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0910-「20世紀少年」の町-210 (南吉生誕101年-63)

南吉生誕100年-リーフレット-25(2013.4)

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前回に続き2013.4.20に開催された「新美南吉の世界を体験しよう!!」ですが、光蓮寺・南吉生家・八幡社と回って常福院にやってきました。
ここには太平洋戦争で戦死した人向けの「英霊碑」が建っていますが、南吉の弟・益吉さんの名前もあります。
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常福院裏手から次に行く「ででむし広場」が望めます。ここでは今まで手に入れたシートを、並べて(写真右下)みましたがまだ謎です。
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f0005116_1282555.jpgさてここからは「新美南吉と刈谷の会」さんのコーナーです。

前回、水野先生が南吉が養家(新美家)に貰われていった話をされましたが、南吉はこの写真の家で、当主の故・新太郎さんの後妻「志も」さんと二人だけで暮らすことになります。

志もさんは養子に出され、かたくなになっている南吉に気を使い、何かと打ち解けるように努力するのですが、南吉は自分の殻に閉じこもっているばかりでした。

f0005116_12373314.jpgここで水野先生が一冊の絵本(写真)を取り出します。(怪談えほん 「いるの いないの」京極 夏彦(作)、町田尚子(絵)、東 雅夫(編))

物語のあらすじは、ある少年がおばあさんの古い家で暮らすことになるのですが、その家は天井が高くて暗く、太い梁から誰かがのぞいている気がするというのです。はたしてその誰かは、いるのでしょうか・・。

ということで、水野先生は南吉も寂しいばかりでなく、この少年のように旧家で暮らす夜の心細さを感じていたのではと、説明されるのでありました。

まったく、こんな家では夜中トイレにいけません。しかし先生、いい本を見つけてきますね。
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by ttru_yama | 2014-04-28 13:20 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-209 (南吉生誕101年-62)

南吉生誕100年-リーフレット-24(2013.4)
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今回は2013.4.20に開催された「新美南吉の世界を体験しよう!!」(社団法人 半田青年会議所 4月例会)です。各チームで岩滑(やなべ)の南吉ゆかりのスポットをめぐり、クイズに答えて絵の描かれたマグネットシート1枚を手に入れ、それを100枚集めて縦横10Ⅹ10シートの絵を完成させるものです。

ところでこのチラシの嬉しいことは裏面(右側)に書かれた、「新美南吉は、知多半島の偉人です。」というところで知多半島生まれの私も、そういうわけで郷土の偉人「南吉つぁん」の生誕100年を記録すべく、この催しに参加したわけです。(笑)

f0005116_10343581.jpgさて出発とゴールは写真の岩滑コミュニティセンターなのですが、ここ自体も今の南吉記念館が建てられるまで、大石源三先生を中心に南吉の資料を展示していた南吉甦りの原点の地で、階段を上がった所に南吉日記の言葉「また今日も己を探す」(S12.2.14)の石板があります。

・・なのですが、続きはまた次回ということで「新美南吉と刈谷の会」さんの話に移ります。
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2014.4.20、水野先生の講座は「南吉の養子時代の四ヶ月」にスポットをあてて進みます。

ご存知のように小学2年の夏休み、8歳になったばかりの南吉は亡くなった母・りゑさんの実家、新美家に養子に行くことになりました。ここまではよく知られている話ですが、どうして新美家にいくことになったのかを、水野先生は新美家の家系図を示しながら、くわしく解説していきます。

要するに南吉から見て新美家では、祖父母が亡くなり叔父が亡くなりと、新美家の血をひくものが居なくなってしまったのです。ということで南吉は新美姓となって、祖父の後妻である「志も」さんと二人養家で暮らすことになるのです。

f0005116_1643052.jpgその時の心情を綴った南吉の文章が何編か残っていますが、『学校から帰って』という文があります。(写真は岩滑新田に保存されている南吉の養家、2010.7)

『・・遊んでいると、母が呼びに来て家につれられて帰つた。奥の間には合う度に笑顔で頭を撫でてくれる初という人が、今日は改まつた服装で父親と対座していた。・・これから新田のおばあさんの家に養子にいくのだときかされた。』

恥ずかしながら私は今までこの「初」という人は、女の人とばかり思っていたのですが、ここで水野先生が酒井さんに話をバトンタッチします。酒井さんの調査によれば、「初」とは「志も」さんの兄「森 初太郎」さんだといいます。
私も南吉本は何冊か読んできましたが、「初」についての解説されたのは「刈谷の会」さんが初めてでした。

すぐに「女の人で初という人は家系に居ませんでしたか?」と聞き返しましたが無いそうです。確かにこの時代、大事な話には女の人が表に出てきませんし、「服装」という言葉からしても男の人を表現しています。何よりも養子縁組の役割的には申し分ない身柄です。

しかし、この水野先生と酒井さんの連携プレーはお見事でした。さて、長くなりますが、家系の話が出たついでにもう一つだけ・・。
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こちらは「南吉生誕100年-54」と「100年-55」ですでに掲載してきた、「酒井家と渡辺家(南吉)との関係図」ですが、酒井さんのご指摘もあり、今回少し更新修正をかけました。

主要な更新箇所は、南吉日記によく「岩部」とか「(半田)山方新田」というのが出て来るのですが、酒井家からは岩部家に「志ん」さんの姉が二人嫁いでいます。そのうち長女「よね」さんが嫁いだのが、長男・岩部岩五郎さん(山方新田)で、次男のほうには次女の「とき」さんが嫁いでいます。

酒井さんによれば、南吉日記にはこういう酒井家に関する記述が何十ヶ所と出てきており、南吉の遺族として今もたゆまず調査研究をされています。
ということで「新美南吉と刈谷の会」では、興味ある方の見学を歓迎しています。定例会は、毎月第三日曜日の午前10時から行っています。お問い合わせは刈谷市東部市民館(0566-23-9138)ヘどうぞ。
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by ttru_yama | 2014-04-21 18:00 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-208 (南吉生誕101年-61)

南吉生誕100年-リーフレット-23(2013.4)

f0005116_2155947.jpg前回、山車の出る「半田の春まつり」の話をしましたので、今回はその「お祭り」が物語に登場する南吉童話「狐」の話です。

ということで掲載写真は、半田市教育委員会・編集「南吉童話集」(平成23年12月発行)に収められている「狐」で、祭りの夜に狐に取りつかれたと心配する文六ちゃんと、彼の話に耳を傾け優しく愛しむ母親の物語です。

以下、祭りの写真を掲載していきますが、物語の背景は夜になってからの宵宮の情景です。作品「狐」は、南吉が亡くなる2ヶ月ほど前の昭和18(1943)年の1月に書かれました。

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さて2013年4月14日の朝10時頃、岩滑の山車の一台「義烈組」の「八幡車」が南吉の生家前(左手の家)にやって来ました。

南吉の生家は、父多蔵さんが「畳屋」、義母の志んさんが「下駄屋」をやっていましたが、南吉は「狐」にも「下駄屋」を登場させています。

文六ちゃんはみんなと祭りに行く途中、下駄屋に寄り新しい下駄を買いますが、夜新しい下駄を下ろすと狐がつく、という迷信があります。そこで店のおばさんはマッチを擦るまねをして下駄に触り、迷信を解くおまじないをしてくれます。

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10時15分ごろ、ハ幡車(左)と西組の「御福車」(右)が八幡社の境内に並びました。この後山車は移動中は下ろしていた、2階の屋根部を持ち上げます。持ち上げたままだと、電線に架かってしまうのです。また安全の事もあるのでしょう。

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10時40分ごろ、神子(みこ)さんの舞が始まりました。神子さんは「義烈組(東神子」と「西組」で二人が選ばれています。

童話「狐」ではこんな風に書かれています。
『子どもたちは綿菓子を食べながら、稚児さんが二つの扇を、眼にもとまらぬ速さで回しながら、舞台の上で舞うのを見ていました。その稚児さんはおしろいをぬりこくって顔をいろどっているけれど、よく見ると、お多福湯のトネ子でありましたので、
「あれ、トネ子だよ、ふふ」
とささやき合ったりしました。』

南吉の時代、岩滑には2軒くらい銭湯があり、南吉も弟・益吉さんと行っていたことが日記に書かれています。なお、写真に祝い袋が写っていますが、神子さんや笛を吹く子達への祝儀のようです。

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そして12時半ころ、義烈組の「八幡車」で「三番叟(さんばそう)」が始まりました。

「狐」ではこのようにあります。
『山車の鼻先のせまいところで、人形の三番叟がおどり始めるころは、少しお宮の境内の人も少なくなったようでした。・・人形は大人とも子どもともつかぬ顔をしています。・・ときどき、またたきするのは、人形をおどらす人が後ろで糸を引くのです。』

「狐」では人形が口を開け、舌を出すのですが、現在の人形はまたたきとか舌を出す動作はしません。南吉の時代はそうだったのでしょう。
そして物語では夜の時間帯の祭りで、子どもたちは「提灯の光の中」で人形を見ているわけで、人形の不気味なことが子どもたちに、「狐つき」の話を思い起させるのでした。

この「祭り」の出てくる部分はほんの序盤の部分で、物語はまだまだ先に進むのですが、ブログ的には「山車まつり」の紹介がメインなので、ここまでにしておきます。

しかし何かにつけて郷土に根付いている南吉作品ですが、これほど郷土色の濃い作品は無いのではないでしょうか。と、今回はこれにておしまいです。
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by ttru_yama | 2014-04-13 23:50 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-207 (南吉生誕101年-60)

南吉生誕100年-リーフレット-22(2013.3~5)

f0005116_1002320.jpg昨年(2013)の、半田の春まつり(3月中旬~5月初旬)のリーフレットです。
半田市には市内10地区に総数31輌の山車がありますが、南吉関連で言えば生まれ育った「岩滑(やなべ)」地区(写真下)には、「義烈組八幡車(左)・西組御福車(右)」があり、南吉は義烈組に入っていました。

また南吉が養子に出された「岩滑新田(やなべしんでん)」地区(写真右上)には、「奥組旭車(左)・「平井組神明車(右)」があり、旭車の幕は平成2(1990)年4月に新調され、大幕には「南吉童話に関連した刺繍が施されています。

しかし、さすがに「南吉生誕100年」のチラシだけに、写真は全て岩滑の山車でそろえています。左上の夜の花火写真は、おそらく1年前に撮った「南吉祭」(南吉記念館前)のもので、ちなみに今年のチラシ写真は「西成岩(にしならわ)」地区の写真でした。

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f0005116_113332100.jpg続いて「新美南吉と刈谷の会」さんの話ですが、今回はその「刈谷周辺マップ」が出来た経緯を話してみたいと思います。
(あっ、ことのついでに言えば代表の酒井さんも、昭和23年春に「岩滑の春祭り」に招ばれて来たことがあったそうです)

さて、「新美南吉と刈谷の会」さんは平成5(1993)年の8月8日に発足しますが、「刈谷周辺マップ」はそれから19年後、南吉生誕100年の1年前、平成24(2012)年7月に完成しました。

f0005116_12494963.jpgそのマップ完成当時の様子が「刈谷ホームニュース」に掲載されています。(以下引用)

『「新美南吉と刈谷の会」代表の酒井豊さんは、この(南吉の)日記から刈谷に関する記述を拾い出し、「新美南吉日記より~刈谷周辺マップ」と題するリーフレットを作成した。南吉の足跡を地図に記し、写真や年譜なども収録して刈谷との関わりを分かりやすくまとめた。』とあります。

ところで実際このマップが出来上がるには、その1年前の隠れたエピソードがあります。
酒井さんと副代表の水野先生は、刈谷に残る南吉の足跡をもっと刈谷の子達にも知って欲しいと、手作りのマップを持って、ある小学校を訪問し出前授業をしたのです。

しかし、手作りのマップでは大まかで写真も無いため、場所場所に関連した話がうまく伝わらなかったそうです。
そしてその時の苦い経験から、現在のマップが完成したのです。実際このマップは実に良くできています。写真も豊富で地図もしっかり道が描かれ、3つ折れになったページを開けば関連する日記も参照でき、年譜も付いているスグレ物です。

そして酒井さんはこのマップを自費で3000部作成し、市内の小中学校・図書館等へ無償配布されました。こうしてマップは、刈谷での南吉の足跡をたどる手がかりになり、こうした取り組みが個人レベルでなされた事は称賛に価します。

ただしもう残部がほとんど無いそうなので、全体イメージば当ブログ「南吉生誕100年-リーフレット-13」の画像をご覧ください。

ただブログの画像サイズ制限で、これ以上大きく出来ませんので、主要なところはまた個々に見て行きたいと思います。
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by ttru_yama | 2014-04-07 23:30 | 新美南吉