0910-「20世紀少年」の町-347 (南吉生誕103年-164)

鴉根畜産研究所-3
f0005116_2220357.jpg説明板にある「杉治青年学校」の朝の体操風景です。全員、朝5時30分に起床し、朝食前に「箸とらば祖先や親の恩を知れ われ一力で喰うと思うな」と唱和した後、「いただきます」で箸をとったとのこと。

その鴉根寮の大食堂の写真(下記)です。説明文には南吉も通ったとありますので、ここで三食を取ったことでしょう。

f0005116_22491259.jpg前述したように南吉が鴉根畜産研究所に勤めるのは、S12(1937)9月からの事ですが、日記には少しばかり研究所の様子が見られます。

まず飼っていた家畜ですが鶏や豚の外には、七面鳥・羊・乳牛もいたようです。ただし実際に、南吉がどんな仕事をしていたのかは書かれていません。給料でさえ12月になり鴉根から店(本社)へ転勤になってから、初めて月給20円(手取り16円)という話が出てきます。

f0005116_21455053.jpgさて話を進めながらバス通りの坂道を1区間上って、当時畜産研究所のあったという付近に行ってみましょう。
右手に高層住宅が見えていますが、「君ヶ橋住宅」のバス停より少し手前の左手に建つ、障害児用施設「愛厚 半田の里」が研究所があった付近のようです。
もちろん昔は知多鉄道・南成岩(みなみならわ)駅(現名古屋鉄道・青山駅)から歩くしかなく、入所した南吉を訪ねてきた恩師・遠藤先生の、特に奥さんのほうはすっかりくたびれて、施設を見る元気もなかったようです。

f0005116_23133538.jpgそして写真は現在その地にある「愛厚 半田の里」です。
さて給料の話に戻りますが、出納帳を見ると9~11月までは毎月3円の手当てが。支給されています。3ヶ月間は見習いとか研修期間だったのでしょう。
そして12月、初めて給料の額(手取り15円)を聞いた父・多蔵さんは憤然として、「そんなものはいらん」と言ったそうです。無理して東京の学校まで出してやった息子の給料としては、あまりにも安かったのでしょう。

f0005116_23512385.jpg坂を上って「愛厚 半田の里」の少し上方から東に向いて撮影してみました。実際の建物の位置等は不明ですが、この付近を中心に研究所や青年学校、そして畜舎等があったのでしょうか。今でも周辺は牧草地や耕作地が見られます。

そして12月7日に本社に転勤してからの南吉は、杉治商会の待遇に不満を持ってきますが、鴉根に入寮していた頃の南吉は、ここでの生活に満足していたようです。S12年10月9日の日記には、『病ひに仆れて恰度一週(ママ)年、かへりみて今日の仕合せを喜ぶ。今の自分に希望を持たすもの。ここで生活が大軆保障されるといふこと。』とあり、まだしっかり会社生活の厳しい実情を知らなかったように見えます。
例えば休みの話で言えば、休日など月に2回だけでした。
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# by ttru_yama | 2016-06-04 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-346 (南吉生誕103年-163)

鴉根畜産研究所-2

f0005116_20421786.jpg写真は前回の2つ目の地図の中央付近にマークした「榊原弱者救済所跡公園」で、手前のちびっこ広場奥の竹藪が見える所が史跡公園です。
道からの目印としては、付近に知多バスの停留所(まさに「鴉根(からすね)」)があります。

f0005116_2051799.jpgこの榊原弱者救済所跡公園は竹藪に囲まれた小さな公園ですが、説明板が8つ程あり大正から戦後まで、この鴉根地区の変遷を、写真と説明文で伝えています。
そして新美南吉についても触れていますので、今や何の遺構のかけらも残っていない鴉根にあっては、非常に意義のある公園です。

f0005116_2165578.jpg説明板等によればM32(1899)~S7(1932)年頃まで、この地に榊原弱者救済所という社会から見捨てられた弱者(孤児・老人・重病人・出獄者・女性)を救済する施設があったと言います。

施設を主宰したのは榊原亀三郎(写真)という地元半田の元侠客で、改心したのちに弱者を救済する「新しい村」を運営し、常に50人~100人が暮らし延べ1万5千人が救済されました。
施設の運営支援には亀三郎の考えに賛同した地元の名士や篤志家91人が居り、大正9年建立の「紀念碑」が残っています。

この弱者救済所には、宿舎他・武道場・礼拝施設等10棟ほどの建物と畑・牧場・果樹園がありました。明治初期までは人家も無かった鴉根の雑木林を開墾していったようです。
f0005116_22223659.jpg
昭和10(1935)年、鴉根に次に入植してきたのが、当時日本最大の飼料販売会社「杉治商会」の畜産研究所でした。

畜産研究所は写真のように、鶏舎もしくは豚舎が何棟も並び家畜は放し飼いで飼育されていました。敷地は先の弱者救済所の規模(6万6千坪)の上をいく36万坪もあり、研究施設のほか杉浦治助氏の信ずる「ひとのみち」教の布教及び、社員教育の施設である青年学校もあり、職員と学生で200余名がいたと言い、南吉もその中の一人でした。

この36万坪という規模、120ヘクタールだそうですから、1.2km×1.0km四方になります。おそらく鴉根地区のほとんどを占めてたように思います。
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# by ttru_yama | 2016-05-26 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-345 (南吉生誕103年-162)

鴉根畜産研究所-1 
f0005116_2143282.jpg新美南吉の不遇な時代の1つに、杉治商会に勤めていた畜産研究所(S12.9-12、以後S13.3まで本社勤務)時代があります。杉治商会というのは当時家畜飼料の製造販売を行っていた、杉浦治助氏(三代目、碧南出身)の会社で、大正末期に半田の鴉根(からすね)地区で養鶏飼料の製造を始め、昭和10年には全国一のシェアを占めていました。(参考「棚尾の歴史を語る会」資料 /写真:新美南吉記念館)

ただ近年 杉治商会は、飼料の原材料高騰を受け採算が悪化、破産手続きをしているようです。(2011年現在)
現在の半田市の南部・鴉根地区には、当時の鴉根畜産研究所の施設等は残っていませんが、今回はそんな歴史の面影を追ってみたいと思います。

f0005116_2153338.jpgまず半田市の大まかな地図(Google)の説明ですが、中央を縦に延びているのが知多半島道路で、上部(北)にマークしたのは、新美南吉記念館(赤〇)と、南吉生家(青〇)です。そして鴉根地区は下部(南)の楕円形(緑色)部分で、なだらかな山(丘陵地)で南は武豊町となります。

自転車でもあれば生家から通えなくもない距離ですが、全寮制が会社の方針で朝も早かったようです。
f0005116_2155347.jpgもう少し地図(YAHOO)を細かく見ていきますと、地区には東西斜めに延びる主要道があります。右端の稲荷町交差点近くには、鴉根稲荷神社(黄〇)があり、中央付近にあるマーク(赤〇)は、後で出てきますが、榊原弱者救済所跡公園です。その左側の大きな丸で囲ったのが半田更生園(青〇)で、元杉治商会の中心部があった辺りのようです。
そしてこの東西の道は左へ行くほど登り坂となっていて、緑のマーク(緑〇)が坂の頂点あたりで、鴉根のシンボル的な松の木「鴻の松」が立っていました。

f0005116_22305894.jpgさて、ほとんど手がかりの無い鴉根地区ですが、まず稲荷町の鴉根稲荷神社から見ていくことにします。鴉根山には狐が居たということで、童話「狐」にも登場します。
『「鴉根山の方にゆけば、今でも狐がいるそうだから、そっちへゆくさ」
「母ちゃんや父ちゃんはどうする?」
(中略)「父ちゃんと母ちゃんは相談をしてね、かあいい文六が、狐になってしまったから、わしたちもこの世に何のたのしみもなくなってしまったで、人間をやめて、狐になることにきめますよ」
「父ちゃんも母ちゃんも狐になる?」』
ちなみにこの鳥居は、南吉が鴉根に来た、昭和12年に建てられたものでした。
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# by ttru_yama | 2016-05-19 00:08 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-345 (南吉生誕103年-161)

0910-「20世紀少年」の町-345 (南吉生誕100年-161)
どこでも朗読会(4月21日)

f0005116_123594.jpg南吉関連の話をもう一つ。さる4月21日午後、声の贈りもの「どこでも朗読館」朗読会(主催、新美南吉に親しむ会・南吉朗読ででむし会)が、安城市の南吉下宿先にて行われました。
朗読は松丸春生氏と西川小百合氏のお二人で、1994年以来全国で朗読会を開かれ、2013年の「南吉生誕100年」でも「朗読のあるシンポジウム 南吉童話の「声」」にも出演されていますが、聞き手をぐいぐい引付ける朗読の力には定評があります。

f0005116_1292045.jpg今回朗読された南吉作品の目玉は、主催者側の目で見ると大きく言って2つあります。その1つは南吉が安城の下宿時代に書いた、良寛物語「手毬と鉢の子」で、これには当主側の大見まゆみさんも大変喜ばれました。そしてもう一つは、安城高女の南吉の教え子である加藤千津子さん(写真右)、のリクエストで実現した「鳥右エ門諸国をめぐる」でした。

加藤さんがこの作品をリクエストした理由は、この作品の副主人公・平次が、主(あるじ)・鳥右エ門に向けるある種冷めた感情を、松丸さんの朗読によってもっと深く理解してみたい、松丸さんならどんなふうにこの作品の世界を表現されるのだろう、と思ったからでした。

加藤さんがこう言われる原点には、高女時代の南吉先生が垣間見せた、ある出来事があったからでした。
それは2年生の時の予選会で先生が、「ガア子の卒業祝賀会」の配役決めをしていた時の事でした。ある生徒がブタの配役を拒んだ時、先生は「あっ、それならいいよ」と、サッと他の子に配役を回してしまったのです。

f0005116_1210444.jpg南吉先生には、そんな冷めた一面もあったのでした。その後の加藤さんは大人になってから読んだ、「鳥右エ門諸国をめぐる」の平次が時折見せる冷ややかなしぐさに、その時の南吉先生の姿が重なって見えたのでした。
また「和太郎さんと牛」の中にも、あることを除きいい嫁なのに、和太郎さんが離縁してしまう嫁が出てきます。加藤さんはこうした思いがあって、「鳥右エ門諸国をめぐる」をリクエストしたのでした。(後でお聞きすると、今回の朗読で作品をより深く感じられたとのことでした)

f0005116_1215363.jpgということで朗読は、松丸さんが①「良寛物語」、西川さんが②「子どものすきな神様」、③「(宮沢賢治)ざしき童子のはなし」以下、松丸さんが④「(宮沢賢治)鹿(しし)踊りのはじまり」、西川さんが⑤「赤いろうそく」を朗読されました。
賢治作品との対比は、作品の類似共通性(子どもの数、手拭いやろうそくを不思議がる動物たち)を味わうため、また南吉の賢治作品に対する尊敬を感じられるようにとの配慮でした。
そして松丸さんが⑥「鳥右エ門諸国をめぐる」、西川さんが⑦「でんでんむしの悲しみ」を朗読され、会は終了となりました。

お二人は「たましいで読むこと」に気持ちを集中して朗読されました。松丸さんは「たましいで読む作品の要所では<私というものは>要らない」と話されました。そういう作品は作者がたましいで書いているから<私が前面に出て読むものではない>とのことでした。その文章も(おそらく)たましいが作者を通じて書かせているから、作品の要所に出てくる「ここはたましいで読みなさい」という呼びかけを感じ取って朗読する、ということを例を示しながら話されました。
そして朗読していて、そのたましいで読むことを一番感じさせてくれる作家が、新美南吉だと言われました。
(おわり)
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# by ttru_yama | 2016-05-08 20:46 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-344 (南吉生誕103年-160)

2016年 南吉・桜巡り-3(4月4日)/(4月5日)
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本当は「貝殻碑」のある雁宿公園は半田市内有数の桜スポットなのですが、桜との構図が悪く断念しました。似たような理由で、半田中学校と岩滑小学校も割愛しました。
①ということで南吉記念館に来て、芝生広場越しに記念館を撮ってみました。②次の写真は逆の方角から撮ったもので、赤いよだれかけの六地蔵とその脇にいる「ごん」が、こちらの様子をうかがっています。

③次は市内のはずれにある「南吉の養家」の駐車場の桜です。この木も何となく後植えの感じがしますが、南吉にとっては寂しい思い出ばかりの家ですので、ある意味救われる華やかさです。ここには「墓碑銘」碑があります。
④そして知多半島の最後は、東海市にある星城大学(明徳短期大学)にある「イツノコトダカ」碑です。こちらもかなり難しい構図で、無理やり撮ったという感じになっています。
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続いて4月5日は安城編です。①何といっても1番目は、元安城高女だった安城市立桜町小学校で、②ここには「南吉のうた」庭園があり、2013年に里帰りした「ででむし碑」があります。

③桜町小学校の南西には安城公園がありますが、その裏通りの歩道(中央アスファルト)には明治用水が暗渠になって流れています。左手に掘割がありますが、こちらもその一部かと思われます。
④この安城公園には文学の散歩道があって、安城に関係した人物の碑があり南吉の「牛」という詩碑があります。
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次の写真は桜と関係のないものばかりですが、記録の為に載せました。①は市役所南の交差点から東に延びる花ノ木町通りで、少し先に今はアスファルトの下に埋もれた花の木橋があります。

花の木は南吉の「花のき村と盗人たち」の村の由来と言われていますが、少し前までこの写真の道の右手方向に「花ノ木観音」や「地蔵菩薩」があったのが、再開発で道を隔てて反対方向へ移動していました。②が移転場所になりますが、こうして地域の人に守られ存続しています。

③その再開発の中心的な存在がブルーネットで覆われ、翌H29(2017)年6月オープンを目指す「中心市街地拠点施設(愛称・アンフォーレ)」です。元更生病院のあった跡地で2013年の南吉生誕100年では、七夕まつりと合わせ付近はイベント会場となりました。

④このブルーネットの向こうの通りは御幸本町通りなのですが、その一方2012年4月28日オープンし、民間で安城の南吉情報を伝えてきた「ギャラリー&カフェ・南吉館」さんが、昨2015年12月で閉館してしまいました。(南吉を含む市内観光情報は、安城駅1Fの観光案内所「KEY PORT」で行われています)
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# by ttru_yama | 2016-04-23 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-343 (南吉生誕103年-159)

2016年 南吉・桜巡り-2(4月4日)
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①南吉生家を北に向かって行くと、矢勝川に架かる高田橋に辿り着きます。ここが町境で橋の向こうは阿久比町となります。まr橋の右手にある堤防には桜並木が連なり、一帯が「ごんごろ緑地」という小公園となっています。

②どうしてそんな名前が付いているのかと言うと、南吉童話「ごんごろ鐘」の碑があるからです。③この堤防沿いの道の先にもう一つ「ごんごろ緑地」に説明碑があります。その説明文では昔は付近に水車小屋があり、南吉も家の手伝いで米や麦を搗きながら童謡や詩を作ったとあります。

この場所に「ごんごろ鐘」の碑が置かれた経緯は知りませんが、物語の中では供出された鐘が川の堤に来たとき、「子供たちが猫柳や桃やたんぽぽなどを取ってきて鐘にささげた」というくだりがあります。
④ごんごろ緑地は名鉄河和線の線路で行き止まりとなっており、おりしも阿久比から半田方面への電車がやってきました。季節にぴったりのまさに「春の電車」です。
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①②高田橋から西を見渡すと「ででむし広場」があり、すべり台のわきにピンクの枝垂れ桜と白い山桜が咲いていました。さらにその奥には阿久比町の権現山の桜も望めました。

③権現山へ行く前に思い出して、「ででむし広場」の南側にある常福院に寄ってみますと、黒板塀の向こう側、境内を囲んで桜が見事に咲いていました。④続く写真は権現山のふもとからの眺めです。
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①権現山は本来なら狐の像のある、鳥居の所から石段を登るのですが、下の道には駐車スペースがないので山の上まで行き、「五郷社」の広場からの桜見物です。
②一帯は「植公園」となっており、黄色い「ごんぎつねの森、権現山」の幟がはためく中、遠く矢勝川堤防の向こう岸に半田市の岩滑地区が見渡せます。(中央の白い建物は岩滑北保育園)

③そして今度はぐるっと南へ大回りして、半田空の科学館南にある任坊山(にんぼうやま)公園に来ました。④こちらの公園トイレの壁面には、「ごんぎつね」と「牛をつないだ椿の木」のレリーフ(白枠内参照)があります。
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# by ttru_yama | 2016-04-20 20:19 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-303 (南吉生誕103年-158)

2016年 南吉・桜めぐり-1(4月4日)

南吉の「貝殻忌」を書いてるうちに桜が満開になったので、急きょ「南吉・桜巡り」をすることにしました。南吉碑や関連場所に行き、なるべく桜を入れて写真を撮ってくるというもので、かつて 南吉生誕100年-22頃に一度やったことがあります。
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①最初の写真は名鉄河和口駅前にある「かっぱの花ちゃん像」で、像自体はS31(1956)年に建てられ塗装が剥げたままになっていたものを、還暦の60年を機に化粧直しをして今年3月11日に除幕されたものです。

この像自体は南吉とは全く関係ありませんが、かつてこの背後の海岸は海水浴客でにぎわい、S8(1933)年8月5日の南吉日記には、弟と一緒に泳ぎに来て時志観音(影現寺)にも寄り、「(中山)夏やちゑともあった。」と書かれています。②それが次の写真になりますが、時志観音は中山家の次女が嫁いでおり、手伝いと夏休みの避暑を兼ねて姉妹がよく逗留していたそうです。(この観音像はS56年に出来たもの)

③さらに進んで河和の海岸線ですが、この海岸も海水浴で賑わった海岸です。(この背後の高速船乗り場にも南吉句碑「少女細く」があり、南吉が安城高女生徒の水泳の引率で来たようです)
④4河岸写真の右サイドの山の上に南吉がS12(1937)年4月より5か月間、2回目の代用教員をした「河和第一尋常小学校」があります。その校庭には「石何年」の詩碑(石何年 苔蒸し清水 しみわたり)があり、昨日の雨で花が寂しくなった枝垂れ桜を背景に撮ってみました。
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①河和小学校のラストは正門わきの桜です。時代がかった灰色の門柱に、桜のピンクが対象対照的なコントラストです。このあたりの話は(南吉生誕100年-26)でも少し触れています。
②そして一気に半田市まで戻り、南吉の時代はカブトビール工場だった「半田赤レンガ建物」です。近年すっかり保存や観光整備が進みましたが、裏通りのこの道筋は「大道(おおみち)」と呼ばれ、当時は岩滑から半田へ抜ける主要道で南吉もよく通った道です。
③その道を北に向かうと左手に宮池と入水(いりみ)神社(住吉神社)があります。④宮池にはカイツブリの仲間の「ひよめ」が生息し、南吉も幼いころから聞いたわらべ歌を「一年生とひよめ」に書いており、その碑が建っています。この辺りは (南吉生誕100年-38)に書いています。
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①住吉神社から大道をさらに北へ、名鉄河和線の踏切りを越すと南吉のふるさと岩滑(やなべ)地区に入ります。この河和線については(「春の電車」-その2)に書いています。
②さらにその先、右側の県道264号線を跨いで、左が南吉生家への道です。南吉の時代、県道はまだなく道はうねって岩滑部落を通っていました。
③生家の北側に(おそらく後植えかと思いますが)桜の木があります。④その先八幡社の境内脇の桜もよく咲いていました。
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# by ttru_yama | 2016-04-16 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-302 (南吉生誕103年-157)

2016年 南吉没後73年「貝殻忌」-5(3/22日-2)

f0005116_20365754.jpg次は常福院。「ごんぎつね」でも「中山さまのおとのさま」として、名前の出てくる中山氏の城があったところで、中山家の墓もあります。また作品「ひよりげた」にも、裏やぶの中に住む狸の親子のほほえましい情景が描かれています。

f0005116_2127023.jpg光蓮寺にやってきました。戦時中お寺の鐘を供出した「ごんごろ鐘」の話の舞台で、案内板にもその時の写真が写っています。浄土真宗の寺で「百姓の足、坊さんの足」では、報恩講のある雲華寺として登場します。

f0005116_22151599.jpgところで光蓮寺には南吉記念館学芸員の遠山さんが、一行を待っていてくれました。
光蓮寺は南吉の生家・渡辺家の菩提寺ではありませんが、菩提寺は半田市内でも少し遠かったので、南吉も幼少の頃より光蓮寺に出入りしており、半田市で南吉顕彰運動が始まった17回忌以降法要をされています。
そして今回はお寺のご厚意で、特別に命日に焼香をさせて戴きました。(いつも出来るわけではありません)
f0005116_2346434.jpgこの後 一行は南吉の母校で、代用教員もした岩滑(やなべ)小学校(当時は半田第二尋常小学校)に寄り、「権狐」碑や、小学校の校長だった竹内惣九郎先生の像を見学しました。

f0005116_1232698.jpgこのあと晴天の下、右手の権現山を見ながら矢勝川沿いの堤防を歩いて記念館に向かいます。秋の彼岸花で有名な堤防ですが、「今はこうなっています」とガイドさんが現在の彼岸花を示されました。(写真内白枠)
そして命日の本日は入館無料(現在・普段でも210円)という、南吉記念館へ無事辿り着きました。
記念館では午後、「蓄音機コンサート」がありました。(13:30-14:10)
(おわり)
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# by ttru_yama | 2016-04-04 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-301 (南吉生誕103年-156)

2016年 南吉没後73年「貝殻忌」-4(3/22日-1)

f0005116_22364877.jpg4日目最終日は「貝殻忌ウォーク」(9:45-11:30)ということで、ガイドボランティア 「南吉案内人」さんが、南吉のふるさと文学散歩をガイドされました。(参加無料)
集合場所は南吉生家に近い名鉄・半田口駅で、構内には「ごんぎつね」を始め 南吉作品にちなんだ絵の看板がいっぱいあります。詳しくは「春の電車-序」以降を参照ください。
f0005116_15382479.jpgさて一行(10数名)の中には、前々回(3/20)の安城「南吉・朗読会」に出演していた、石川惠深さんも参加されていましたので、生家前で記念撮影をさせてもらいました。参加者は銘々生家内を見学し、ガイドさんは生家前の常夜灯の出てくる作品を案内されました。

f0005116_16145797.jpg「狐」の舞台となる八幡社にやってきました。仲間と一緒に本郷の夜まつりに来た主人公の文六ちゃんが、神社の舞台で稚児となったトネ子の舞を見たところです。ここは生家と別宅「はなれの家」の中間にあり、南吉が毎日の様に行き来していました。

f0005116_16465895.jpg次の常福院に向かう途中ゴミ収集車に遭遇しました、半田市のは「ごんぎつね」の絵が描かれています。




f0005116_1724527.jpg常福院の手前に「はなれの家」があります。二軒の家の間に案内板があり、ここで撮った父・多蔵さんと南吉の写真が載っていますが、二軒分が渡辺家の敷地だったそうで、ずいぶん広かった訳ですが家業の畳や下駄などの倉庫も含めてだったようです。
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# by ttru_yama | 2016-04-02 20:29 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-300 (南吉生誕103年-155)

2016年 南吉没後73年「貝殻忌」-3(3/21日)
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3/21(月・振休)は半田市のアイプラザ半田にて、「貝殻忌」式典がありました。
4日間「貝殻忌」を冠したイベントが続きますが、いわゆる命日そのものを偲ぶ催しは今日の式典となります。
通常は命日の3/22に記念館で行われていますが、今年は命日が平日となるので振替休日の21日に開催されたとのことです。
この「貝殻忌」というのは、南吉の詩「貝殻」(S9.12)に因んで公募によりつけられましたが、S51(1976)年に(今回の)曲が付けられて、今年は40周年だといいます。(先の組曲はS44(1969)年完成)

f0005116_2375070.jpgプログラムに童謡が載っていますが、作曲者は「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」を作曲した大中恩(めぐみ)さん(1924~/91歳)で、父親は「椰子の実」を作曲した大中寅二氏です。
今回来賓の半田市合唱協会の近藤恭弘会長が、元青年会議所時代に作曲依頼をした頃の話をスピーチされました。作曲を依頼した当時のスタンスは市民参加型で、一般の協賛を募って運動を盛り上げ、曲が出来た際に協賛した人たちにソノシートを配布したそうです。

f0005116_2151554.jpgまた大中恩さんに作曲を依頼した際は、渥美半島には父・寅二氏の作曲した「椰子の実」碑があるので、知多半島の「貝殻」碑にはぜひ息子さんの作曲でとお願いしたそうです。
写真が半田市で最初に建碑された、南吉詩碑「貝殻碑」(S36=1961.12)で、半田市街を一望する雁宿公園にあり南吉もよく訪れた場所です。

f0005116_21175441.jpgさて式典のほうは「貝殻」のピアノ伴奏の流れる中「献花」も終わり、終始にこやかに指揮をする大中さんにより、童謡三曲が会場一体となって合唱されました。
合唱のあと大中さんは指揮と、歌う会場とのキャッチボールがとても良かったと感想を述べ、わざわざ東京から来た甲斐がありましたと話されました。そして最後に全員で南吉の「貝殻」が歌われ、大中さんに感謝の花束が贈られ閉会となりました。
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# by ttru_yama | 2016-03-31 22:18 | 新美南吉