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0910-「20世紀少年」の町-219 (南吉生誕101年-72)

帰ってきた「ででむし詩碑」-1
南吉生誕100年-リーフレット-35

f0005116_22425188.jpgこのブログは、ほぼ1年前にあった「新美南吉生誕100年」の様子を追っていますが、今回からそのイベントの中で、私が気になっていた帰ってきた「ででむし詩碑」の話をしていきたいと思います。

まず「ででむし詩碑」というのは何?と言うところからですが、昨年の12/22に掲載した「南吉生誕100年-リーフレット-7」内に、その記事が少し載っています。


f0005116_23113143.jpgということで、右写真のように「01」「安城高女址碑」と庭園「南吉のうた」、「02」「ででむし詩碑」とい記事があります。

「01」の場所は現在の安城市立桜町小学校の正門横なのですが、かつてこの地には、南吉が教師として勤めていた、安城高等女学校がありました。そして1948(S23).4.1.学制改革により、愛知県立安城高等学校となり、1979(S54).1.8、市内の赤松町に移転しました。
「安城高女址碑」はこのことを伝えるため、移転した3月ここに建てられました。

一方「ででむし詩碑」は安城高等学校となった1948(S23)11.20、南吉の同僚及び教え子ら有志により、無題の蝸牛(ででむし)のでてくる南吉の詩文を刻んだ石碑が、ででむし詩碑として除幕されますが、移転の際、赤松町の新校舎にひきとられました。しかし「02」の記事末尾に、誌碑が「生誕百年にあたり元の場所へ戻されることになりました。」と書かれています。

f0005116_10220509.jpgそして上記、記事の通り「ででむし詩碑」は、再び旧・安城高等女学校の地である、桜町小学校に戻り、2013(H25).7.27、当時の教え子らの見守る中、除幕式典がおこなわれたのでした。

左は、今年3月頃に出された安城市のリーフレット「安城の新美南吉 GUIDBOOK」内の記事です。

その写真を見ると、たしかに安城高等学校にあった「ででむし詩碑」が、元々あった桜町小学校に戻り、「安城高女址碑」とともに、「南吉のうた」庭園に溶け込んでいることがわかります。

いったいこの昭和23年から平成25年の65年間、詩碑にはどんなことが起きていたのでしょうか。
そんな「ででむし詩碑」にまつわる話を、これから見ていきたいと思います。




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by ttru_yama | 2014-06-30 16:50 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-218 (南吉生誕101年-71)

南吉生誕100年-リーフレット-34(2013.6)
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さてちょうど1年前の2013.6.22(土)ですが、中日新聞朝刊に「16歳南吉 夢と恋」愛知・東浦町図書館で発見、という記事が掲載されました。

南吉は中学時代に親しかった東浦町出身の同級生、久米常民氏(くめつねたに・後に国文学者となった)に、手紙を書いていたことが日記で知られていますが、くしくも生誕100年の年になって、このたび当時書かれた6通の手紙が発見されたものです。

ということで、写真は1929(S4).8.11に書かれた①番目の手紙で、1年おいて1931(S6)②4.25、③5.17、④6.11、⑤7.21、⑥7.29の現物およびコピー(掲載写真)が展示されていました。(右上のはめ込み画像は東浦町立図書館)

久米氏については、南吉日記では昭和4年1月28日に突如登場します。
『久米常民君は、母校半二尋常小学校の次席新美佐助先生のをひ(甥)だそうだ。彼自身が告白したんだから、間違は無いだらう。』
3月2日には、
『久米が博物の時間に、悪戯をして見つけられ、一時間中たゝされて、最後に教員室にひつばられて行つた。』とありますが、後の日記では久米氏はクラスで1番をとる優等生でした。
5月3日では(この頃2人は中学4年でした)
『久米が英語のレターをよこした。俺も書いてやらう。』
とあり、翌日5月4日には、
『久米と非常に仲がよくなつた事を知つた。學校がひけてから、彼と連立つて、小學校へ行き、余の作品を見せてやつた。彼も文學の方へ進むんださうだ。』と、急速に親しくなっていった様子が書かれています。

本当はこの先の2人の間柄や、この年の8月11日以降の手紙の事まで、もっと詳しく見ていきたいところですが、とりあえずここまでです。
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話は変って生誕100年のチラシ、今回は第20回知多平和学習会の、講演「新美南吉と平和」(福岡猛志氏、アイプラザ半田、2013.6.30)です。(チラシは2種類)

知多の先生方主催の平和講演ということで、南吉の「ひろったラッパ」が取り上げられていました。この原稿が書かれたのが、1935(S10).5.14と言うことで、東京外語4年の時の作品のようです。

「内容はある男が戦争で手柄を立てようと、戦地に向かう途中のある村でラッパを拾ったことから、ラッパ手をきどってラッパを吹き鳴らし、人々を戦争へと鼓舞します。

しかしそれを聞いていたとしよりは、戦争はもうたくさんだと言い、さらに進むとさっきの村よりもっと戦争で荒らされた村があり、その様子をみて男は戦争へ行くのをやめ、今度は自分が率先して荒れた畑を耕し、人々に畑をたがやすようにラッパを吹き続け、荒れた村にはやがて麦が実るようになったのでした。」

幼年童話で戦争描写も無い、言ってしまえばうわべ的な話なのですが、このあたりを講師の福岡猛志さん(昭和13年生まれ)が、自身の戦時期の教育体験を交えながら、南吉のもつ戦争感について語られました。
と、今回はこれまで。

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by ttru_yama | 2014-06-22 22:20 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-217 (南吉生誕101年-70)

南吉生誕100年-リーフレット-33

さて、今回は「刈谷周辺マップ」にある、「竹内産婦人科」さんの話ですが、まずはすぐ近くにある名鉄「刈谷市駅」の写真です。
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(写真は「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 刈谷「大正三年頃の刈谷町駅」写真より、折り目その他汚れを修正し再構成、カラー写真は現在の刈谷市駅)

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さて次は、その刈谷市駅から西へ歩いてすぐのところにある「竹内産婦人科」の写真ですが、こちらでは「中山ちえ」さんという南吉の恋人だった女医さんが働いていました。

「中山ちえ」さんというのは、「 (南吉生誕100年-30) /「春の電車」-その1」でも紹介した、「私の南吉覚書」の著者、中山文夫さんの4番目の姉で、いわば幼馴染の間柄です。

f0005116_1056816.jpg「私の南吉覚書」によれば、ちえさんが東京女医専(女医学校)に通っていた昭和8(1933)年頃、南吉も東京外語に通っていたので、2人で上京や帰郷を共にしていたといいます。

ちえさんは昭和11(1936)年に医専を卒業し、名古屋で見習い医師を経験した後、刈谷の「竹内産婦人科」に就職します。その就職の経緯について「私の南吉覚書」にはこう書かれています。

『刈谷に竹内産婦人科という病院があった。人格者の院長先生が病弱であったので、とくに請われてその病院に勤務する様になった。その病院に寝泊まりしたり、岩滑から通ったりした。姉ちえは元もと外科を志望しており、産婦人科勤務を腰掛けのつもりにしていた。』

この頃ちえさんは南吉の結核治療のため、無料で薬を渡していました。南吉が安城高女の教師に決まった春、ちえさんは竹内産婦人科を退職し、大阪の病院への転職準備をしています。転職準備とはいうものの、ちえさんは医者でありながら精神安定剤の常用者となっていて、それをを断ち切ろうとしていたようです。

そして家族に隠して持っていた薬を、あろうことか南吉に預けて服用していたといいます。昭和13(1938)年の3月頃の南吉日記では、二人が他愛もない恋人同士であったような記述が見られますが、薬を飲んでいたことも出てきます。

ところで「竹内産婦人科」さんのことは、昭和14(1939)年4月18日の南吉日記に登場し、
「今日巋りみちでちいこ(中山ちえさんのこと)のことを太田さんがきいたので、刈谷の竹内といふ婦人科醫院にゐたことがあるといつたら、そんなら太田先生は知つているといつた。」とあります。

・・と簡単に書きましたが、実際細かく見て行くと一、二回では終わらない収集の難しい話です。
さて、ここまで「新美南吉と刈谷の会」さん関連の話を続けてきましたが、次の話の展開のためこの辺で終了することにします。
そして「新美南吉と刈谷の会」では、興味ある方の見学を歓迎しています。定例会は、毎月第三日曜日の午前10時から行っています。お問い合わせは刈谷市東部市民館(0566-23-9138)ヘどうぞ。
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by ttru_yama | 2014-06-15 08:10 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-216 (南吉生誕101年-69)

南吉生誕100年-リーフレット-32

今回は「新美南吉と刈谷の会」さんの刈谷周辺マップの中にある、「刈谷高等女学校」と南吉の関りを見てみたいと思います。
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リーフレットの写真では、ご覧のようによくわかるよう新旧の校舎を対比して掲載しています。もちろん安城高等女学校に勤めていた新美先生(=南吉)が訪問したのは、左の「刈谷高等女学校」(左一部省略)で、右が現在の刈谷北高等学校です。

そして南吉が刈谷高女の音楽会にやってきたのは、昭和15(1940)年2月24日のことでした。南吉は2年前の昭和13(1942)年4月に安城高女の教師となっています。
まず、音楽会にやって来た時の日記を見てみましょう。
『2.24 刈谷の女學校へ音樂會をききに。驛の前のみすぼらしいめしやにはいつて晝飯を注文する。』・・『女學校。近代風の建物。』

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(こちらは「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 刈谷「刈谷高等女学校」写真より)
『クリーム色。二階のまどに水兵服が見える。まだ工事中と見え、足場がとれてない。應接室。生徒の油繪二枚。あぢさゐと、奈良猿澤の池。壁の向こうで生徒達の聲がにぎやかだ。天井がどんどん鳴る。すまうでもとつてるみたいに。・・』

写真でみると確かに二階建てで、そこからセーラー服の生徒がみえたのでしょう。それにしても相撲でもとっているように活発な女生徒だったようです。

『第一囘二年合唱。きたないカーキ色の運動靴がならぶ。あかで光るスカート。少し鼻水で小鼻をぬらした子もいる。』2.28『生徒によるバイオリン三重奏。すすり泣いてゐる様だ。ヴァイオリンがではなく、少女たち自身が。はなをすゝりながら。』まあ、他校とはいえ、遠慮会釈のない描写です。安城高女ではそれほどに見かけない光景だったのでしょうか。

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(写真は今年5月の刈谷北高等学校です)
さて、南吉は来賓として刈谷高女に招かれていったわけですが、それ以外にも刈谷高女は南吉と縁深くなる学校になります。「刈谷周辺マップ」にもあるように、南吉を安城高女に薦めた恩人である佐治克己校長が、この音樂會のあった年の5月から刈谷高女に異動となっています。

と、今回はこれにて。
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by ttru_yama | 2014-06-10 00:47 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-215 (南吉生誕101年-68)

南吉生誕100年-リーフレット-31(2013.6)

もう6月に入ってしまいました。ふた月後の7/30の南吉生誕日まで余裕がないので、今回もチラシを貼っていきます。
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まず、2013.6.1-6.30まで半田市立博物館にて開催された「棟方志功を通じたふるさと風景版画展」~南砺市と半田市の文化交流~です。

f0005116_2193578.jpg棟方志功(1903.9.5-1975.9.13)はもちろん有名な版画家で、南吉より9歳年上ですが、南吉の初めての童話集「おぢいさんのランプ」(昭和17年10月発行)の装丁と挿絵を担当しました。
童話集を出すのも、挿絵を志功に頼んだのも、兄弟子である巽聖歌の取り計らいでした。

その後、棟方は昭和20年戦時疎開のため、富山県の福光町に移り住み、そこで6年8か月制作活動に励みます。ということで、南吉を通じて半田市と南砺市は交流があり、展示作品には棟方作品と、「おぢいさんのランプ」中の原画の一部が見られました。

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さてこちらは「南吉万華鏡」(NEO企画/2013.6.15-19)なる朗読劇ですが、実際に観てませんのでチラシを貼るのみですが、「珠玉の童話と懐かしい唱歌」が聞けるとあります。

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そしてこちらは、「新美南吉音楽物語」(半田市福祉文化会館/2013.6.23)のチラシとプログラムです。銀の鈴合唱団さんを中心に、ゲストソプラノや他の合唱団さんにより、南吉の詩が歌となって甦ります。
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ちなみにどんな雰囲気だったか、フィナーレの挨拶場面を載せさせてもらいましたが、これだけのメンバーにて20曲ほどが演奏されました。
なかでも「ごんぎつね」は合唱劇となって歌われ、左手のメンバーの中には「ごん」役の姿も見られますね。
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by ttru_yama | 2014-06-02 23:30 | 新美南吉