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0910-「20世紀少年」の町-300 (南吉生誕103年-155)

2016年 南吉没後73年「貝殻忌」-3(3/21日)
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3/21(月・振休)は半田市のアイプラザ半田にて、「貝殻忌」式典がありました。
4日間「貝殻忌」を冠したイベントが続きますが、いわゆる命日そのものを偲ぶ催しは今日の式典となります。
通常は命日の3/22に記念館で行われていますが、今年は命日が平日となるので振替休日の21日に開催されたとのことです。
この「貝殻忌」というのは、南吉の詩「貝殻」(S9.12)に因んで公募によりつけられましたが、S51(1976)年に(今回の)曲が付けられて、今年は40周年だといいます。(先の組曲はS44(1969)年完成)

f0005116_2375070.jpgプログラムに童謡が載っていますが、作曲者は「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」を作曲した大中恩(めぐみ)さん(1924~/91歳)で、父親は「椰子の実」を作曲した大中寅二氏です。
今回来賓の半田市合唱協会の近藤恭弘会長が、元青年会議所時代に作曲依頼をした頃の話をスピーチされました。作曲を依頼した当時のスタンスは市民参加型で、一般の協賛を募って運動を盛り上げ、曲が出来た際に協賛した人たちにソノシートを配布したそうです。

f0005116_2151554.jpgまた大中恩さんに作曲を依頼した際は、渥美半島には父・寅二氏の作曲した「椰子の実」碑があるので、知多半島の「貝殻」碑にはぜひ息子さんの作曲でとお願いしたそうです。
写真が半田市で最初に建碑された、南吉詩碑「貝殻碑」(S36=1961.12)で、半田市街を一望する雁宿公園にあり南吉もよく訪れた場所です。

f0005116_21175441.jpgさて式典のほうは「貝殻」のピアノ伴奏の流れる中「献花」も終わり、終始にこやかに指揮をする大中さんにより、童謡三曲が会場一体となって合唱されました。
合唱のあと大中さんは指揮と、歌う会場とのキャッチボールがとても良かったと感想を述べ、わざわざ東京から来た甲斐がありましたと話されました。そして最後に全員で南吉の「貝殻」が歌われ、大中さんに感謝の花束が贈られ閉会となりました。
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by ttru_yama | 2016-03-31 22:18 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-299 (南吉生誕103年-154)

2016年 南吉没後73年「貝殻忌」-2(3/20日)
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3/20の記念館前広場です。入り口で手回し風琴の、優しい音色が来場者を出迎えてくれます。広場もほぼ渇きミニトレインが家族連れを乗せて人気です。お店も出てアイスや野菜を売っていました。ごんの段ボール迷路も、狭い室内から広場に移され子供たちが遊んでいました。
と、記念館のスロープを山本館長さんが上がって来られたので、写真を1枚お願いしました。館長さん始め関係者の方たちも、4日間あちこち忙しい日々を過ごされました。
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そしてこの日のリーフレットですが、左側が半田市雁宿ホール講堂でのイベントで、右が安城市観光案内所「KEY PORT」でのイベントです。

f0005116_20515520.jpg半田市の方は「貝殻忌講演会」と称し、横浜国立大学名誉教授で国語教科書や子ども読み物に関する研究に詳しい、府川源一郎氏の講演でした。
演題は「ごんぎつね」から「良寛」まで~「童心」のゆくえ~について、当時の時代背景や南吉の初期作品から、後期作品への変遷を解説されました。

f0005116_21293671.jpg安城市では安城市出身の女優・石川惠深(えみ)さんが、南吉先生の画像の前で、「牛をつないだ椿の木」の朗読をされ、最後に石川さんの貝殻笛の演奏で「でんでんむし」を全員で歌いました。
翌日は新田の下宿の家で、「ででむし会」さんの朗読もあるとのことでした。
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半田市の方では昼と同じ雁宿ホール講堂で、19:00から「貝殻忌コンサート」が行われました。都合で行けませんでしたので、リーフレットを貼っておきます。
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by ttru_yama | 2016-03-28 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-298 (南吉生誕103年-153)

2016年 南吉没後73年「貝殻忌」-1(3/19土)
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「詩人・茨木のり子とふるさと西尾」の途中ですが、今年も南吉命日(3/22)「貝殻忌」がやって来ました。こちらが半田市新美南吉記念館のメインリーフレットです。ごらんの様に今年は命日が平日〈火〉なので、式典イベントも分散して4日間となりました。
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3/19(土)の記念館の様子です。晴れてはいますが前日の雨で屋外イベントは中止となり、館内でごんの段ボール迷路、ワークショップのモビールづくり、「南吉童話おはなしの会でんでんむし」による紙芝居が行われました。
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矢勝川ぞいには、菜の花が植咲いてのどかです。その向こうには、狐のごんが住んでいたという「権現山」も望めます。
午後からの「南吉講談席」にて、「名古屋講談を聴く会」の内神田こりすさんが、「たけのこ」「花のき村と盗人たち」、洋子さんが「鳥右エ門諸国をめぐる」を講談調で聞かせてくれました。
南吉が本名・新美正八と名付けられたのは、父・多蔵さんが講談に出てくる豪傑・梁川庄八をもじってつけたという話があります。
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by ttru_yama | 2016-03-25 20:27 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-297 (南吉生誕103年-152)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-9

f0005116_2340824.jpg地図を西尾駅周辺に絞ってみました。前回のおさらいですが最初出来た西尾駅は、後に警察署に転用された話をしました。(図左部)
そして警察署から東に向かった先でみどり川を渡る橋が五條橋でした。


f0005116_0504760.jpgその五條橋から駅方向を見ると、右端に茶色い建物が見えます。もう一度地図の方を見てみると、警察署の北東に旧山尾病院というのがありますが、そちらはS7(1932)年のり子の父・洪氏が京都から西尾に移ってきた時の医院の場所で、写真の方は現在の山尾病院です。


f0005116_21372337.jpg現在の山尾病院を西尾駅前通りから見ると、H29年10月完成をめざし全面建て替え中でこんな感じになっています。
ちなみにここの交差点名は「花ノ木5丁目」になります。
同じ場所を下記のGoogleマップの地図にて、警察署・五條橋・山尾病院・西尾高女をマークしてみました。(2回クリックで拡大)

f0005116_230149.jpgと、ここで気づいたのですが、花ノ木町にある交差点名は、(おそらく耕地整理の賜物で)みどり川に架かる橋の名前とすべて合わせてあります。
つまり北から「2丁目→二條橋・・5丁目→五條橋」なので、駅前通りから目的の橋や旧市街を目指す時、例えば西尾城を目指す時は花ノ木4丁目から、四條橋を渡って真っすぐ西へ・・みたいな感じです。

f0005116_22451034.jpgところで現在の山尾病院の前には、醫学博士・山尾宰博士の碑が建っています。それによれば山尾宰氏(M34.11.30生)は当病院の初代院長でT13(1924)年5月、京都府立医学専門学校卒業、S5(1930)年8月、京都帝国大学医学部専修科終了、S7(1932)年7月1日開業、病院はS9年4月29日開設とあります。
そしてのり子の父・洪氏とは大学時代の教室で知り合ったようで、洪氏は副院長に就任しています。
図録には洪氏の生年月日はありませんが、もし二人が同年であれば開業したのは30歳の頃になります。
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by ttru_yama | 2016-03-21 23:45 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-296 (南吉生誕103年-151)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-8
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それではまた図録の地図を参照させていただきます。〈2回クリックで拡大〉地図はのり子が西尾へやってくる7年前のS3(1928)年頃の西尾市街図がベースで、左半分の緑色 (原図では黄色)のエリアが旧城下町で、
f0005116_12321548.jpg右のそれこそ京都のように碁盤の目状に整備された西尾駅周辺区域が、T14(1925)年3月創立の「花ノ木耕地整理組合」(組合長は中村謙作町長)によって開発された新興市街地です。

前回出てきた「みどり川」は、青色表示で城下町の東部を流れています。(写真/永楽橋~桜橋付近にある「花ノ木耕地整理組合碑」)

f0005116_12454020.jpg図上で西尾駅の東側に赤色で囲われているのは、のちにのり子も通った西尾高等女学校で、T7(1918)年7月に仮校舎にて開校し、翌8月にこの場所に本校舎が竣工しました。
ところで実は当時の愛知電気鉄道の線路は、みどり川の1本西筋を走っており「警察署」となっている場所が以前の西尾駅でした。思うに以上のことから京都を意識した道路計画や、四條橋などの名称は、この耕地整理計画から出来てきたように想像します。

ということで線路はこの「花ノ木耕地整理」により、S3(1928)年この地図の位置に移動し、新しい西尾駅も高等女学校に隣接して建てられたのでした。
この碑には「西尾の歴史的発展段階に於ける画期的計画により(中略)市街の中核を形成し、近代都市西尾の誕生に寄与す」と刻まれています。

f0005116_11395115.jpgこちらが移動前にあった最初の西尾駅兼本社で、M44(1911)年10月に開業しました。(写真集・明治大正昭和・西尾より)社長は岩瀬弥助といい、今回の「茨木のり子」展の会場となった、岩瀬文庫を創設した地元の事業家で、耕地整理組合の副組合長でもありました。
鉄道の開業当時は西三軌道といい西尾から岡崎新駅までを結んでいましたが、翌年改称して西尾鉄道となり、T4(1915)年8月、その後のり子が移り住む吉田町の吉良吉田駅までが開通しています。

f0005116_12415316.jpgこの旧西尾駅舎はS5(1930)年から、(図にも描かれていますが西尾)警察署として使われましたが、屋上から八ツ面山方面を俯瞰した様子(写真参照)が、同写真集に残っています。
解説によれば写真中央を斜めに縦断する白い道が、かつての線路跡で現在は2車線の道路になっています。そしてわかりにくいですが、その右手に並行して木々が連なっているところが北浜川(みどり川)です。
ちなみにこの建物は現在ありませんが、五條橋の筋で西側が吾妻町の駐車場になっています。
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by ttru_yama | 2016-03-17 22:17 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-295 (南吉生誕103年-150)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-7

f0005116_20542133.jpg八ツ面山からの眺望を少し見てみましょう。写真はちょっと霞がかっていますが、西尾市街をズームしたもので左の横長のビルは大型スーパー・アピタ西尾店で、鉄道の名鉄(めいてつ)西尾駅はその向こう側に隠れています。

その西尾駅の東口には、のり子の通った西尾高等女学校がかつてありました。また当時住んでいた家は駅西口の向こう側でした。駅から八ツ面山へは直線で2kmです。
写真中央や右端のビルは駅前周辺の高層マンションで、今の西尾市は名古屋への通勤圏内となっています。城下町西尾のシンボル西尾城は、写真の背景方向ですが霞んでわかりません。

f0005116_2372362.jpgさて西尾の観光パンフレットには、よく「小京都西尾」という言葉が使われています。確かに今でも市内には古くからの寺院や町並みが残っていますが、まあ観光宣伝的なイメージ目的が強いので、なるほどと思う人もいればそれほどでもという人もいるかもしれません。ただ「全国京都会議」という団体に、愛知県では西尾市だけが参加しています。

ということで八ツ面山から東の方向を見ると、小京都を感じさせる由縁の一つである万燈山(まんとうやま/145.9m/写真)が、直線距離で4.5km先に見えます。山頂付近に三日月を伏せたような弧が見えますが、「かぎ万燈」というお盆の行事で束ねた108の柴に火を点け、戦国時代に戦で亡くなった死者の霊を弔ったものといいます。また万燈山のふもとにある長圓寺の肖影堂には、家康により初代京都所司代を任ぜられた板倉勝重が祠られています。

f0005116_12532288.jpg万燈山の頂上付近には小さな石の祠が建っていますが、そこから南西6.5km離れた西尾市街を見渡すとこんな感じです。地平線上の中央が先ほどの市街域で、右手にうっすら八ツ面山も見えています。山の斜面の黄枯れたところで「かぎ万燈」が焚かれます。のり子もお盆の夜には、明るく燃え盛る「かぎ万燈」を眺めたことでしょうか。

f0005116_13534736.jpgもうひとつ小京都を感じさせるのが、城下町の東部を流れる北浜川(市内中心部の流域はみどり川と呼ぶ)に架かる橋の名前で、他の名前の橋も交えながら北から南へ二條橋から六條橋まであります。
ということでこちらは四條橋にある市内を循環する、「六万石くるりんバス」のバス停になりますが、のり子が西尾時代に住んでいた家も近くにあります。
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by ttru_yama | 2016-03-13 23:45 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-294 (南吉生誕103年-149)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-6

f0005116_238191.jpg愛知県で西尾市といえば「お茶」の生産が有名で、(他県での知名度は芳しくなさそうですが)、特に抹茶の原料としては京都府とトップクラスを争っており、市内北西部にある稲荷山近辺にはごらんのような茶畑が広がっています。

西尾の茶栽培は古くからありましたが、明治期に一段と盛んとなり、のり子が京都から西尾にきた頃には、一番茶を摘む時期には近隣から800人もの茶摘み女が集まったそうです。
f0005116_118223.jpgこちらは市内一円で見られる自販機ですが、コーヒーとともに西尾茶が売られています。土産品等も もちろんお茶なのですが、最近は抹茶ロールケーキなどに力を入れています。

さて西尾はかつて「三河国幡豆郡吉良(きら)荘」といって、足利氏の流れを汲む・吉良(きら)氏が治めていました。のり子が16歳の時父・洪氏が後に開業する幡豆郡吉田町も吉良荘です。その吉田町は戦後合併して吉良町となりました。

かつてこの吉良町の領主だったのが、忠臣蔵で有名な吉良氏の末裔・吉良上野介でした。のり子も後年弟・英一氏と吉良家の菩提寺を訪れています。そして先(2011年)の合併で、吉良町を含む幡豆郡の町村は西尾市に吸収されました。

f0005116_2353151.jpgということで、吉良荘とか吉良家の名称となった、雲母(うんも/きらら/きら/とも読む)の採掘された西尾市の八ツ面(やつおもて)山にやってきました。八ツ面山は西尾市の北部域にあり、南の標高67.4mの男山と北の39mの女山の2つのピークを持っています。

写真は山の東南から撮ったもので、市街地は左手方向にあって眺望が開けているので、昔から小学校の遠足やピクニックによく利用されました。また昔は二峰の谷間に遊園地がありましたので、おそらくのり子も来たことと想像します。

f0005116_124133.jpg男山の中腹にその雲母抗の跡が残っていました。雲母は続日本紀の中に和同6(713)年、税として朝廷に献上された記録があり、婦人病・頭痛の医薬、江戸時代には京都で屏風や襖の装飾材料となりました。
海外にも輸出された産出量でしたが、明治33年崩落事故があり採掘は中止され、昭和6(1931)年小学生が過って転落死したことをきっかけに、この1ヶ所を残しすべて埋められました。まだのり子が京都の幼稚園に行っていた頃です。

f0005116_12471684.jpgこちらは愛知県の伝統工芸品でもある、西尾の郷土玩具「きらら鈴」です。
明治の崩落事故以後 死者の霊を慰める為、人々が木の枝に鈴を下げたものが「きらら鈴」で、雲母を練りこんで焼き固めた素朴な土鈴です。
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by ttru_yama | 2016-03-10 20:45 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-293 (南吉生誕103年-148)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-5

f0005116_22152666.jpg参考図書として「花神ブックス1 茨木のり子」を手に入れました。まだ中途読みですが、読んでいくと多くの友人から見た「茨木のり子」の詩、人物像、夫婦像などが語られています。
中でも圧巻なのが「櫂」の同人でもあった、詩人・大岡信(まこと)氏との対談です。そこには大岡氏によるのり子の詩評、人物評があり、それに答えるのり子自身の言葉が出てきます。

エッセイ「はたちが敗戦」や「第一詩集を出した頃」等の文章でも、のり子の詩の生い立ちや立ち位置を理解するのに役立ちますが、こちらは対談形式なのでそのままの言葉で表現され、対談相手も詩人仲間故、詩作に関する拝啓がより掘り下げられています。

そういう話も出てきますが、さりげなく娘時代を過ごした西尾についての、のり子の感想が述べられています。実はこれからのり子の過ごした当時の西尾について、古い写真などを見ながら紹介していこうかと思っているのですが、(愛知県の人間からみたら)ちょっと残念な感想を持っていたようです。

f0005116_23241838.jpg『私は物心ついたら愛知県で育っていた、(中略)京都でも暮らしましたし、幼稚園のとき愛知県にまいりました。
ただ例えば大岡さんが三島でお育ちになった、という形での根付いた感じはなくて、やはりよそ者的だった。今、甥なんか見ますと三代目で、根付いてますけどね。』とあります。(幼稚園写真/図録より)

ただよそ者的という扱いをのり子が感じたのは、ある意味しょうが無かったかもしれません。父・洪氏は患者の貧富等にとらわれない、町にうち解けた面倒見の良い医師だったそうですが、のり子は西尾の一般の子から見たら、お金に不自由することのないお嬢さんで、はたまた生まれついてのキリッとしたルックスもあいまって、他の子どもたちからしてみたら、何か近寄り難かったのではなかったかと想像します。(この辺りは日記を読む機会があれば、確認したいところです)

また「女の子のマーチ」にある、「男の子をいじめるのは好き」という場面は、いじめにあった弟・英一氏をかばうためにした事実だそうです。何か理不尽なことがあると、男の子にも向かっていったのでしょう。

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そしてこの図録には素晴らしい地図が載っています。この図も使わせていただいて、のり子の育った西尾を巡ってみたいと思います。(拡大は図を2回クリック)
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by ttru_yama | 2016-03-04 23:46 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-292 (南吉生誕103年-147)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-4

f0005116_2243575.jpgGoogleマップにより、愛知県の概略地図と、西尾市の位置を確認しておきましょう。愛知県の県庁所在地は、赤〇で囲った名古屋市の中心部にあります。
愛知県には大きく言って2つの半島があり、左の半島(知多半島)と名古屋市周辺区域を「尾張」といいます。ことのついでに言えば、新美南吉が生まれ育ったのは知多半島の半田市です。

あとの東の区域を「三河」といいますが、右の斜めに突き出た半島(渥美半島)と、その付け根辺りの豊橋市から上部の山間区域までを「東三河」といいます。そして残った部分が「西三河」となりますが、茨木のり子(T15・6・12-H18・2.17)が大阪で生まれ、そして5歳の時京都から移り住んだのが、青〇で囲った西尾市で「西三河」の南部にあります。また新美南吉は、西尾の北隣にある安城の高等女学校の先生でした。

f0005116_22364756.jpg(「詩人 茨木のり子とふるさと西尾」図録より、掲載許可 以下「図録」とします)さてこちらが、のり子3歳の時の父母との写真です。
父・宮崎洪(ひろし)氏の生家は、長野県善光寺の門前にある味噌・醤油の商家で、金沢医学専門学校卒業後、病院勤務、スイス ベルン大学に留学、帰国後 済世会大阪病院耳鼻咽頭科医長となり、のり子が生まれています。

母・(旧姓・大滝)勝(かつ)さんは、山形県東田川郡三川町東沼村の豪農の生まれで、鶴岡高等女学校を出ています。ことのついでに言えば、詩人・のり子の良き理解者で生涯の伴侶となる三浦安信(やすのぶ)氏も医師で、出身は山形県鶴岡市です。
写真は3歳とのことで大阪時代なのですが、写真館で撮ったような写真です。2つ違いの弟・英一氏は次の写真に写っています。
f0005116_2233740.jpg二人は実に仲の良い兄妹で、小学校の のり子の日記を見ると二人とも成績優秀ですが、運動会の競争ではのり子が一等で英一氏は五等だったとあります。小学二年生の作文「私のをとうと」には、「わたしのぼうや」とか「かはいいおかしいこ」と書かれています。

英一氏は後に医者となり、父・洪氏が吉良町に建てた宮崎病院を継ぐのですが、姉思いでのり子の詩「売れないカレンダー」にも「いったい ぜんたい 毎日何をしとるんだや?」と、東京の姉に電話で気遣いしている下りがあります。
また夫に先立たれた晩年の のり子を心配し、東京に住む息子の治氏に時々のり子の様子を見やるようにさせています。ただ自分が先に逝ってしまうのですが・・。
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by ttru_yama | 2016-03-02 23:45 | 茨木のり子