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0910-「20世紀少年」の町-281 (南吉生誕102年-136)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-6

f0005116_12531363.jpgみやま市東部の清水山にある、北原白秋と與田凖一の碑を案内していただきました。
実際の順番は逆でしたが、こちらが清水寺本坊前庭にある白秋の歌碑です。


f0005116_12563122.jpg碑には「ちゝこいしはゝこいしてふ子のきじは赤とあをもて染められにけり」とありますが、写真が清水寺の創建にも由来する雉の形をした、瀬高町の郷土玩具「雉子車(きじぐるま)」です。

白秋は亡くなる前年のS16年3月、福岡日日新聞の招きで福岡へ来ていますが、その時ふるさと柳川やこの清水寺も訪れ、この句「清水一首」を詠んでいます。
そしてその後この歌碑が白秋を慕う有志により、S33年3月21日に除幕されました。もちろん與田も帰郷して参列しています。

f0005116_21392770.jpg続いて與田の詩碑ですが、白秋歌碑のある本坊庭園より、ずっと上った山中の三重の塔近くにある、乳父観音の傍にあります。
碑文を依頼された與田は「山上水遠の なかにあって 白雲霊夢を おもう 花影月露の なかにきこえる 乳父慈悲の こえ」と記し、清水寺からの眺めや由来とともに父母への想いも込めました。

そして詩碑は 瀬高文化協会 により、S57年11月3日(文化の日)に除幕されました。ふもとに白秋の碑が出来てから24年後の與田57歳のことでした。このとき與田は、白秋先生より高い場所に碑が立つのは恐れ多いと言っていたそうです。

f0005116_2375428.jpgこちらがその除幕時の写真(記念館説明パネル)で、詩や文章を指導した教え子らに囲まれた中央の人物が與田です。
そう、與田はこれまで多くの著名な詩人、絵本作家を育てています。

また、與田の長男である準介氏も作詞家「橋本淳」の名前で、「ブルーライト横浜」等のヒット曲を生み出しています。そうは言ってもそれらは、與田をよく知る人や児童文学者など、知る人は知っているということでしょうか。

実は記念館のボランティアの方に言われた話ですが、「ごんぎつね」等で多くの教科書に載っている「南吉作品」ですが、その南吉を世に出す後押しをしたことで、地元の小学児童に「與田凖一という人」を理解してもらっている、と言われました。

つまり、「巽聖歌や與田凖一の後押しで有名になった南吉が、今振り返って二人の功績や作品の評価までも上げている」ということなのでしょう。

今までもぼんやりと感じてはいましたが、そんな話を間近に聞くと二人の愛情に包まれ、命を削って名作を紡いだ南吉の生涯も報われ、今日静かに恩返しをしていることを改めて思い返しました。今後も三人の作品が、末長く読み継がれていくことを願わずにはいられません。
(おわり)
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by ttru_yama | 2015-11-13 21:14 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-280 (南吉生誕102年-135)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-5

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ここでは新美南吉の発行した本について見ていきます。最初に発行されたのは「良寛物語 手毬と鉢の子」(S16年10月学習社/新美南吉記念館蔵)という良寛さんの伝記物語です。
とはいえ幼少の頃の良寛については、きちんとした資料は無く、そこを南吉が想像して書いているので、幼少期部分は南吉の創作伝記ともいえます。

これ以前に南吉は大岡越前の話も書いていますが、これも創作している部分があり、そういう意味でも「良寛物語」は、大々的に南吉作品と言ってはばからない事でしょう。


f0005116_15285548.jpg次に出版されたのが、亡くなる前年S17年10月発行の、第一童話集「おぢいさんとランプ」(有光社)です。この出版には、兄貴分の先輩である「巽聖歌」が大きく関わっています。

巽聖歌著「新美南吉とその生涯」には、有光社で新人童話集で出すこととなり、関英雄、下畑卓の他に南吉が選ばれ、南吉が送ってきた幼年向き原稿に対し、聖歌は高学年向きのものを基調にするようアドバイスしています。

この頃「與田凖一」からも南吉へ、「赤い鳥」に載った作品を中心にして本を出版する話があったようで、それを知った聖歌は「地団太をふんだ」と書いています。
こうして「おぢいさんとランプ」は刊行されました。その出版記念会も予定されていましたが、南吉は体を壊し学校を休んで静養するも、翌年3月に喉頭結核にて永眠します。

f0005116_2139061.jpgそしてこちらが翌S18年3月の、南吉が没した半年後に出版された「花のき村と盗人たち」(少国民文芸選/S18.9発行)です。先述の通り南吉のもう一人の先輩である、與田凖一が関わって出版されました。

ところで残念なことに、與田とのやりとりを記した手紙は南吉全集には無く、與田凖一記念館でも見つかっていないとのことでした。日記の方でも聖歌ほども記述はなく、私もこの本が與田の世話によって発行されたことをこれまで見落としていました。

この本の出版を準備していたS17年頃、與田は帝国教育会の出版部にいたようで、おそらく聖歌と同様に、力のある後輩を育てようとしていたのだと思います。
その南吉の葬儀には、巽も與田も出ていますが、二人とも南吉に無理をさせたという自責の想いを抱かせたようで、この本のあとがき「花のき村・・・・の著者を悼む」にも二人の南吉に寄せる想いが記されています。
(つづく)
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by ttru_yama | 2015-11-12 12:04 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-279 (南吉生誕102年-134)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-4

f0005116_2215219.jpg南吉の代用教員期間は、S6年の4-8月までの期限付きでした。
退職した翌9月に巽聖歌や與田たち、白秋門下の同人がS5年3月から立ち上げた「チチノキ(乳樹)」(與田準一記念館蔵)の同人となり、10月号から作品を発表していきます。
南吉の「巽聖歌」あての手紙(S6.9.18)『・・”チチノキ”とあなた方先輩の童謡集の出るのを待つてゐます。與田さん(こんな風におよびしては失禮ですか)の童謡集は・・』(全集12)
この中の手紙にも出てきますが、南吉は高等師範の受験のため12月上京し巽聖歌の下宿を訪問します。

f0005116_22161029.jpg高等師範は失敗したものの翌S7年、東京外国語学校に入学、聖歌宅に下宿し與田とも親交を結びます。「ごん狐」が赤い鳥に掲載されたのは、この年の1月号です。(右写真)

残念ながらS7年の南吉日記は無いのか見つかっていませんので、S8年の「青春日記」へとびます。
南吉の「青春日記」(S8.5.17)『与田さんが来たので”カナヅチ”を見せたら、ほめてくれた。・・古い童謡ノートを見せたら、なかなかいゝものを持つてゐるとお世辞でなく(与田さんの言によると)言ってくれて力を得た。聖歌が駄目と言ったものに与田さんは眼をつけてくれてゐる。・・聖歌の様なデリケートなものには縁が遠い。』

ここで分かるように巽聖歌のことは、食事だとか病気の時とかいろいろ世話になっている割に、「聖歌」と呼び捨てで、與田のことは「与田さん」と呼んでいます。どちらも南吉より8歳年長の、同い年なのですが・・。
ところで「青春日記」にも、白秋と三重吉の袂別れの話が出てきますが、與田はS8年2月白秋の後を追って「赤い鳥社」を退職します。
先述の年譜によれば、その後任で愛知県刈谷出身の「森三郎」が編集者となったとあります。同じく白秋門下の南吉の「赤い鳥」への投稿も、同年4月号をもって終了していることが残念です。

f0005116_23404021.jpgそれはさておき、写真は與田が最初に自費出版した童謡集「旗・蜂・雲」(S8.6アルス/與田準一記念館蔵)で、13ページもの序文を白秋が書いています。
くしくも、この出版記念会に南吉も同席しており、7月10日の「青春日記」に少し書かれています。

いずれにせよ南吉サイドの見方からすれば、こういう南吉の東京時代の聖歌や與田との交友が、その後南吉自身の作家としての出版にも大きな影響を与えていきます。
(つづく)
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by ttru_yama | 2015-11-02 23:45 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-278 (南吉生誕102年-133)

與田 凖一のふるさとを訪ねて-3

f0005116_15573777.jpg続いてこちらも訪問順とは違いますが、代用教員となった與田が、T13年から勤めた隣町の八女郡「下妻尋常小学校」(現・筑後市立下妻小学校)です。このように小学校教員となったのも、南吉と境遇が似ています。
與田は前年の12年から「赤い鳥」に投稿していますが、最初に採用(白秋選)されたのは「霜夜」(4月号)という詩でした。T14年に訓導となった與田は、児童に自由詩を指導しつつ、とともに「赤い鳥」に投稿していきます。

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與田が下妻尋常小の4年生を教えていた頃の写真(記念館蔵)が残っています。(中央右)

こののち「赤い鳥」には翌T13年6月号に母校の下庄小6年生の投稿詩が見られ、続く7月号には下妻小1年生の詩が載っています。ちなみにこの7月号には、野村七蔵の名で「巽聖歌」の投稿詩、「お山の廣つぱ」(赤い鳥初出)も掲載されています。

f0005116_12514331.jpgついでながら吉田定一編、「与田準一年譜」には、T12年頃から「聖歌」と同人誌の交換をしたという記事があり、その聖歌はS2年4月 キリスト協会の仕事で近郊の久留米にやってきます。

写真は記念館にある展示資料でT15年「赤い鳥」11月号に載った、與田の「雨の日」と近隣熊本の投稿少女で與田も指導した海達公子(4年)の「ぼたん」、そして下妻小5年の下川すまえの「空」を1枚に纏めたものです。

f0005116_23542089.jpgちなみにこの号には、他にも與田の詩と教え子の4作が載っています。またこの頃與田はガリ版刷りで、4年生と記念詩集「雀の青空」を作っています。
大きなシミがあったりして外装はボロボロになっていますが、背綴じをテープで補強して大切に扱われてきた感じをうけます。これを見ると南吉の安城高女時代の生徒詩集、「雪とひばり」を想い起させます。

そしてこのT15年8月の夏休み、與田は初めて上京し北原白秋と鈴木三重吉を訪問しています。
翌年1月 隣校の水田小学校に転任しますが、健康を害し3月退職しますが、久留米に来た聖歌らとともに、各地の「赤い鳥」投稿仲間と同人誌「棕梠」を刊行しています。

f0005116_075235.jpgS3年與田は、東京馬込村緑ガ丘の白秋を頼って上京、この頃與田が描いた白秋邸(木造洋館)のスケッチが、先に寄り道した白秋記念館に残っていました。
S4年には聖歌とともに、白秋の弟が経営する出版社「アルス」に入社し、翌5年8月「赤い鳥」に入社します。

新美南吉の詩「ひかる」(新美正八名にて掲載)と「ひる」、童話「正坊とクロ」が、「赤い鳥」に掲載されるのは、その翌年S6年6・7・8月号のことになります。この頃南吉は母校の代用教員でした。(つづく)
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by ttru_yama | 2015-11-01 22:55 | 新美南吉