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0910-「20世紀少年」の町-346 (南吉生誕103年-163)

鴉根畜産研究所-2

f0005116_20421786.jpg写真は前回の2つ目の地図の中央付近にマークした「榊原弱者救済所跡公園」で、手前のちびっこ広場奥の竹藪が見える所が史跡公園です。
道からの目印としては、付近に知多バスの停留所(まさに「鴉根(からすね)」)があります。

f0005116_2051799.jpgこの榊原弱者救済所跡公園は竹藪に囲まれた小さな公園ですが、説明板が8つ程あり大正から戦後まで、この鴉根地区の変遷を、写真と説明文で伝えています。
そして新美南吉についても触れていますので、今や何の遺構のかけらも残っていない鴉根にあっては、非常に意義のある公園です。

f0005116_2165578.jpg説明板等によればM32(1899)~S7(1932)年頃まで、この地に榊原弱者救済所という社会から見捨てられた弱者(孤児・老人・重病人・出獄者・女性)を救済する施設があったと言います。

施設を主宰したのは榊原亀三郎(写真)という地元半田の元侠客で、改心したのちに弱者を救済する「新しい村」を運営し、常に50人~100人が暮らし延べ1万5千人が救済されました。
施設の運営支援には亀三郎の考えに賛同した地元の名士や篤志家91人が居り、大正9年建立の「紀念碑」が残っています。

この弱者救済所には、宿舎他・武道場・礼拝施設等10棟ほどの建物と畑・牧場・果樹園がありました。明治初期までは人家も無かった鴉根の雑木林を開墾していったようです。
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昭和10(1935)年、鴉根に次に入植してきたのが、当時日本最大の飼料販売会社「杉治商会」の畜産研究所でした。

畜産研究所は写真のように、鶏舎もしくは豚舎が何棟も並び家畜は放し飼いで飼育されていました。敷地は先の弱者救済所の規模(6万6千坪)の上をいく36万坪もあり、研究施設のほか杉浦治助氏の信ずる「ひとのみち」教の布教及び、社員教育の施設である青年学校もあり、職員と学生で200余名がいたと言い、南吉もその中の一人でした。

この36万坪という規模、120ヘクタールだそうですから、1.2km×1.0km四方になります。おそらく鴉根地区のほとんどを占めてたように思います。
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by ttru_yama | 2016-05-26 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-345 (南吉生誕103年-162)

鴉根畜産研究所-1 
f0005116_2143282.jpg新美南吉の不遇な時代の1つに、杉治商会に勤めていた畜産研究所(S12.9-12、以後S13.3まで本社勤務)時代があります。杉治商会というのは当時家畜飼料の製造販売を行っていた、杉浦治助氏(三代目、碧南出身)の会社で、大正末期に半田の鴉根(からすね)地区で養鶏飼料の製造を始め、昭和10年には全国一のシェアを占めていました。(参考「棚尾の歴史を語る会」資料 /写真:新美南吉記念館)

ただ近年 杉治商会は、飼料の原材料高騰を受け採算が悪化、破産手続きをしているようです。(2011年現在)
現在の半田市の南部・鴉根地区には、当時の鴉根畜産研究所の施設等は残っていませんが、今回はそんな歴史の面影を追ってみたいと思います。

f0005116_2153338.jpgまず半田市の大まかな地図(Google)の説明ですが、中央を縦に延びているのが知多半島道路で、上部(北)にマークしたのは、新美南吉記念館(赤〇)と、南吉生家(青〇)です。そして鴉根地区は下部(南)の楕円形(緑色)部分で、なだらかな山(丘陵地)で南は武豊町となります。

自転車でもあれば生家から通えなくもない距離ですが、全寮制が会社の方針で朝も早かったようです。
f0005116_2155347.jpgもう少し地図(YAHOO)を細かく見ていきますと、地区には東西斜めに延びる主要道があります。右端の稲荷町交差点近くには、鴉根稲荷神社(黄〇)があり、中央付近にあるマーク(赤〇)は、後で出てきますが、榊原弱者救済所跡公園です。その左側の大きな丸で囲ったのが半田更生園(青〇)で、元杉治商会の中心部があった辺りのようです。
そしてこの東西の道は左へ行くほど登り坂となっていて、緑のマーク(緑〇)が坂の頂点あたりで、鴉根のシンボル的な松の木「鴻の松」が立っていました。

f0005116_22305894.jpgさて、ほとんど手がかりの無い鴉根地区ですが、まず稲荷町の鴉根稲荷神社から見ていくことにします。鴉根山には狐が居たということで、童話「狐」にも登場します。
『「鴉根山の方にゆけば、今でも狐がいるそうだから、そっちへゆくさ」
「母ちゃんや父ちゃんはどうする?」
(中略)「父ちゃんと母ちゃんは相談をしてね、かあいい文六が、狐になってしまったから、わしたちもこの世に何のたのしみもなくなってしまったで、人間をやめて、狐になることにきめますよ」
「父ちゃんも母ちゃんも狐になる?」』
ちなみにこの鳥居は、南吉が鴉根に来た、昭和12年に建てられたものでした。
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by ttru_yama | 2016-05-19 00:08 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-345 (南吉生誕103年-161)

0910-「20世紀少年」の町-345 (南吉生誕100年-161)
どこでも朗読会(4月21日)

f0005116_123594.jpg南吉関連の話をもう一つ。さる4月21日午後、声の贈りもの「どこでも朗読館」朗読会(主催、新美南吉に親しむ会・南吉朗読ででむし会)が、安城市の南吉下宿先にて行われました。
朗読は松丸春生氏と西川小百合氏のお二人で、1994年以来全国で朗読会を開かれ、2013年の「南吉生誕100年」でも「朗読のあるシンポジウム 南吉童話の「声」」にも出演されていますが、聞き手をぐいぐい引付ける朗読の力には定評があります。

f0005116_1292045.jpg今回朗読された南吉作品の目玉は、主催者側の目で見ると大きく言って2つあります。その1つは南吉が安城の下宿時代に書いた、良寛物語「手毬と鉢の子」で、これには当主側の大見まゆみさんも大変喜ばれました。そしてもう一つは、安城高女の南吉の教え子である加藤千津子さん(写真右)、のリクエストで実現した「鳥右エ門諸国をめぐる」でした。

加藤さんがこの作品をリクエストした理由は、この作品の副主人公・平次が、主(あるじ)・鳥右エ門に向けるある種冷めた感情を、松丸さんの朗読によってもっと深く理解してみたい、松丸さんならどんなふうにこの作品の世界を表現されるのだろう、と思ったからでした。

加藤さんがこう言われる原点には、高女時代の南吉先生が垣間見せた、ある出来事があったからでした。
それは2年生の時の予選会で先生が、「ガア子の卒業祝賀会」の配役決めをしていた時の事でした。ある生徒がブタの配役を拒んだ時、先生は「あっ、それならいいよ」と、サッと他の子に配役を回してしまったのです。

f0005116_1210444.jpg南吉先生には、そんな冷めた一面もあったのでした。その後の加藤さんは大人になってから読んだ、「鳥右エ門諸国をめぐる」の平次が時折見せる冷ややかなしぐさに、その時の南吉先生の姿が重なって見えたのでした。
また「和太郎さんと牛」の中にも、あることを除きいい嫁なのに、和太郎さんが離縁してしまう嫁が出てきます。加藤さんはこうした思いがあって、「鳥右エ門諸国をめぐる」をリクエストしたのでした。(後でお聞きすると、今回の朗読で作品をより深く感じられたとのことでした)

f0005116_1215363.jpgということで朗読は、松丸さんが①「良寛物語」、西川さんが②「子どものすきな神様」、③「(宮沢賢治)ざしき童子のはなし」以下、松丸さんが④「(宮沢賢治)鹿(しし)踊りのはじまり」、西川さんが⑤「赤いろうそく」を朗読されました。
賢治作品との対比は、作品の類似共通性(子どもの数、手拭いやろうそくを不思議がる動物たち)を味わうため、また南吉の賢治作品に対する尊敬を感じられるようにとの配慮でした。
そして松丸さんが⑥「鳥右エ門諸国をめぐる」、西川さんが⑦「でんでんむしの悲しみ」を朗読され、会は終了となりました。

お二人は「たましいで読むこと」に気持ちを集中して朗読されました。松丸さんは「たましいで読む作品の要所では<私というものは>要らない」と話されました。そういう作品は作者がたましいで書いているから<私が前面に出て読むものではない>とのことでした。その文章も(おそらく)たましいが作者を通じて書かせているから、作品の要所に出てくる「ここはたましいで読みなさい」という呼びかけを感じ取って朗読する、ということを例を示しながら話されました。
そして朗読していて、そのたましいで読むことを一番感じさせてくれる作家が、新美南吉だと言われました。
(おわり)
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by ttru_yama | 2016-05-08 20:46 | 新美南吉