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0910-「20世紀少年」の町-348 (南吉生誕103年-165)

鴉根畜産研究所-4
f0005116_20284968.jpg今日は少し話を変えて南吉作品と、鴉根の狐についてです。
南吉作品には「ごんぎつね」を始め、狐がたくさん登場しますが「狐」(S18年)にも「鴉根山の狐の話」が出てきます。
といっても実際に狐が登場するわけではなく、「晩に新しい下駄をおろすと狐つきになる」という迷信を素材にしている童話で、「鴉根山は狐の住みか」として語られています。村の祭りの晩に新しい下駄をおろした文六ちゃんは、帰りに「コン」と妙な咳をするようになってしまい、狐つきにあったと思い込んで、寝るときその不安をお母さんに話します。

f0005116_2138156.jpg『もし、僕が、ほんとに狐になっちゃったらどうする?』『・・いっしょに狐になるね。そうして、文六ちゃんの狐をつれて鴉根の方へゆきましょう』『鴉根って、西の方?』『 成岩から西南の方の山だよ』『松の木が生えているところだよ』『猟師が撃ちに来たら、母ちゃんどうしよう?』『そしたら、母ちゃんは、びっこをひいてゆっくりいきましょう』『猟師が来て、母ちゃんをしばってゆくでしょう。その間に、坊やとお父ちゃんは逃げてしまうのだよ』『いやだったら、母ちゃん。母ちゃんがなくなるじゃないか』

と、最後はこんな母子相互の愛があふれるお話ですが、偶然なのか鴉根の「愛厚 半田の里」の入り口モニュメントの左端には「狐」(上写真)もいます。

f0005116_22273880.jpgその「愛厚 半田の里」から坂をさらに上っていきますと、君ヶ橋住宅もはずれのほうで坂の頂上付近になります。(写真の向きは坂の下り方向)
かつてこの住宅の前あたりに、鴉根山のシンボル「鴻(こう)の松」という大木が立っていて、半田一帯、三河からも見えたと言います。

松はS7年2月に枯れたため伐られ、惜しまれその7月には同じ場所に記念碑が建ちました。(写真では松のあった辺りに、榊原弱者救済所跡公園の説明パネルを置いてみました)ということで、南吉が研究所に来たS12年には碑しか残っていなかったのですが、「狐」の中の文では「松の木が生えているところだよ」と書かれ、またびっこの母狐について「南吉と鴉根の狐パネル」の説明では、榊原救済所の伝説の狐「三本足の狐」の話があったと書かれています。

f0005116_233389.jpgこちらは戦後S22年頃の写真ですが、鴉根の農場風景です。戦争末期のS17(1942)年頃より、軍から戦闘機の増産を迫られていた中島飛行機は、半田市に飛行場と生産工場の建設を急いでいました。

工場や飛行場の建設もさることながら、従業員の増加に伴い食料増産農場として充てられたのが、鴉根研究所の農場でした。S18年杉治商会は畜禽用から食料業務に転向し、土地は中島飛行機の農場として買収されました。
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by ttru_yama | 2016-06-13 23:05 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-347 (南吉生誕103年-164)

鴉根畜産研究所-3
f0005116_2220357.jpg説明板にある「杉治青年学校」の朝の体操風景です。全員、朝5時30分に起床し、朝食前に「箸とらば祖先や親の恩を知れ われ一力で喰うと思うな」と唱和した後、「いただきます」で箸をとったとのこと。

その鴉根寮の大食堂の写真(下記)です。説明文には南吉も通ったとありますので、ここで三食を取ったことでしょう。

f0005116_22491259.jpg前述したように南吉が鴉根畜産研究所に勤めるのは、S12(1937)9月からの事ですが、日記には少しばかり研究所の様子が見られます。

まず飼っていた家畜ですが鶏や豚の外には、七面鳥・羊・乳牛もいたようです。ただし実際に、南吉がどんな仕事をしていたのかは書かれていません。給料でさえ12月になり鴉根から店(本社)へ転勤になってから、初めて月給20円(手取り16円)という話が出てきます。

f0005116_21455053.jpgさて話を進めながらバス通りの坂道を1区間上って、当時畜産研究所のあったという付近に行ってみましょう。
右手に高層住宅が見えていますが、「君ヶ橋住宅」のバス停より少し手前の左手に建つ、障害児用施設「愛厚 半田の里」が研究所があった付近のようです。
もちろん昔は知多鉄道・南成岩(みなみならわ)駅(現名古屋鉄道・青山駅)から歩くしかなく、入所した南吉を訪ねてきた恩師・遠藤先生の、特に奥さんのほうはすっかりくたびれて、施設を見る元気もなかったようです。

f0005116_23133538.jpgそして写真は現在その地にある「愛厚 半田の里」です。
さて給料の話に戻りますが、出納帳を見ると9~11月までは毎月3円の手当てが。支給されています。3ヶ月間は見習いとか研修期間だったのでしょう。
そして12月、初めて給料の額(手取り15円)を聞いた父・多蔵さんは憤然として、「そんなものはいらん」と言ったそうです。無理して東京の学校まで出してやった息子の給料としては、あまりにも安かったのでしょう。

f0005116_23512385.jpg坂を上って「愛厚 半田の里」の少し上方から東に向いて撮影してみました。実際の建物の位置等は不明ですが、この付近を中心に研究所や青年学校、そして畜舎等があったのでしょうか。今でも周辺は牧草地や耕作地が見られます。

そして12月7日に本社に転勤してからの南吉は、杉治商会の待遇に不満を持ってきますが、鴉根に入寮していた頃の南吉は、ここでの生活に満足していたようです。S12年10月9日の日記には、『病ひに仆れて恰度一週(ママ)年、かへりみて今日の仕合せを喜ぶ。今の自分に希望を持たすもの。ここで生活が大軆保障されるといふこと。』とあり、まだしっかり会社生活の厳しい実情を知らなかったように見えます。
例えば休みの話で言えば、休日など月に2回だけでした。
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by ttru_yama | 2016-06-04 23:45 | 新美南吉