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0910-「20世紀少年」の町-264 (南吉生誕102年-119)

帰ってきた「ででむし詩碑」-34

先の「帰ってきたででむし詩碑-31」にて、河合弘氏が戦後の学制改革にて安城高校となった、旧安城高女の「ででむし詩碑」を訪ねた話を書きました。

その関連で「新美南吉に親しむ会」代表の澤田さんから、過去の安城高女や安城高校の資料をお借りしました。そこには貴重な写真が入っておりましたので、今回から振り返って「旧校舎の写真」や、「ででむし詩碑」の手がかりをなぞってみたいと思います。

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安城高校(旧安城高女)の校舎を、上から撮った写真がありましたので、2つの写真を組み合わせてみました。上が「安城高校50年記念誌」よりS30年頃の校舎風景(編集・ 部分)で、下が戦前(大正・昭和初期?)の「安城高女の絵葉書」(個人蔵・部分)です。第二校舎の奥にあった講堂の様子がわかります。

S30(1955)年頃とわかるのは、運動場の右上一角に図書館が出来ていることからです。そして右端の第一校舎が、木造の2階建ての「北校舎」(上写真)に変ったのは、S(1951)26年3月(90年記念誌)だといいます。

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S35(1960)年2月に第二・第三校舎は、一部4階建ての鉄筋新校舎(本館)となります。(80年誌)

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そして木造2階建ての「北校舎」も、S46(1971)年3月に鉄筋一部4階建て校舎となります。(80年誌)そしてS53(1978)年12月23日、これら桜町校舎の閉校式が行われ、翌S54(1979)年1月8日、安城高校は赤松に移転し、開校式が行われたのでした。

この時 2年前に結成された「新美南吉に親しむ会」を中心にした有志が、1月早々より「ででむし詩碑」の移転反対陳情を行い、一時は受け入れられたかに見えましたが、反対にあい詩碑は3月下旬に移転してしまったのでした。
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by ttru_yama | 2015-06-22 23:09 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-263 (南吉生誕102年-118)

帰ってきた「ででむし詩碑」-33

f0005116_293240.jpg墓石の裏側へ回ってみますと、前回の母の追悼文などが確認できます。左が母「志やう」さんで、右が河合弘氏のものです。

弘氏の方には、著書「友、新美南吉の思い出」の冒頭にも出て来る、南吉の詩「手紙」の一部が彫られています。かなり見づらいのですが次のように見えます。
「河合ヨ。 雪ノ日ノ手紙 イタゞイタ。 君ノ手紙ハ遠クカラ来て、 私ノココロニ ヤサシクフレル。 」
実際の詩はまだ長いのですが、墓碑の方は最後の結びの部分が彫られています。
「ウン くりすますガ 来ルネ。 君ノトコヘモ ココヘモ。 河合ヨ アシタヲ待ト(タ?)ウヨ。新美」とあります。

「手紙」の詩はS13.12.13の作品で、南吉が安城高女に勤めた年の暮れ、まさに「くりすます」が来る前に書かれています。そして南吉が大垣の河合家を訪ねたのは、翌年の12月26日のことになります。
河合氏の墓碑の側面には、
「昭和五十六年十月三十一日 悲しみのうちに 妻 道 之を建つ」とあります。河合氏は亡くなられた当時、東京に住んでいましたので、おそらく妻の道(みち)さんが墓碑に夫の親友の詩を刻み、母の傍へ建てられたことでしょう。その道さんも亡くなられています。

f0005116_333638.jpg寺の住職に河合家の位置を訪ねましたが、わからないとのことでした。現在の大垣市は「奥の細道」のむすびの地として、平成15年度から関連の句碑を川沿いに22基設置しています。

圓通寺もそのコース上にあり、14番目の「わせの香や分入る右は有そ海」の碑が、門前に建っています。様変わりした街の様子を、天国の二人はどのように眺めていることでしょう。
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by ttru_yama | 2015-06-16 09:22 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-262 (南吉生誕102年-117)

帰ってきた「ででむし詩碑」-32

f0005116_17341378.jpg前述した河合氏の著書「友、新美南吉」によれば、河合氏は東京外語を卒業した後大垣に帰るとすぐ、肺結核を患い自宅での療養生活を何年も送ることとなります。そんな病床の氏を慰めたのが、南吉との手紙のやり取りなのでした。

前回見舞いのため大垣を訪れた、S14年12月28日の南吉日記(訪問は26日)の一部を紹介しましたが、河合氏も著書の中にその日のことを書いています。
『新美だな、とすぐ分かった。とつぜん、やって来たのだ。・・温かそうな茶色の背広を着て、もの静かな社会人になって。・・ばかに大きな菓子箱を持って来た。』

『うちにおける君の評判はよかった。母など行儀のいい人だとほめる。あれは生徒の家庭訪問などで慣れているのだろう。それにしても、ー・・息子はいつまでも病気していて、ーというような愚痴は金輪際もらそうともしなかったが。』

そして小康を得た時には、大垣城を案内したり、南吉の職場である安城高女を訪ねたことも書かれていますが、その時のことを記述した南吉日記は見つかっていません。

f0005116_023178.jpg圓通寺にて河合家の墓に詣でました。
左が弘氏の墓で、右が先ほどの記述にもあった、弘氏の母「志やう」さんの墓のようです。
母の墓の裏面には、
「母の押すおば車は いつまでも動いていき 停まることはないようであった 弘」
と彫られており、南吉に息子の病気のことを愚痴にしなかった、優しい母の面影をにじませるような追悼文です。志やうさんは昭和46年7月15日95歳で亡くなられたようです。

そういえば関連は不明ですが、南吉の詩にも亡くなった実母が乳母車に乗って登場する「春風」や、「乳母車」という詩があります。
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by ttru_yama | 2015-06-08 09:45 | 新美南吉