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0910-「20世紀少年」の町-256 (南吉生誕102年-111)

帰ってきた「ででむし詩碑」-28

話が長くなっていますので改めて説明をしますが、ブログはかって移動していた新美南吉の最初の詩碑である「ででむし詩碑」が、H25(2013)年の「南吉生誕100年」を機に、34年ぶりに元の場所に帰って来たという話を追っており、現在は詩碑の成り立ちを見ています。

f0005116_11232688.jpgということで再び大野秋紅氏の「新美南吉ノート」の6ページにある、尾藤(旧姓杉浦)さちさんの記述に戻ります。

『同封いたしました当時のクラス会の案内・・をもとにして前後を思い出して見ました。』(以下要約を列挙しますが、前回のアルバムに出てきた先生の名前は青表示しました)

・この案内状「雪とひばり」の会の、前年秋(S21年秋)に同窓会があった。
・その当日佐治先生より碑の建設の声がかかり、募金箱が置かれ一般同窓生からも寄付を募った。
・このことで担任クラスとしても、翌年に「雪とひばり」の会を持つことになった。(S22.2.5)
・そのため半田へ先生の遺品を借りに2・3度通った。1度は戸田先生も一緒だった。
・食糧調達が難しく先生方を除き、各自弁当持参となった。
・予想外の出席者で作法室に飾った遺品や遺影も、コの字型に並べたテーブルにいっぱいだった。
大村先生の(南吉先生と一緒に行った)滝の画や、戸田先生が大島紀行のスケッチも持ってきた。
・建碑の費用は予定には足らず、ありあわせの石に碑文だけ刻んでもらった。
・S23年11.20午後、講堂にて除幕の記念式が行われた。

この除幕式の様子を前述の「学報あさかぜ」で見ると、
・出席者は恩師佐治克己先生、来賓の前校長山崎敏夫、平手信之先生、在校生一部と同窓生。
・遺懐談(山崎先生)、碑文の解説(戸田先生)、絶筆童話「疣(いぼ)」の朗読(生徒自治会長・広瀬恵美子)
とあります。
(余談ながら童話「疣」には「克己」という少年が登場します。恩師佐治先生はS15年に刈谷高女に転勤しています。)

また、この日の様子を尾藤さちさんは、
佐治先生はあまり目立たない存在で、息子の墓ができたような心境と思われた。
・最後の帳じり合わせに日新堂の特別寄付があった。(この日の幹事は加藤千津子さん)
・記念品として古寺先生の(採った?)石ずり(詩碑の拓本)が配布された。
と書いています。(要約なので表現が実文と若干異なります)
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by ttru_yama | 2015-04-27 23:32 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-255 (南吉生誕102年-110)

帰ってきた「ででむし詩碑」-27
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ここで安城高女に勤務した、S13年4月のアルバム写真(新美南吉記念館)をベースに、「ででむし詩碑」が除幕された時の関係者を見ておくことにします。

主要人物を白丸で囲みましたが、上段が南吉先生本人、その下が戸田紋平先生、左にいって大村重由先生、右端が古寺研珠先生、四角枠は恩師・佐治克己先生です。

ところで当ブログは現在、大野秋紅著「新美南吉ノート」の「蝸牛詩碑」考の5ページ付近を見ていますが、後の「蝸牛詩碑」補遺にて(安城高女学報)「学報あさかぜ」6号(S23.12.20発行)の発見により、除幕式をS23.11.20としています。

ということで先にその記事を見ていきますが、(著者も指摘するように)「×新実→〇新美」というような誤植を適宜修正して紹介します。

『新美南吉先生の詩碑完成 新しい鋭いセンスと温かい涙と柔い魅力に富んだ筆致で童話の獨特の世界を拓いた新美南吉(正八)先生が・・教壇に立ち、本校に在籍(実際には病気解雇)のまま30歳の若い生涯を終えたことは本校の誇りである。』

『彼の作品中随所に本校の生活が表われて来るが、見様によっては素朴な純真な安城乙女たちとともにした5年の教壇生活は彼の最も華やかな生気に満ちたものではなかったかと・・詩碑を建てるもくろみをしていたが、今回漸く実現の搬びとなった。』
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『(詩文省略)・・講堂の入口の芭蕉の下に木曽川から齎された大きな花崗岩がある。その側面に先生の筆跡をそのまま拡大して此の詩が彫られた。去る11月20日、・・講堂には、先生の恩師佐治克己先生、前校長山崎敏夫、平手信行先生始め直接教えを受けた人達が参集され生徒の有志と加えて殆ど一ぱいであった。追懐談、碑文の解説、絶筆となった童話「疣(いぼ)」の朗読、など若くして逝った作家を偲ぶにふさわしいしめやかな中に嬉しく床しい催しであった。』 

(図/かつお・きんや著「人間・新美南吉」にある「安城高女略図」部分図に詩碑の位置場所を書き加えたもの)

そして、この記事を書いたのは戸田先生で、この後転任されたとあります。
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by ttru_yama | 2015-04-20 20:15 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-254 (南吉生誕102年-109)

帰ってきた「ででむし詩碑」-26

さてここからは前回の話の、同窓会の開催日などの疑問点です。

(「新美南吉ノート」によれば)
・南吉担任の第19回生は昭和17年10月に第2回クラス会を開いたが、恩師南吉は病気のため不参加。
第2回は戦後22年2月5日学校の作法室を借りて行われた。参加者26名。
(第2回が重複していますが、昭和17年10月のが第1回では?)
・先の同窓会の砌(みぎり)佐治先生御発案により先生の記念碑建立のだんどりとなり・・
(この昭和22年2月5日向けの案内状に「先の同窓会」と書かれている)

(「ごんぎつねのふるさと」によれば)
・昭和二十一年の秋、卒業以来第二回目の同級会を行なった。
同じころ、安城高女の同窓会が開かれた。その席上、元校長だった佐治克己氏が、南吉の記念碑を校内に建てることを同窓生や先生方に提案、・・記念碑を作るための活動がはじまった。
(ここでは第2回目は昭和21年秋となっていて、2回目の同級会と同じころ同窓会が開かれている

(ここからは私の推測ですが)
「雪とひばり」の会の案内状の内容からすれば、昭和22年2月5日の会の前に一度(たぶん小規模な)「先の同窓会」があったように思います。それが昭和二十一年の秋だったのかもしれません。そこで佐治校長の「南吉記念碑」の発案があって機運が盛り上がり、大々的に卒業生に呼びかけたのが昭和22年2月の案内状だったのでは・・。つまり卒業後、会は3回あり22年の「雪とひばり」の会の時に、多くの卒業生が基金を持ち寄ったということではなかったでしょうか。


f0005116_10212585.jpg次に詩碑建立の経過を見ていきます。
(「ごんぎつねのふるさと」によれば)
『・・南吉ののこしていった原稿用紙を寄付金の記念品に使うことになった。・・碑文には、生徒詩集第一集の巻頭を飾った「ででむし」の詩を使うことになった。当時の書道担当の古寺先生が筆をとり、中庭にあった花崗岩に掘られた。』

(「新美南吉ノート」によれば)
『この席で戸田氏が・・原稿用紙・・を基金として協力購入の斡旋をした。席上には平手校長・前校長佐治(建碑提案推進者)荒井の二氏(三氏?)も出席していた・・』

(写真は会誌「花のき」十一号にある、神谷昭平先生の記事「蝸牛詩碑の筆跡」ページより転載、なおその記事で寄付金20円は今の一万円位に当たるとされています)
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by ttru_yama | 2015-04-09 11:16 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-253 (南吉生誕102年-108)

帰ってきた「ででむし詩碑」-25

大石源三著「ごんぎつねのふるさと」、大野秋紅著「新美南吉ノート」をベースに、南吉記念碑(ででむし碑)が生まれた経過を見ていきたいと思います。2つの著書には日付などの相違点もあります。

(「ごんぎつねのふるさと」によれば)
f0005116_0554928.jpg『昭和二十一年の秋、・・卒業以来二回目の同級会を母校の作法室で行った。恩師を偲ぶために、南吉の写真を飾り、童話集や日記(写真・昭和十四年ノートⅢ/新美南吉全集より)、原稿、ノート、洋服、ネクタイなどを・・多蔵から借用して、会場に展示。自分たちの日記や作文帳なども持ちよって、在りし日の南吉を偲んだ。』

その後、借用した日記や原稿を返しに岩滑の実家を訪ねた杉浦さち、山口千津子、馬場貞らに、多蔵(写真/南吉のふるさと半田より)は、「何もお礼をするものはありませんが、これを正八の遺品とおもって、もらってやってください」といって、昭和十二年と昭和十四年の日記四冊・・原稿数編を贈った。』
ということで、これらは現在記念館に保管されています。

f0005116_827155.jpgこの中で遺品の貸し出しにあたった人で、新美南吉に親しむ会遍「安城の新美南吉」には、大村ひろ子さんの名も出ています。
加藤(旧姓山口)千津子さんによれば、この時遺影や日記の他、眼鏡・万年筆も借り受けたそうです。当時半田へは電車もありましたが、借受の際は衣浦湾を渡船で半田へ渡られたとのことです。

(「新美南吉ノート」によれば)
この同窓会の時の案内状には『「雪とひばり」の会開催のお知らせ』と書かれていたとあり、それには
『・・このように先生の感化の中に生きて来た私共でしたのに今まで真に先生への敬愛の心を何等形に表はす事もなく過して参りまして、先生の霊に申し訳なく思って居りました所、先の同窓会の砌(みぎり)佐治先生御発案により先生の記念碑建立のだんどりとなり、母校の庭にささやかでも皆さんの誠心を集めることになりました。』

『・・私共が中心になって先生の業績を偲びたいと思ひ、・・左の様に級会を開くことになりました。・・日時 昭和22年4月 日 /場所 安城高等女学校作法室 /持参品 弁当・先生の遺影、遺書、遺品等 /会費 20円 寄附金』
とあります。(日時の正確なところは、大野氏の調査により昭和22年2月5日と確かめられました)

この中にある「会費 20円 寄附金」が、南吉記念碑(ででむし詩碑)建立のための基金となったわけです。
(細かい話はまた次回に)
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by ttru_yama | 2015-04-05 00:42 | 新美南吉