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0910-「20世紀少年」の町-289(南吉生誕103年-144)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-1

f0005116_0465096.jpg愛知県西尾市の岩瀬文庫にて、「詩人 茨木のり子とふるさと西尾」展が開催中(2015.12.12-2016.2.21)、というのを知り先日行ってきました。彼女の詩は「わたしが一番きれいだったとき」くらいしか知りませんでしたが、この展示のチラシで「えっ、西尾が故郷?」、ということで出かけたのでした。

『茨木のり子(旧姓・宮崎圀子/結婚後・三浦姓)はT15(1926)年6月12日に大阪で生まれ、6歳の時医師である父・洪(ひろし)氏の転勤で愛知県西尾町(現・西尾市)に移り住み、西尾幼稚園、西尾尋常小学校、西尾高等女学校、東京の帝国女子医学・薬学・理学専門学校に進みます。

学徒動員された軍需工場で敗戦を迎え、戦後は結婚後 東京で24歳から詩作活動を始めます。凛とした強さや優しさ ユーモアにあふれた詩は、H18(2006)年2月17日 西東京市で亡くなった今も、多くの読者の心をとらえています。』(以上、年譜記事概略)

f0005116_3231738.jpgということで、今書いている新美南吉とあまり接点はないのですが、無理やり関連付けて見ていきますと、多少身近になる様な気になります。(笑)
茨木のり子は南吉より13年後に生まれ、幼稚園から高女まで過ごした故郷は、父の勤めた山尾病院(写真は現在地の建物)と住まいがあった西尾市内と、その後父が独立して開業した宮崎医院のある(最近西尾市と合併した)吉良町とになり、南吉の勤めていた安城と西尾は隣町同士です。彼女が西尾高女を卒業したのがS18年3月16日で、その6日後の3月22日に南吉は亡くなりました。

f0005116_327662.jpgとすれば安城高女の南吉学級だった第19回生の卒業1年後に、西尾高等女学校(写真は名鉄西尾駅東口にある高女跡碑)を卒業したわけですが、S17年7月の南吉日記に「(元安城高女の校長だった)佐治先生が西尾中学校長になるそうだ。・・(安城高女に)来ている娘3人も西尾(高女?)にかわるだろう。」との記事があります。また茨木のり子は帝国女子医専ですが、南吉の恋人だった中山ちえさんは、東京女子医専の卒業でした。
 
こんなことで多少はそんな時代の話かと、うっすら見えてきたでしょうか?
(つづく)
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# by ttru_yama | 2016-02-13 10:40 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-288 (南吉生誕103年-143)

帰ってきた「ででむし詩碑」-48
f0005116_21173736.jpgさて50年記念誌を続けます。前回は担任クラスの入学記念写真(S13)を見てきましたが、翌14年度からは県の方針で「戦時下の非常時に対応するため職員は学校付近に居住すべし」となり、4月から南吉は新田の下宿に住み込むようになります。もとは安藤らく先生が使っていた下宿です。

以後南吉はこの下宿から学校に通い、週末などに岩滑(岩滑)の実家へ帰るという生活で、食事や昼の弁当などは市内の川本という料理屋でとっていました。下宿といっても母屋とは独立した、長屋門の中の縁側もある独立した部屋で、南吉自身はこの下宿を「宿」と呼んでいました。

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(写真は左ページ上、14年度の職員写真を拡大、南吉は上段左から3人目、ちなみに13年度の職員写真はこちら)さて50年誌の内容ですが、左ページ下は2年目となるS14年12月に発行された、安城高女の同窓会報の記事「職員室近況極あらまし」(全集9巻参照)の一部で、全体としては佐治校長以下、職員、小使いさん夫婦までの近況が、南吉の手により面白おかしく(時にはかなり辛辣な皮肉も交えて?)書かれています。新美先生本人については「新田に部屋を借り、さっそうとステッキで出勤」といいように書いています。

よくこの記事が印刷へ回ったことと感心しますが、会誌の編集委員である戸田先生も目を通していることですから、職員室の楽屋話的には暗黙了解されていたのかもしれません。南吉日記の中にも職員を虫に見立てて、自分は「かまきり」校長は「風船虫」古寺先生「尺取虫」、などと書いたりしています。

右のページは第20回生の「思い出の記」で、農業の時間に豚の世話をした話や、花畑や校舎の中庭の輪洋風庭園の様子、野菜畑の手入れ、田植えなど農業実習の思い出が綴られています。
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# by ttru_yama | 2016-02-11 23:02 | 「20世紀少年」の町

0910-「20世紀少年」の町-287 (南吉生誕103年-142)

帰ってきた「ででむし詩碑」-47
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こちらは前回も小さく載っていましたが、S13年4月 南吉先生の赴任と同時に入学し、そのまま繰上がり4年後のS17年度末(S18.3)、第19回生として卒業していく いわゆる「南吉学級」の入学記念写真です。途中校長から担任替えしようかという話もあったようですが、南吉の希望により最後までクラス担任を続けました。

ちなみにここに写っている生徒数を数えると55人ですが、入学当時は56人でした。そして死亡や転校で入れ替えがあったようで卒業写真には54名が写っています。南吉先生は左端にいて坊主刈り頭のようです。担当教科は全学年の英語・1、2年の国語と農業でした。右端は安藤らく先生で、家事・作法・裁縫・農業を担当し、2年後に退職します。

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こちらの写真は「第一回卒業記念寫眞帖」にある教室風景ですので、まだセーラー服ではありませんが56人というと、1列が8人の7列並びだったわけです。

南吉日記をみていくと、生徒との間柄は最初から順調というわけではなく、一喜一憂を繰り返してよくなったり悪くなったりの繰り返しだったようです。教育的にはは芳しくはないでしょうが、先生も人間生徒も人間ですから好き嫌いもありました。それでも4年間ともに過ごし、遠足、花壇の手入れ、予選会の劇など学校での行事を数々経験していくうちに、南吉学級というものが形成されていきました。

全員が応募したわけではありませんが、そんな活動の中の一つにS14.2月から9月にわたり、全6回全員に配布された「学級詩集」がありました。戦時中の紙不足で中断を余儀なくさせられましたが、南吉自身は思い入れが強かったようで、19回生卒業後の5月、第一詩集と同名の近況通信「雪とひばり」を卒業生向けに発行しています。

19回生が卒業した翌年 南吉は病気に倒れますが、そのころ学校には卒業後も補習科に残り、南吉のクラスで学ぶ生徒たちがいました。彼女らは卒業生らと連絡を取り合い、南吉宅へ見舞いにも出かけましたが、3月22日ついに南吉は帰らぬ人となってしまいました。それから5年と8ヶ月後「ででむし詩碑」が建碑されたのは、このように4年間通じて南吉がクラス担任であったことが、大きく関わっていると思います。
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# by ttru_yama | 2016-02-07 23:39 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-286 (南吉生誕103年-141)

帰ってきた「ででむし詩碑」-46
f0005116_13373117.jpg今度は安城高等学校50年誌から、当時の様子を拾ってみます。まずS14年度1学期の「学報」からの「校旗献納」の記事(上段)があります。当時安城高女には校旗がなくS14年の2月11日の紀元節に、S13年度卒業生である第16回生の卒業記念として献納されたとあります。

下段も「学報」記事からの「国旗掲揚塔と記念の石」で、こちらはS14年度卒業である第17回生の卒業記念として、国旗掲揚塔が寄付されました。塔の献納式はS15年3月16日の卒業式直前に行われました。「記念の石」とは掲揚塔の根元に積んだ石のことで、全校遠足で岡崎の大平川から拾ってきたものです。
このあたりの話は、帰ってきた「ででむし詩碑」-39および、帰ってきた「ででむし詩碑」41にも書いています。

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南吉先生は今や安城高女(高校)きっての有名人ですから、50年誌はもちろん他の記念誌にも、ページを割いて取り上げられています。
ざっと記事を説明しますと、生い立ちから高女の教師になったこと、交流のあった文学者(白秋・巽聖歌・與田準一)や作品群が紹介され、生徒詩集の「雪とひばり」や教え子クラス(19回生)の写真や「ででむし詩碑」の写真(赤松校舎へ移転後の中庭)が載っています。
そして下段には、本となった作品群が載せられています。
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# by ttru_yama | 2016-01-27 23:32 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-285 (南吉生誕103年-140)

帰ってきた「ででむし詩碑」-45
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続いて左ページが記念誌のS14年度記事で、教師生活も2年目となります。中段上部に熱田神宮への夜中行軍記が載っていますが、その下に富士登山と夏季行事の記事があります。この富士登山(7/21-23)については、引率した先生とともに描いた画帖「六根晴天」等に、南吉の画や文が残っています。

下の写真2つは前年の関西旅行(左・13年5月/清水寺)と14年度の修学旅行(右・5月/華厳の滝)となっていますが、このときは5月に関東(4年生)と関西(3年生)への修学旅行が、たて続けにあったようです。
南吉も引率者として参加しており、13年度の関東旅行では他の先生と描いた画帖「三人道中」を残し、14年度の関西旅行の様子は日記にも書かれています。(ちなみに14年度の関西旅行でステッキを買っています)

そして年度末の春休み、久々に上京し巽聖歌や與田準一ほか、東京に住む旧来の友人や転校した生徒等と旧交を温めています。

(右ページ)S15年度の4月末、佐治校長から山崎敏夫校長に約9ヶ月かわりますが、4月の南吉日記の出来事に佐治校長は登場するも転勤の話はなく、日記は7月までとんでいます。
このページ上段には勤労奉仕のことが書かれています。出征兵士を出した農家で泥だらけになって、農作業を手伝う生徒の様子は南吉日記にも出てきます。
(このS14-15年度は、次回も取り上げたいと思います)
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# by ttru_yama | 2016-01-16 23:55 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-284 (南吉生誕103年-139)

帰ってきた「ででむし詩碑」-44
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さて次の展開をどうしようかと迷いましたが、これまで通り安城高校記念誌を見直しながら、南吉に関連した記事を見ていこうと思います。(断らない限り、主に70年記念誌に沿っていきます)

写真左はS12年度記事になりますが、この年4月南吉の恩人・佐治克己先生が安城高女の校長として赴任してきます。12年度の南吉は、4月から短期の河和第一尋常小学校での代用教員生活が7月で打ち切られ、9月より杉治商会に努め、休日も少なく低賃金の生活にあえいでいました。学校ではこの年7月校章が制定されたとあります。

写真右はS13年度記事で、右上のS13年度職員写真の3列目に南吉が見えます。この写真を説明した拡大版は帰ってきた「ででむし詩碑」-27にありますが、なぜか佐治校長の姿が写っていません。また右上に第16回卒業生が移っていますが、この年南吉とともに4年間を過ごし、卒業する19回生が入学してきます。

この13年度の4月から11月まで、初めての高等女学校教師として忙しかったためか、南吉日記は無く惜しまれます。

学校ではこの13年度末の2月に校旗献納式が行われ、南吉日記にも式の模様が書かれています。ちなみに生徒詩集「雪とひばり」が最初に発行されるのもこの2月です。そのあたりの話は帰ってきた「ででむし詩碑」-19に書いています。
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# by ttru_yama | 2016-01-07 23:45 | 「20世紀少年」の町

0910-「20世紀少年」の町-283 (南吉生誕102年-138)

帰ってきた「ででむし詩碑」43
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いろんんな記事や調べ物があったりで、すっかりご無沙汰になってしまいましたが、帰ってきた「ででむし詩碑」42 の続きを始めたいと思います。

※このシリーズでは、新美南吉の最初の詩碑である、「ででむし詩碑」がいかに建碑され、どのような経緯で移転され他の地、また戻って来たかという話を追っています。

さて図(「安城高女略図」(かつお・きんや著「人間・新美南吉」より))中に、花壇が4つ中庭に見えますが、この花壇の初期の写真が「安城高校50年誌」に載っていますので、紹介したいと思います。
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まず1つ目の写真ですが、第5回生(S5年度卒業?)の記事に築山造園をしたとあるので、その時の花壇と思われます。場所は冒頭に掲載した図の左下の中庭に「初期卒業生による記念庭園・花壇」とあります。

となると背後の校舎には職員室や会議室(及び図書室=郷土資料室)があったと思います。以前、帰ってきた「ででむし詩碑」17にて南吉関連の写真を載せましたが、よく見かける南吉先生の肖像写真は、こちらの図書室で撮影されたものです。(注、図書室は中央棟にも生徒用図書室があります)

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続いてもう1つ中庭写真があります。これも同時期できたものですが、背後が中央廊下になっています。
もしこの写真の場所が南吉学級(19回生)担当の花壇であるとすれば、その後中央には日の丸池ができ、右手前にででむし碑となる石が置かれていたことになります。
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# by ttru_yama | 2015-12-19 23:42 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-282 (南吉生誕102年-137)

安城高女グランドピアノ お披露目コンサート
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こちらは安城高女の講堂の写真(第一回卒業記念寫眞帖より)です。正面左手にグランドピアノが見えますが、その部分をかなりボケていますが、上部に拡大してみました。

そんな写真で以前、帰ってきた「ででむし詩碑」-35にて、安城高女の講堂に置かれていたグランドピアノの話や、「ででむし詩碑」-20にて、そのピアノが修復される途上の話を書いてきましたが、いよいよその修復されたピアノのお披露目コンサートが、2015.11.14 14:00 「安城市歴史博物館エントランスホール」にて行われました。

新聞や報道資料にてピアノの句(全集8、 p.487)にが紹介されています。
151「講堂に ピアノ鳴りやみ 秋の薔薇」そして、もう一つあります。
152「けどほさや ピアノのとヾく 秋の薔薇」 ※けどほさ(気遠さ)

解題にS13(1938)年秋の制作とあり、これは安城高女に勤め始めた最初の秋となりますが、ちょうど日記の書かれていない間でその頃の記事はありません。当時ピアノを弾いていたのは、音楽担当の太田あき先生かと思われますが、薔薇は講堂に程近い中庭に咲いていたものでしょう。

f0005116_1120864.jpg新聞によれば、このグランドピアノは高女から安城高校に引き継がれ、その校舎建て替え時に教職員に払い出されその家で使われていました。しかし老朽化して使われなくなり、納屋に置かれていたものが南吉生誕100年を機に安城市に寄贈され、栃木県真岡市のピアノ工房にて1年8か月かけて修復されたものです。

f0005116_11265230.jpgいよいよコンサートが始まりました。
演奏は安城市出身で国際的なコンクールでも多くの受賞をしている山本千愛(ちあき)さんで、南吉の好きだったショパンの「幻想即興曲」から弾き始め、アンコールまで10曲程を演奏し詰めかけた聴衆の喝さいを浴びていました。

山本さんは演奏の途上で、南吉ゆかりのピアノを弾くことを光栄に思いますと挨拶され、修復されピアノは繊細で温かみのある音色に甦ったと話されました。

f0005116_1241581.jpg演奏会を終えた山本さんに、ピアノの寄贈者・大岡雅子(つねこ)さんとのツーショット写真をお願いしました。
今回のピアノは安城高校の英語教師だった大岡さんの夫・故幸雄さんが校舎建替え時に譲り受けたもので、大岡さんは演奏会の後に久々のピアノの手ごたえを懐かしむかの様に、アメイジング・グレイスを弾かれていました。
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# by ttru_yama | 2015-12-09 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-281 (南吉生誕102年-136)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-6

f0005116_12531363.jpgみやま市東部の清水山にある、北原白秋と與田凖一の碑を案内していただきました。
実際の順番は逆でしたが、こちらが清水寺本坊前庭にある白秋の歌碑です。


f0005116_12563122.jpg碑には「ちゝこいしはゝこいしてふ子のきじは赤とあをもて染められにけり」とありますが、写真が清水寺の創建にも由来する雉の形をした、瀬高町の郷土玩具「雉子車(きじぐるま)」です。

白秋は亡くなる前年のS16年3月、福岡日日新聞の招きで福岡へ来ていますが、その時ふるさと柳川やこの清水寺も訪れ、この句「清水一首」を詠んでいます。
そしてその後この歌碑が白秋を慕う有志により、S33年3月21日に除幕されました。もちろん與田も帰郷して参列しています。

f0005116_21392770.jpg続いて與田の詩碑ですが、白秋歌碑のある本坊庭園より、ずっと上った山中の三重の塔近くにある、乳父観音の傍にあります。
碑文を依頼された與田は「山上水遠の なかにあって 白雲霊夢を おもう 花影月露の なかにきこえる 乳父慈悲の こえ」と記し、清水寺からの眺めや由来とともに父母への想いも込めました。

そして詩碑は 瀬高文化協会 により、S57年11月3日(文化の日)に除幕されました。ふもとに白秋の碑が出来てから24年後の與田57歳のことでした。このとき與田は、白秋先生より高い場所に碑が立つのは恐れ多いと言っていたそうです。

f0005116_2375428.jpgこちらがその除幕時の写真(記念館説明パネル)で、詩や文章を指導した教え子らに囲まれた中央の人物が與田です。
そう、與田はこれまで多くの著名な詩人、絵本作家を育てています。

また、與田の長男である準介氏も作詞家「橋本淳」の名前で、「ブルーライト横浜」等のヒット曲を生み出しています。そうは言ってもそれらは、與田をよく知る人や児童文学者など、知る人は知っているということでしょうか。

実は記念館のボランティアの方に言われた話ですが、「ごんぎつね」等で多くの教科書に載っている「南吉作品」ですが、その南吉を世に出す後押しをしたことで、地元の小学児童に「與田凖一という人」を理解してもらっている、と言われました。

つまり、「巽聖歌や與田凖一の後押しで有名になった南吉が、今振り返って二人の功績や作品の評価までも上げている」ということなのでしょう。

今までもぼんやりと感じてはいましたが、そんな話を間近に聞くと二人の愛情に包まれ、命を削って名作を紡いだ南吉の生涯も報われ、今日静かに恩返しをしていることを改めて思い返しました。今後も三人の作品が、末長く読み継がれていくことを願わずにはいられません。
(おわり)
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# by ttru_yama | 2015-11-13 21:14 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-280 (南吉生誕102年-135)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-5

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ここでは新美南吉の発行した本について見ていきます。最初に発行されたのは「良寛物語 手毬と鉢の子」(S16年10月学習社/新美南吉記念館蔵)という良寛さんの伝記物語です。
とはいえ幼少の頃の良寛については、きちんとした資料は無く、そこを南吉が想像して書いているので、幼少期部分は南吉の創作伝記ともいえます。

これ以前に南吉は大岡越前の話も書いていますが、これも創作している部分があり、そういう意味でも「良寛物語」は、大々的に南吉作品と言ってはばからない事でしょう。


f0005116_15285548.jpg次に出版されたのが、亡くなる前年S17年10月発行の、第一童話集「おぢいさんとランプ」(有光社)です。この出版には、兄貴分の先輩である「巽聖歌」が大きく関わっています。

巽聖歌著「新美南吉とその生涯」には、有光社で新人童話集で出すこととなり、関英雄、下畑卓の他に南吉が選ばれ、南吉が送ってきた幼年向き原稿に対し、聖歌は高学年向きのものを基調にするようアドバイスしています。

この頃「與田凖一」からも南吉へ、「赤い鳥」に載った作品を中心にして本を出版する話があったようで、それを知った聖歌は「地団太をふんだ」と書いています。
こうして「おぢいさんとランプ」は刊行されました。その出版記念会も予定されていましたが、南吉は体を壊し学校を休んで静養するも、翌年3月に喉頭結核にて永眠します。

f0005116_2139061.jpgそしてこちらが翌S18年3月の、南吉が没した半年後に出版された「花のき村と盗人たち」(少国民文芸選/S18.9発行)です。先述の通り南吉のもう一人の先輩である、與田凖一が関わって出版されました。

ところで残念なことに、與田とのやりとりを記した手紙は南吉全集には無く、與田凖一記念館でも見つかっていないとのことでした。日記の方でも聖歌ほども記述はなく、私もこの本が與田の世話によって発行されたことをこれまで見落としていました。

この本の出版を準備していたS17年頃、與田は帝国教育会の出版部にいたようで、おそらく聖歌と同様に、力のある後輩を育てようとしていたのだと思います。
その南吉の葬儀には、巽も與田も出ていますが、二人とも南吉に無理をさせたという自責の想いを抱かせたようで、この本のあとがき「花のき村・・・・の著者を悼む」にも二人の南吉に寄せる想いが記されています。
(つづく)
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# by ttru_yama | 2015-11-12 12:04 | 新美南吉