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0910-「20世紀少年」の町-269 (南吉生誕103年-124)

帰ってきた「ででむし詩碑」-39
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再び第三校舎の図(かつお・きんや著「人間・新美南吉」より)に戻りますが、中央付近校庭に「号令台」があり、その手前に「掲揚塔」というのがあります。

f0005116_17325710.jpg掲揚塔には日章旗が掲げられました。(写真/50年誌より)塔の基部はコンクリートの四角い枠で囲われており、生徒が腰かけられるほどの高さでした。枠の内側には石が詰められ、千津子さんたちも遠足の時、川の石を持ち帰ったそうです。

その関連で、50年誌にある「学報S15年1学期号」の記事を要約します。国旗掲揚塔は第17回生卒業記念として寄付(約77円)され、以後記念日や式日に国旗を掲揚。その基部に全校遠足のおり、大平川上流(美合)より持ち帰った石が入れてある。(3/10) 献納式は卒業式(3/16)の直前に行われた。

この遠足(学報では3/10)の様子が、南吉日記では3/14あたりからの出てきます。この日南吉は昨年亡くなった生徒の命日で、岡崎の正覚寺へ参ってから遠足の目的地、美合の種畜場(追進農場)にて遠足隊と合流します。

『その遠足は今度の卒業生が卒業記念に・・掲揚塔の根元を埋める小石を追進農場の近くの川へ拾ひにゆくのが目的であつた。』この追進農場とは現在の愛知県立農業大学にあたり、大平川というのは乙川かその支流付近と思われます。また3/17の日記には、卒業予餞会で生徒に演じさせた「ガア子の卒業祝賀會」の話もでてきます。

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掲揚塔の手前にあったのが料理教室(割烹教室)でした。(T13(第一回)卒業記念寫眞帖より)普通科の千津子さんらは、あまり作ることはなかったようですが、いわゆる基本的な日常の料理を勉強したようです。
料理教室への出入りは図の左下、中央廊下からのみ出来ました。
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by ttru_yama | 2015-07-28 23:50 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-268 (南吉生誕102年-123)

帰ってきた「ででむし詩碑」-38
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前回校庭での駆け足とか、行進の話が出てきましたので、ことのついでに「(高女)7回生のクラス写真」(50年誌)を使って、かつて校庭にあった池の話をしておこうと思います。上部に組み入れたのは前回の第三校舎ですが、この南東に愛知県をかたどった池がありました。

この池は戦後のアルバムには見られなくなっていますが、19回生だった千津子さんの時代には存在していました。池が愛知県の形だったというのは後に知ったそうですが、初夏には藤棚に花が咲き、池の周囲をぐるっと回る事が出来て、生徒には人気の場所だったそうです。

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かなりアバウトですが、池のあったおおよその位置を示しておきます。池自体は出てきませんが、南吉日記には校庭の隅にあった木の話がでてきます。

『いい天気だ。晝食をすまして運動場に出ていつた。生徒は誰もゐない。校庭の南の棟の木にのつてふりあほぐとこまかい薄紫の花が今さかりである。』(全集12、S14.6.2)
(全集には「棟」とありますが「楝(おうち)」の誤植ではないかと思っています。「楝」はセンダンのことで5~6月に淡紫色の花をつけます。)もう一つあります。

『僕は運動場をつつきつて、東南隅の芝生によい日蔭をつくつている若葉の櫻の下に仰向けに一本のバツトをふかす。・・(生徒)が機械体操をしている聲がする。僕がそこへいつて尻あがりを下手くそにやる。大勢見てゐたのがどつと笑ふ。』(全集12、S14.5.19)とありますが、どちらも池周辺の出来事のようです。

またこの図では右上に「実習場」というのが描かれていますが、生徒が農作業している写真がアルバムにもみられます。日本のデンマークと言われた、安城の高等女学校らしさがうかがえます。池の手前の建物は農業倉庫で、その後ろは屋外便所でした。ただし冬場は寒くて、生徒には人気がなかったようです。
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by ttru_yama | 2015-07-19 23:55 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-267 (南吉生誕102年-122)

帰ってきた「ででむし詩碑」-37
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一番南側にある「第三校舎」の写真((第一回)卒業記念寫眞帖より)です。もちろんその南には広い校庭が広がっていました。
目立つ特徴としては、右端の校舎の屋根のひさしが、他よりも長いことです。下に図面を載せましたが、ここは理科教室でひさしの長い部分は廊下部分で、右手方向の校庭の便所や、農業倉庫への通路となっていました。

理科教室の隣は(理科)準備室で、この付近に水槽を載せた鉄塔らしきものが立っています。古い図面の方にはこの付近に井戸のマークがあり、24回生の卒業写真にも水槽が写っています。
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その隣が人体模型等のあった器械標本室(地歴準備隲)でした。運動会などではこの図の左窓辺から、プログラムに合わせてレコードを流しました。

続いて地歴(博物)教室、校舎間を横断する一番広い中央廊下を挟み、洗濯・染物実習室(料理教室)となっています。(「愛知縣安城髙等女学校敷地及校舎平面圖」部分(安城市歴史博物館))
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このあたりで19回生に聞き書きした「安城高女略図」(かつお・きんや著「人間・新美南吉」より)の部分図も見ておきましょう。
この頃になると、校舎の縁には芝生が貼られています。写真でも確認できますが、中央廊下前の校庭には号令台があり、朝礼ではここから校長先生の訓示があったと思われます。冬は朝礼の前に駆け足が行われました。

皆登校すると運動服に着替え、各自自由にレコードに合わせて駆け足しをします。音楽が終わると学年ごとに整列し朝礼が始まりました。一方、夏は行進の練習です。軍艦行進曲(守るも攻めるも黒鉄の・・)、愛国行進曲(見よ東海の空あけて・・)、軍隊行進曲(シューベルト)に合わせ足並みそろえて行進しました。少しずつ戦時色も強まってきた頃でした。
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by ttru_yama | 2015-07-14 23:48 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-266 (南吉生誕102年-121)

帰ってきた「ででむし詩碑」-36
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続いて作法室((第一回)卒業記念寫眞帖より)です。作法室ではお茶の作法や礼儀作法を学びました。卒業生のクラス会「雪とひばりの会」もここで開かれ、その後の詩碑除幕式では会合の場所となり、詩碑の拓本が配られたりしました。

前述した「学報あさかぜ」の続きには、
『作法室で遺品と写真が展示され克明に記された日記などに新しい涙を催した。紅葉が夕陽に染まってカサカサなっているのを見ながら会が果てても一同はいつまでも去り難い思いで座っていた。』
とあります。以前書いた関連記述はこちら。これは同僚だった、戸田紋平先生の書いた文だといいます。

事のついでに言いますと、S14年の2月から発行された生徒詩集「雪とひばり」は、全部で6冊にわたり、①雪とひばり(2月)、②縁側の針(3月)③沈丁花と卵(4月)、④麦笛(5月)、⑤五月雨の土蔵(6月)、(7-8月夏休み)、⑥星祭り(9月、用紙不足のためこの回にて休刊)まで作られ、生徒応募作は月ごとにすべて採用されました。

f0005116_79740.jpg講堂から作法室付近までの図を見てみましょう。(かつおきんや著「人間・新美南吉」より)
講堂の入口は2つあり、下(北側)の入口に近いピンポン室のあった棟は、全学年の教室が置かれていましたので、この廊下はいつも行列が出来ました。また入口前の花壇の角には後に「ででむし詩碑」となる石を前面に後にも石が組まれ、その背後には芭蕉だとかバナナの木が植わっていました。

講堂前入口側の廊下には、大きな鏡が取り付けてあったそうです。生徒たちはここで身なりを確認して入ったことでしょう。

また講堂の上(南)の入口は図では土間から上がるように見えますが、実際はそこまでは廊下で周ピアノのあった音楽室や、作法室へはいったん土間のすのこ板を渡っていきました。作法室の写真右手方向には、槙の生垣で囲われた日本庭園がありました。関連記事がこちらにもあります。
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by ttru_yama | 2015-07-07 23:29 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-265 (南吉生誕102年-120)

帰ってきた「ででむし詩碑」-35

これより校舎の説明ですが、嬉しいことにかつての南吉学級「安城高女19回生」であった、加藤千津子さんのお話をうかがうことが出来ました。それらも交えて見ていこうと思います。

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まず安城高女の講堂です。((第一回)卒業記念寫眞帖)
上はT13年3月の写真で基本的には南吉時代も、戦後になってもそう大差はないと思います。講堂はもちろん入学式や卒業式など重要な行事の行われる場所でしたが、戦時色の濃くなってきた頃には、長椅子を片付け武術の練習をしている写真もあります。(70年誌)

朝礼などは運動場で行われ、雨天の時は中央廊下で体操を行いましたので、講堂が使われることはありませんでした。時には後方に卓球台が置かれ、放課後などにピンポンをすることもあったそうです。
ところで左端にグランドピアノが置かれています。映画「琥珀のような空」に出てきたピアノなのでしょうか。おそらく戦後まで、同じピアノが使われたと思っていますが確証はありません。

音楽室にも先の「生誕100年」で復活した「周ピアノ」があり、生徒が弾くことも出来ましたが、音楽を担当していた太田あき先生からは、どちらも良いピアノだから大事に扱うようにと言われたそうです。他にもオルガンが10台とかあったのでしっかり練習し、ピアノを弾くには先生の許可が必要だったといいます。

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こちらは「 80年誌」にある講堂の写真で、下部の長椅子部分を少しカットしています。こちらにも左端にグランドピアノが見えます。四大節の行事や音楽会、もちろん卒業式では「蛍の光」「仰げば尊し」「安城高等女学校校歌」がこのピアノで伴奏されました。

卒業と言えば南吉による脚本で、19回生が2年生の時 卒業予餞会で演じた「ガア子の卒業祝賀會」なる演目も、この講堂で披露されました。残念ながら千津子さんの出番はなかったようですが、特にピアノの伴奏や舞台衣装があるわけでもなく、セーラー服姿そのままで演じました。
舞台はそれほど広くなくクラス全員で合唱などする時など、端の人は落ちないように必死にこらえていたそうです。

この講堂はS23年11月20日の「ででむし詩碑」除幕の際、式典が行われた場所でもあります。「帰ってきた ででむし詩碑-27」にも書きましたが、「学報あさかぜ」6号(S23.12.20発行)によれば、

『去る11月20日、・・講堂には、先生の恩師佐治克己先生、前校長山崎敏夫、平手信行先生始め直接教えを受けた人達が参集され生徒の有志と加えて殆ど一ぱいであった。追懐談、碑文の解説、絶筆となった童話「疣(いぼ)」の朗読、など若くして逝った作家を偲ぶにふさわしいしめやかな中に嬉しく床しい催しであった。』
と書かれています。 
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by ttru_yama | 2015-07-02 20:41 | 新美南吉