。というわけで(断言はできませんが)おそらくこの写真は、中央棟の廊下ではないかと想像しています。

写真の向きとしては教室写真とは逆になっており、奥から4年3年購買部、中央廊下、図書室2年1年ピンポン室ときて、背後に講堂があったかと思われます。ですから講堂で何か式典でもある時は、この廊下付近で渋滞が起きたといいます。そしてガラス越しにうっすらと木立も見えますが、この廊下の外側には中庭があり、この付近の中庭に「ででむし詩碑」となった石もあったと思われます。
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# by ttru_yama | 2015-09-21 23:44 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-273 (南吉生誕102年-128)

帰ってきた「ででむし詩碑」41

f0005116_1150420.jpg前々前回の「帰ってきた「ででむし詩碑」-39にて安城高女の国旗掲揚塔の石を、(S15.3.10)生徒が採取する話をしました。この行事は遠足も兼ねており、南吉も途中から合流しています。
その時の南吉日記の記述をもとに、写真で見返してみたいと思います。まず最初はJR岡崎駅近くにある「正覚寺」の記述が3/14(全集P.212)から出てきます。
正覚寺は石川喜久枝という1年前に病死した生徒の実家で、南吉は彼女の父である住職を訪ね焼香をしに行っています。車で訪れた寺は道から広い境内に乗り入れられられる寺で、左手に墓地がありました。

f0005116_15424432.jpg南吉はここから駅の東に向かいまっすぐ美合の種畜場に歩いて行ったことでしょう。余談ですがその道の途中の北寄りに、かつては岡崎の競馬場があり、今は長池という競馬場の形の池があります。

今回の遠足の目的地であり、南吉が先回りして訪れた種畜場は現在、愛知県立農業大学校になっています。種畜場というのは今でいう県の畜産試験場ですが、S9年には追進農場が併設され校舎の他、追進館という大講堂が建てられました。(写真左上)
また余談になりますが、この講堂はH18年の連続テレビ小説、「純情きらり」の舞台としても登場します。
そして現在この講堂や体育館では、月に何度か学生たちが作った農作物が、味も良く安価ということで日中に時間を決めて販売されています。この日も近所の人が車や自転車で集まって、わずか30分ほどであらかた売れてしまいました。

f0005116_163032.jpgその後日記には戸田先生や生徒たちと合流し、種畜場の牛や豚や綿羊の事が出てきますが、次の目的地の大平川に向かいます。ここの河原で、国旗掲揚塔の石を拾って持ち帰りました。

といいながら採石した場所が不明なのですが、大平橋の下手にある大平川神社付近の堰堤のある河原へ行ってみました。水の流れは意外と速く大水の時と思いますが、写真右下にあるよう手ごろな石が、堰堤の上に乗り上げて残っていました。実際には河原に転がっている石を集め、リュックなどに入れてきたことでしょう。
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# by ttru_yama | 2015-09-13 23:50 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-272 (南吉生誕102年-127)

新美南吉と刈谷の会「300回記念日」
帰ってきた「ででむし詩碑」-お休み-
f0005116_21541310.jpg刈谷市で活動されておられる「新美南吉と刈谷の会」さんが、H5(1993)年8月8日に結成して通算300回の例会を記念した、「記念のつどい」を同じ8月8日に刈谷市東部市民館にて開催されました。
写真は冒頭のあいさつをされる、代表の酒井豊さんと会場の様子です。
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掲載したのは、結成当時の様子を伝える「刈谷ホームニュース」の記事(中央から右側部分)です。これにつきましてはここにも掲載していますが、300回の長きに亘る活動は、刈谷在住で南吉の親戚筋にもあたる酒井さんの熱意と、同じく刈谷在住で、南吉作品に造詣の深い水野日出夫先生の、二人三脚による会の牽引力によるものです。

f0005116_22573765.jpg通常の例会は南吉に関するトピックスと、作品の理解を深めることが主な内容です。
しかしこの日は「赤い鳥」から生まれた童謡の合唱、「ごんぎつね」の紙芝居、朗読と盛りだくさんのプログラムでした。
f0005116_2381586.jpg安城市の南吉生誕祭にも出演された、女優の石川恵深さんは「ひよりげた」を朗読し、そのまま「南吉クイズ」の進行役をしてアトラクションを盛り上げました。

また代表の酒井さんは、「刈谷と新美南吉」と題したミニ講演を行い、新美家、竹内家(母りゑの母方)、渡辺家、酒井家の系図を調べられて、南吉日記に出て来る人々の記録を紹介されました。

「新美南吉と刈谷の会」では、興味ある方の見学を歓迎しています。定例会は、毎月第三日曜日の午前10時から行っています。お問い合わせは刈谷市東部市民館(0566-23-9138)ヘどうぞ。
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# by ttru_yama | 2015-08-11 23:46 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-271 (南吉生誕102年-126)

新美南吉-生誕式典(102年)-2(安城編)
帰ってきた「ででむし詩碑」40
f0005116_1635386.jpgいっぽうこちらは「南吉が青春を過ごしたまち」安城の中心部です。昨年までイベントが行われた旧厚生病院跡地では、平成29年度オープン予定の図書情報館を核とした、情報拠点建設工事が真っ最中です。
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駅西駐車場の巨大南吉ウォールペイント前に、今年は「おぢいさんのランプ」の本型ベンチが置かれ除幕式を迎えました。神谷学安城市長は今後も毎年一基ずつ、モニュメントを設置したいと話されました。
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ということで除幕が終わり、さっそくベンチに早川議長、神谷市長、安城高女19回生の大村ひろ子さん、下宿先の当主大見さんが座られ記念写真となりました。

ベンチ背後には、正に「おぢいさんのランプ」の書かれたページが開かれており、ランプの挿絵はこの本の装丁をした棟方志功です。

この本は巽聖歌の世話で、S17年10月に南吉の最初の童話集として出版されました。もちろん安城時代の下宿先で書かれた作品となります。そして「あとがき」には世話になった聖歌のことや、原稿の清書を受け持ってくれた三人の生徒(太田澄さん、山崎美枝子さん、大村ひろ子さん)の名前が出てきます。

今回招かれてスピーチをされた大村さんは、清書させてもらったことを誇りに思ったと話されました。それ以前にお手伝いした「手毬と鉢の子」の原稿では書きなぐったり、校正で入れ違いが入った難しいものでしたが、「おぢいさんのランプ」ではあまり書き直しが無く、内容も面白く一生懸命やらせて頂いたと話されました。
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大村さんが地元ケーブルテレビのインタビューを受けておられたので、ついでに写真を撮らせていただきました。ベンチの裏側はこのように、棟方志功の装丁した本を模した状態となっています。

スピーチの続きですが、大村さんは今も南吉先生の作品が全国で読まれ、特に安城でこのような立派な催しが開催されて、今頃天国で先生はずいぶん喜ばれておられるはず、と話されました。

f0005116_22452920.jpgところで今回の生誕祭のプログラム中に、「新美南吉に親しむ会」さんの『南吉の「夢」~取材メモ「古安城聞書」~』という、安城に明治用水を引こうとした都築弥厚に関する、南吉メモの朗読発表がありました。(写真)

大村さんはこの朗読発表にも触れられ、安城の人たちがこんなにも熱心に、新美先生に寄り添っていてくれることに感動し、今日はその喜びでいっぱいになったと話され、これからも安城の発展を祈りますとスピーチを締めくくられました。
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# by ttru_yama | 2015-08-07 23:51 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-270 (南吉生誕102年-125)

新美南吉-生誕式典(102年)-1(半田編)
帰ってきた「ででむし詩碑」-お休み一
f0005116_10312753.jpg暑い日が続きますが一昨日7/30は、南吉先生102回目の生誕日「南吉さんの日」、の式典がありました。
(下記しおり画像は縦方向を圧縮して掲載)
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f0005116_10534514.jpg開催にあたり榊原純夫半田市長は、まず生誕日の 愛称について特に小学生からの応募多数により、「南吉さんの日」とした経過経緯を話されました。
ついで昨年9月-11月にかけ華道の家元池坊が全国公募した「池坊花逍遥100選」に、矢勝川堤の彼岸花が選ばれたことを話され、その先駆けとなった故小栗大造さんから続く地元の活動にもふれました。
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その池坊・尾張支部長・田村三紀子さんは、「花逍遥100選」と公募内容についての説明をされ、校庭に咲く花が好きだった南吉先生に向け、今回の花を生けたことを話されました。(写真左)

続き一般社団法人「日本朗読教会認定講師」の、のざき のりこさんが「花」(今朝はこんなに みんなが花を 持って来てくれた)の朗読をされました。(写真右)
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続き洋菓子店のシャンポールさんが、特製のケーキ「南吉さんの日」を献納され、半田中学校合唱部により「明日」「琵琶の花」が合唱。来場者全員で献花の後、「山桃ジュース」で乾杯となりました。
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# by ttru_yama | 2015-08-01 23:55 | 新美南吉