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0910-「20世紀少年」の町-261 (南吉生誕102年-116)

帰ってきた「ででむし詩碑」-31

f0005116_9325925.jpgこの先、安城高女から安城高校への変遷と詩碑の状況をみてゆくつもりですが、詩碑が移転するまでの出来事も書いておこうと思ったのは、前回の「聖火」に寄稿した河合弘氏(写真は著書「友、新美南吉の思い出」/大日本図書より)の記述があったからでした。

河合氏は岐阜県大垣市の出身で、東京外国語学校時代は仏語部の文学好きの学生でした。ある日英語部の南吉が声をかけた所から二人の交遊が始まっていきます。その様子は「青春日記」にも出てきますが、河合氏の記述により更に深く南吉の素顔に触れることができます。

f0005116_10253428.jpg河合氏について私は本に出て来ること以外には知りませんが、出身地の大垣市へ行ってきました。
大垣市の中心部には1500年代に造られ、その後再建された大垣城があり、関ヶ原の戦いでは西軍の拠点ともなりました。江戸時代には大垣藩が置かれ戸田家10万石がこの地を治めました。

f0005116_10441671.jpgそんな大垣城から数100M西に戸田家の菩提寺「圓通寺」があります。入口に立派な山門があり、写真左奥の敷地には歴代藩主の墓が並んでいますが、その手前左手に河合氏の眠る墓があります。

ところでS14年12月28日の南吉日記には、26日に河合家を訪れた記録があります。
『両側に柳の竝んでゐる水の多い川のそばで、・・教へられたお寺のそばへ来た。・・報恩講をしてゐる寺の前を通って東を向くと、・・高い松の木二本をうしろに持った小さい家が見えた。』

『しばらくといふと「よく来たな」といひ、「あまり變らんな」と云ひ足した。・・美しい頭髪は以前のやうにながく、あの貴族的な丸みを持った細長い顔は以前より少し太ったかのやうに見えた。』
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by ttru_yama | 2015-05-30 15:00 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-260 (南吉生誕102年-115)

帰ってきた「ででむし詩碑」-31

f0005116_23172979.jpgかくしてS23(1948)年11月20日、新美南吉(細かくいえば新美正八先生)の「ででむし詩碑」は除幕されたのでした。(写真は現在の桜町小学校にある詩碑)

おそらくこの詩碑は、その後も安城高女の同窓会が開かれるたび、教え子たちに先生の記憶を思い起させる「記念碑」となったことでしょう。しかしいくら生前に「おぢいさんとランプ」が出版されたといっても、当時まだ南吉は無名の作家でした。

南吉先生が世に知られるようになったのは、兄と慕った巽聖歌の献身的な努力に負うところですが、教科書に「おじいさんのランプ」(S28年初掲載)や「ごんぎつね」(S31年初掲載)が載ってからの事と思います。

ということで元々の建碑理由も、安城高女の同僚や同窓生のみぞ知るプライベートなものだっただけに、その後年月とともに学校内でも詩碑のことは忘れ去られていったようです。

f0005116_151385.jpg東京外語時代の南吉の友人で、後に「友、新美南吉の思い出」(写真)を記した河合弘(1915-1981)氏が、南吉顕彰活動に関わり出したS38(1963)年当時の、詩碑の様子を顕彰会の会誌「聖火」に寄稿しています。(以下引用)

『・・この石に刻まれた詩は、これも写真ではひじょうに鮮明のようにおもいこんでいたが、あさい彫りなので、あんがい読みにくい。それに拓本でもとった跡らしく、あちこち墨のよごれもついていて、ますます読みずらくなっている。

・・この石のまわりは、石ころでいっぱいである。工事であまった石ころの捨ててあるなかに、無造作に詩碑が転がっているようにみえる。校舎の棟と棟のあいだの空き地で、ろくに草も生えていない。ただ一本、やせた椎の木が石のそばに立っていて、申しわけのように葉をつけている。』


この頃の安城高等学校で起きていたのは、旧の木造校舎が鉄筋コンクリートの新校舎へ切り替え工事(S36年2月完成)だったのでした。河合氏が見た風景は完成後のS38年ですが、それでも記述にあるように「ででむし詩碑」も、この工事には無関係でいられなかったようです。
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by ttru_yama | 2015-05-26 21:05 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-259 (南吉生誕102年-114)

帰ってきた「ででむし詩碑」-お休み

新美南吉より2つほど年長で、愛知県刈谷市出身の童話作家に森三郎がいます。20歳の時「赤い鳥」に初めて投稿し、次いで同社の編集者となり、いろんな筆名を使って「赤い鳥」に作品を投じます。ただ二人がどの程度お互いを認識していたのかは、よくわかっていないようです。

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ところで以前にも紹介させて頂いた「新美南吉と刈谷の会」代表の酒井さんと水野先生は、この「森三郎刈谷市民の会」にも属されており、お声がかかりましたので、第3回「森 三郎に親しむ集い」(5/17 刈谷市中央図書館)を見学させて頂きました。酒井さん、近藤会長の挨拶に続きプログラムが進行して行きます。

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初めに紙芝居「おばあさん」(左)と、文学散歩「森三郎童話と刈谷」が上演されました。「おばあさん」の話は、おばあさんが りんごに閉じ込められていた小鳥を解放してあげたお礼に、願い事を3つかなえられるという物語です。

また「文学散歩」では「目ぐすり」や「乳母」(右)という作品を紹介しながら、森三郎と作品の舞台である刈谷とのを関わりを探っていきます。解説は水野先生で、写真や資料を使いながら作品の背景や当時の刈谷の様子をわかりやすく解説して行きます。

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他にもヘルマンハープによる「赤い鳥」童謡の演奏(左)や、「三郎童話のイメージ画」紹介、紙芝居「雪こんこんお寺の柿の木」(右)が上演され、盛りだくさんの内容でした。なお「イメージ画」は図書館2階の展示コーナーにて5/30まで開催されています。
「森三郎と市民の会」の活動内容や、問い合わせにつきましては、こちらに詳細があります。
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by ttru_yama | 2015-05-19 11:28 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-258 (南吉生誕102年-113)

帰ってきた「ででむし詩碑」-30
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この5/6に新美南吉を特集した番組が、BS朝日で放送されました。番組名は「黒柳徹子のコドモノクニ」といい、今回の放送タイトルは「美智子さまが愛した童話作家 新美南吉 名作『でんでんむしのかなしみ』誕生秘話」です。(以下、写真は同番組より)

この番組では雑誌「コドモノクニ」(T11年~S19)に登場した作家の素顔を紹介しており、放送では最初に南吉の「ごんぎつね」、ついで「コドモノクニ」(S6.9)に掲載された「風」という詩が紹介されました。

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そんな南吉作品のひとつ「でんでんむしのかなしみ」に感銘を受け、皇后美智子さまは「国際児童図書評議会世界大会」(H10)のビデオ基調講演にて同作品を取り上げられました。

「でんでんむしのかなしみ」のあらすじは、自分の背中の殻に「悲しみが一杯つまっている」ことを嘆いたでんでんむしが、その後誰もが悲しみを持っていることを知って嘆くのをやめるという作品です。

番組はその後、南吉が教え子に宛てた葉書や、南吉の遺作を世に出した巽聖歌のこと、そして女優・中井貴恵さんが「ごんぎつね」の住んでいたという権現山や南吉の生家・下宿先を訪ね、関係者から南吉の伝えたかったメッセージや短かった生涯を探っていきます。

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そんな中井さんが訪問した先に、南吉の教え子である加藤千津子さんがいました。加藤さんは当ブログ『帰ってきた「ででむし詩碑」』シリーズにも度々名前が出てきますが、安城高女時代の南吉先生を現在に伝える「語り部」的な方です。

加藤さんは南吉先生が「世の中の人ってねぇ、尽くしても尽くしてもなかなか理解してくれることがなくってねぇ」と、独り言を言われたエピソードを紹介されました。加藤さんは心が通じ合えずに、ごんが兵十に撃たれてしまう「ごんぎつね」の不条理性を例にあげ、これが南吉作品の永遠のテーマではと語られました。

話が当ブログとして我田引水的になりますが、『帰ってきた「ででむし詩碑」』の話も、ある意味不条理性の物語です。加藤さんも「ででむし詩碑」の里帰りには、教え子の一人として大きな役割を果たされたのでした。
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by ttru_yama | 2015-05-09 12:00 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-257 (南吉生誕102年-112)

帰ってきた「ででむし詩碑」-29

f0005116_99078.jpgゴールデンウィークも始まり新美南吉記念館では、県外ナンバーの車が目立つようになりました。権現山風景も菜の花の黄色が終わり、今はポピーの赤が咲き誇っています。

さて「ででむし詩碑」ですが、今日は碑に刻まれた碑文の話です。すでに書いた通りこの詩は生徒詩集「雪とひばり」の序文として書かれたもので、冊子の発行月はS14年2月となっています。

f0005116_9431888.jpgそしてこの碑文については、帰ってきた「ででむし詩碑」-26でも少し書きましたが、「新美南吉と親しむ会」会誌「花のき」十一号に、神谷昭平先生が蝸牛詩碑の筆跡」と題して考察を述べられています。(写真同ページより転載)

例によってそのあたりを、抜粋および要約させて頂きます。
『・・正面に、南吉が昭和十四年第一生徒詩集「雪とひばり」の巻頭に載せた「はじめに」と題する詩を、略々そのまゝの字体で九行に刻み、右に正八の署名、左下やや離れて昭和一四年二月の日付がある。・・』(以下要約)

・蝸牛詩碑の筆跡についてはいろいろある。
・説①佐治校長が刈谷高女に転任する際、南吉に書かせたものを原本とした。
・説②碑の文字を書いたのは、習字、農業を教えていた古寺研珠先生。
・筆跡やその他から判断して、「古寺先生が生徒詩集の文字を復元する役を請け負ったのでは」と推測。
となっています。

現在の詩碑と、拓本の「位置関係」を下に示しておきます。
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by ttru_yama | 2015-05-02 23:45 | 「20世紀少年」の町