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0910-「20世紀少年」の町-252 (南吉生誕102年-107)

帰ってきた「ででむし詩碑」-24

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昨日は南吉先生72回目の命日(貝殻忌)が、新美南吉記念館にて催されました。
写真はその様子の一部ですが、「新美南吉 詩碑の散歩道」の著者・小野敬子さんが、「貝殻」の詩と「ひとつの火」を朗読し、それにアイリッシュハープ演奏家のMISAさんが演奏を添え、献花のあと半田少年少女合唱団が「貝殻」と「明日」を合唱しました。

その中で小野さんは、この1月に亡くなられた南吉顕彰の功労者・大石源三先生との思い出に触れられました。小野さんが大石先生と出会ったのはS46.12の婦人大学講座の時で、先生は2台の観光バスで岩滑に来た文学散歩の一行を温かく迎えられたとのことでした。

今回朗読された「ひとつの火」はその日のバスの中でも朗読されたそうですが、司会の遠山学芸員さんも大石先生の功績に触れ、先生のともした南吉顕彰の火を後世の者が、受け継いでゆきたいと話されました。

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ところで写真背景は記念館側から臨んだ権現山風景ですが、菜の花が満開でこの日記念館では『菜の花と「春の電車」』イベントも同時開催されました。

そして「春の電車」と言えば、2013.8.31の「春の電車」-序からシリーズで紹介してきましたが、南吉生家最寄り駅・名鉄半田口駅に描かれたワキタヨシコさん(写真右)の絵「春の電車」です。この日は広場のワークショップで陶器のごんに絵付けする指導をされていましたので、手に菜の花を持って写真を撮らせていただきました。

広場では名鉄のミニトレインが乗客を乗せて走り、記念館の入り口にはワキタさんの描いたイラストも貼られていました。(写真左) 薄曇りでしたがおだやかな南吉先生の命日でした。桜の花も来週には見られることでしょう。
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by ttru_yama | 2015-03-23 05:26 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-251 (南吉生誕102年-106)

帰ってきた「ででむし詩碑」-23

f0005116_2254023.jpg「前述した大野秋紅氏の「新美南吉ノート」によれば、S17.3に最初に送り出した19回生のクラス会は、その年の10月にあったと書かれていますが、その時 南吉先生は病気のため不参加でした。

そして学校をS18.1月から休み自宅療養をするのですが、病状が思わしくないという話はすぐ卒業生に広がり、何人かは見舞ったり手紙を出すものもいました。しかし見舞っても会えずじまいの生徒もいました。

南吉より高正惇子さんという生徒に宛てた葉書(写真/新美南吉記念館)には、「いしや(医者)は、もうだめといひましたが もういつぺんよくなりたいと思ひます
ありがと ありがと 今日はうめが咲いた由
」と書かれています。(消印S18.2.26)

f0005116_2563710.jpgその頃の南吉先生を卒業生が見舞った様子が、「新美南吉に親しむ会」さんの会誌「花のき」第19号(H16.8発行)にあります。これは19回生の鈴木秀子・加藤千津子・本城良子さんによる「恩師 新美南吉先生を語る」という中にあるのですが、その中の本城さんの記事を拾い出してみます。

『先生は・・「離れ」と呼ばれている家に、一人で寝てみえました。・・先生はひどく咽喉を痛めておられ、声も出ないしもちろんのどもしみるわけですけれども、・・寝ていらした先生が、身を斜めによじるようにして、(すっぽんの)スープを差し出す生徒の手から、ちょっと奪うようにして、一口すすられました。』

『すると咽喉はしみるわ、むせるわ、もう大変苦しまれて、三人でどうしたらよいかと、おろおろしていました。しばらくして・・静かにやすまれました。・・これが先生との最後のお別れになってしまったのです。』

『昭和十八年三月二十ニ日、学校の方から連絡がありまして、・・お悔やみにと、戸田先生・加藤さん・私と三人で、再び半田まで参りました。・・お葬式は翌四月十八日、あの離れの家で営まれました。連絡のつく限りの卒業生が集まってお参りしました。・・』

ということでしたが今週22日の日曜日には、昨年より「貝殻忌」と命名された、南吉72回目の命日がやってきます。
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by ttru_yama | 2015-03-18 10:00 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-250 (南吉生誕102年-105)

帰ってきた「ででむし詩碑」-22

f0005116_2202762.jpgさて担当だった19回生を送り出した南吉先生は、S17年4月からは補習科の担当となりました。補習科には卒業生の中の11名の生徒もいました。こうした環境が前述した、級報「雪とひばり」を作るきっかけにもなったと思われます。

しかし南吉先生は、その前の年から体を悪くしていたのでした。しかし創作はやめず、ずっと続けていました。「おぢいさんのランプ」などは、新年度の4月に完成した作品で、その後も「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」などを書いていきます。

卒業した生徒にあてた、級報「雪とひばり」は、そんな5月に出されたものだったのです。

その後も無理がたたったのか咽頭結核にかかり、声も出なくなって12月末で学校を休み、治療に専念することにしました。しかし病気は回復せず、見舞いに来た卒業生にも会わずじまいで帰らせました。そしてS18年3月22日午前8時、29歳と7か月の生涯を終えることになります。(写真、告別式の通知葉書/新美南吉記念館)

記念館の葉書の解説によれば、葬儀まで1か月弱間が空いたのは、結核という病気だったこと、学校関係者の忙しい時期に配慮したためではないか、とあります。
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by ttru_yama | 2015-03-10 23:30 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-249 (南吉生誕102年-104)

帰ってきた「ででむし詩碑」-21
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S16.3.10に行った「岩津天神」の遠足のひとコマです。(写真/新美南吉記念館)ここに写っている生徒は、学級担任の19回生ではないのですが、南吉先生の思い出ということで、前回の市民映画「琥珀のような空」にもよく出てきたシーンです。

さて月日は流れ4年間受け持った19回生も、楽しい思い出とともにS17年3月に巣立っていきました。そんな5月、南吉先生は教え子にあて、級報「雪とひばり」なる連絡機関誌を送ったようです。
「雪とひばり」というのは、もちろん「第一生徒詩集」のタイトルだったわけです。

f0005116_17464578.jpgそのあたりの様子は、大野秋紅氏の「新美南吉ノート」に記されています。それによればこの級報「雪とひばり」は、B5版5枚もので最初に「はじめのことば」が書かれていました。(以下抜粋)

『新緑の目にあざやかな季節になりました。みんな元気ですか。(・・)けれどいつもみんなのことを思ってゐます。(・・)さて、できるだけ、みんなと縁の切れるのをふせぐやうにと、またみんなが何かにつけて協力し団結する一助にもなるやうにと、こんど級報をつくることにしました。』

『名を僕がかつてに雪とひばり、とつけました。いい名ではありませんか。多くの人はまだおぼえてゐることと思ひます。それが、あなた方の一年生の三学期、はじめてできた詩集の名であつたことを。』

『山のばあさんがいつも花を入れて来る籠のやうに、いつもあかるくたのしい便りがのつて、この級報があなた方の手にとどけられることを祈念してゐます。』

そして次に、卒業生の最新の動静を記した一覧表や、補修科生として学校に残った生徒が書いた学校の様子が記されています。

そしてこの「雪とひばり」は、この同窓会名にもなったといいます。
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by ttru_yama | 2015-03-02 23:30 | 新美南吉