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0910-「20世紀少年」の町-175 (南吉生誕100年-37)

「南吉童話展」と「きりんの会」紙芝居

f0005116_0182951.jpg春に逆上ると言っていながら、また今回も最近の南吉イベントの紹介です。10/26-11/10まで、半田市立図書館にて南吉童話の世界にふれる「南吉童話展」が開催されています。

主な展示は、南吉の日記の中に取り上げられた作家と作品を、写真パネル及び、実際の本の展示で紹介するもので、ドフトエスキー・チェーホフ・正岡子規・谷崎潤一郎・萩原朔太郎・内田百聞(百閒)、児童文学では白秋・賢治・広介が紹介されています。

その他、グリム童話集・スコットランド童話集・武者小路実篤全集等、南吉の蔵書の原本が紹介される中、南吉の作品も生存中の「手鞠と鉢の子」から、昭和20年代発行された「牛をつないだ椿の木」「花を埋める」「ひろったらっぱ」「がちょうのたんじょうび」「ごんぎつね」、その他紙芝居になった「ごんぎつね」「花の木村の盗人たち」も展示されています。


f0005116_2302596.jpgそんな中、このたび半田市内の小中学生を対象にした、「好きな南吉のおはなしは何?」という興味あるアンケート結果がありました。結果はご覧のような結果となりました。
「ごんぎつね」をわずかに押さえ、「てぶくろを買いに」が1位になったのは、哀しい結末との差ではなかったでしょうか、という話もありました。
以下、「あめだま」「がちょうのたんじょうび」「でんでんむしのかなしみ」「かにのしょうばい」へと続きますが、このアンケート発表のすごいところは、子どもたちの主だった感想をちゃんと伝え、それを最後の1票まで伝えていることです。

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さて「童話展」と連携して10/26には、「春の電車-その4」でも少し紹介しましたが、南吉の紙芝居を市内各所で演じている「きりんの会」さんの公演がありました。

特に今回はアイリッシュ・ハープ演奏者・MISAさん(写真右上)とのコラボで、「イツノコトダカ」「去年の木」、単独で「ひとつの火」「ごんぎつね」が演じられ、最後にMISAさんのハープ演奏で「赤とんぼ」、ジブリの「いつも何度でも」「浜辺の歌」が演奏されました。

紙芝居とコラボ時のハーブは、物語のイントロ・場面転換・エンディングにおいて、物語に合ったメロディを奏で、絵と朗読、そしてハープとの相乗効果で場面を盛り上げていきます。

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ところで「南吉生誕100年」以来、「きりんの会」さんのステージでハモニカ・キーボード・フルート・オカリナ等とのコラボ演奏を観て来ましたが、ハープは今回初めてでしたのでつい、いろいろお聞きしてしまいました。
そもそも「きりんの会」というのは、立ち上げが昭和59(1984)年で来年で30年になるそうですが、半田図書館の読みきかせ講座を終了した人達が集まって結成されました。

ということで「きりんの会」とは、もともとは児童書の読み聞かせグループなのですが、南吉生誕80年の時、会の中でも南吉童話中心に活動する「南吉グループ」というのが出来、現在10人程のメンバーがおられるそうです。
(ユニフォームの背中を写させていただきましたが、このきりんの絵は「聞きに来てくれる人が、次まで首を長くして待っててくれるといいな」という絵なのだそうです)

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最初は読み聞かせ中心でしたが、朗読だけより絵があった方がということで紙芝居を制作し、次に音を入れようということで、楽器の出来る知人に協力してもらうスタイルが出来てきたそうです。
そして今回のMISAさんとも、(私が知らなかっただけで)もう3年程のおつきあいでコラボ公演をされてるとのことでした。

ところでこの紙芝居の絵は「ごんぎつね」の一場面ですが、現在はオリジナル音源で効果を入れられています。これがいつかMISAさんの生演奏で、観られる日が来るといいですね。
そうなった時、いたずらごんはハープの音色によってどんな表情をしてくれるでしょうか。そしてエンディングの曲はどうなるのでしょうか。ついそんなことを考えた日でした。
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by ttru_yama | 2013-10-28 09:00 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-174 (南吉生誕100年-36)

南吉の舞台劇と朗読会

やっと「春の電車」シリーズが終わったところで、春先からすっかり溜まっている生誕100年イベントをふり返る予定だったのですが、忘れないうちについ最近のイベントを紹介します。

f0005116_16342594.jpgまず右はこの10月20日、南吉の安城高女時代の下宿先で行われた、安城出身の女優・石川恵深(えみ)さんによる朗読会です。
南吉の下宿先・大見家の長屋門の部屋は今年復元され、6月26日お披露目会がありました。その時地元の新田小学校の児童により詩の朗読がありましたが、今回のものはおそらくその後初の朗読会かと思います。

石川さんは「でんでんむしのかなしみ」や「でんでんむし」、この下宿先のことを詠んだ「百姓屋」等の詩を朗読し、かつて南吉の暮らしていたこの部屋で、このような催しができたことを喜びの表情で語っていました。

また場所を提供した大見さんも、7/27に紹介した南吉探訪スタンプラリー以後も、非常に協力的で機会があれば、またこういう催しに場所を提供したいと話されていました。

そして左のイベントは、10/19・20に半田市亀崎(かめざき)町の来教寺にて行われた、劇団オクムラ宅さんの「新美南吉の日記 1931-1935」公演(主催/ろじうら実行委員会)です。

f0005116_2005544.jpg私がこのイベントを知ったのは、「春の電車」を数回記述した頃で、ワキタヨシコさんのワークショップに行った時に、貰ったチラシからです。その時のチラシは亀崎町での「ろじうらイベント」VOL.4のチラシで、ワキタさんの出店も書かれている中の小さなイベント記事でした。(赤枠内)

冒頭の「新美南吉の日記」のチラシは、その後亀崎の通りで貰ったもので、たぶん半田市の観光施設等でも、置いてある所は少なかったことと思います。ですから「春の電車」を書いていなければ、いくら同じ半田市内といえども南吉とは縁の薄い、この亀崎町での舞台は見逃していたことでしょう。


f0005116_20331690.jpgただこの劇は主催者の「ろじうら」さんの招きで催され、もっといえばその場所が来教寺さんの本堂で行ったことで、おそらく過去のどの会場で行われた芝居より、エンディングでの場所特有の舞台効果が高かったように思います。(もしかしたら、かなり似通った舞台が、あったかも知れませんが・・)

話をいきなりエンディングの効果に持って行くと、ネタバラシになる恐れがありますが、この写真は来教寺の本堂から見た境内の景色で、おそらく他所では見られない特有な光景と思うので、ここに載せておきます。(もしクレームが出たら外すかも知れませんが)

オクムラさんは自ブログの「『新美南吉の日記 1931-1935』に関して③(演出のこと) 』の中で、『 ごくごくたまに出会える「なんだか全く拙いのに俳優さんがキラキラして見えてどうしようもなく感動しちゃう」っていうあの奇跡・・』という話をされていますが、私はこの景色が「この場所特有の効果」で起こった奇跡のように感じました。

(でもたぶん、劇的なエンディングを観ていない人には、ほとんど何を言いたいのか解らないでしょうね)

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そしてこちらは許可を戴いたので載せましたが、演劇の舞台スペースです。二つのテーブルにおかれたのは積み木で、南吉さんの帽子を除いて、これが舞台上の唯一の小道具となります。

恥ずかしながら私は、開演前に「南吉の作品に積み木なんか出てきましたっけ?]と聞いてしまいました。役者さんからは笑われましたが、この積み木はある時は小さなネタに何度か、そしてある時は大きな効果を発揮します。(テーブルが二組あるのも重要なのですが、その秘密はここでは言えません)

あと補足ですが、観客は本堂の閉められた雨戸をバックに向かって観劇しますが、これが来教寺での観劇スタイルです。

・・と、あまり舞台の内容に関係ない話ばかりになってしまいましたが、南吉の特に1931(岩滑小学校の代用教員時代・最初の恋人との接近)-1935(外語学校時代・恋人との別れ)の5年間にこだわり、日記の記述にそって、南吉の性格や作品形成にも目を向けながら、二人の恋愛模様を綴っていきます。

おそらく、こんなに日記に書かれた南吉の言葉をそのままセリフに乗せながら、劇的なラストに持ち込んだ作品は、今までになかったと思います。途中まではずっと南吉の日記の再現や解釈等で終わってしまうのかと思いましたが、最後に見事に裏切られます。

男女4人の役者さんで演じているのですが、特に最終ラストでは日記から離れた演技となるので、その解釈は観客に委ねられる要素もあり、役者さんの演技にも目がはなせませんでしたね。南吉日記を読んでない人でも理解できるようになっていますが、読んでいる人の方が、結末に驚くよう仕組まれている様に思いました。
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by ttru_yama | 2013-10-20 23:00 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-173 (南吉生誕100年-35)

「春の電車」-その6(終回)

・・ですが、その前に河和口駅前の海水浴場写真です。知多鉄道は昭和7年7月1日、河和口駅まで営業区間を南に進めますが、それに伴い南知多の観光宣伝にも力を入れ、付近の海水浴場も賑わいを増して行きます。
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そして南吉と弟・益吉さんが、この浜辺にやって来たのはその翌年の8月6日のことでした。南吉は東京外語学校2年で帰省中でした。この時の南吉日記で、当時の河和口海水浴場の賑わいを見てみましょう。
『河和口へ弟をつれて行つた。美人探しがあると云ふのでとてもの人出で、無料休憩所なんか人がみちあふれてゐた。(中略)時志に行つた。夏やちゑともあつた。』
この中の時志に行ったとは、河和口の先にある時志観音のことで、中山家の次女が嫁入りしており、その妹の夏やちゑは毎年遊びに行っていました。


さて、今回は南吉と山田梅子先生のデートコース探訪でしたね。
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学校を出た二人は、まず裏門を目指します。(左上写真中央付近)
西日があたり、校舎の陰が裏門のあたりまで延びていますが、当時の校舎はもう少し北寄りでしたから、陰は出来てなかったろうと思います。正門はもっと右手にあります。

そして右上写真が裏門です。裏門とはいえ河和駅に近いので、利用率は正門より高かったように思います。写真左下、裏門からは下り坂でこの道の先で突き当たり、普通は右手に折れて下っていくのですが、南吉は彼女をさそって左に曲がり、校舎の北側の坂を突き当たりまで登っていきます。(写真右下)

5/26の日記
『「こつちの道からいきませう」と僕は彼女にいつた。その道は街通りと反対の側にあつて、桑畑や藪の中を通つてゐる。人通りのすくない、そして距離の長い道である。
「ほんと?」彼女は思ひもよらないと言つた調子できき返す。ところが彼女はそれを云ひ出されるのを待つてゐたのである。一時間も二時間も前から。まだ學校で仕事をしている時から。』
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そして学校の北西の突き当たりを右に回ると、(写真左上) その少し先は当時桑畑だったそうです。
日記の続き
『そして二人はならんで桑畑の道を歩き出す。併し彼女はまだ僕の愛を、そして自分の幸福を確かめてみたいのである。「どうしてこんな方からいくの。」と、最初にこの道を教へたのが自分であることを忘れたかのやうにいふのであつた。』

そして次の四つ角を右に回り、竹藪にさしかかった所をまたわざわざ右折しますと(右上写真)、慶樹院という寺の上手となります。(左下写真)
たぶん、このルートが人通りもなくて二人きりの世界だったことでしょう。南吉はこのあたりの二人の心理描写のやりとりを、お得意の文章ではたから見ると、饒舌にそして大得意になってつづっています。

さらに進むと前方に海が見えてきます。(右下写真)そこを左に折れると郷の中を通るのですが、おそらくこのあたりで梅子先生は自宅への道へ戻ったように推測します。
ということでつまるところ、大回りの帰宅デートコースだったと思います。

f0005116_23274975.jpg南吉記念館にある山田梅子先生の写真です。(ことのついでに言いますが、南吉記念館の素晴らしいことの一つは、長い時間をかけてこうした肖像権などをクリアされ、撮影NGの写真が本当に少ないことだと思います。誠に有り難いことだと思います。)

さて、梅子先生のプロフィールですが、南吉と同じ大正2年河和町生まれ。半田高等女学校、中京高等裁縫女学校卒業。河和第一尋常小学校教師を勤め、昭和14年退職とあります。

続く5/28の日記
『束の間の幸福。こんなところにこんな幸福があらうとは思はなかつた。だから生きてゐることは無駄ではないことになる。』
7/5の日記
『もうあと二週間ばかり。それでこの仕合せは結末となる。山田さんよ。月給よ、碁よ、みんなさらばだ。それから何がやつてくるんだらう。何だか解らない。だがおそらく暗い苦しいものがやつて来るんだらう。ああ、願はくば取りあげ給へ。この苦しみの杯を。(中略)二人の月給を合わせれば八十圓になる。何といふ楽しいことだらう。
だがみんな夢だ。夢のまた夢だ。』

この後二人は文通で交際して行くのですが、職にあぶれた南吉はさらに厳しい会社に勤め、翌年の安城高女の職がみつかるまで、肉体的にも金銭的にも困窮した生活に入っていきます。また結婚は南吉の両親の反対にも合い(これは南吉が両親をいいわけに使ったのでは、という話もあります)、うまくゆかなかったようです。

ということで、「春の電車」は二人の楽しく、またつらい思い出を思い起こさせながら、南に向かって走っていくのでした。(おわり)
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by ttru_yama | 2013-10-13 23:58 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-172 (南吉生誕100年-34)

「春の電車」-その5

・・ですが、そのデハ910型の走っている姿が、岐阜県可児市にある名鉄資料館のファイルにありました。許可を戴いたので載せておきましょう。
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「知多半島の名鉄90年」(郷土出版社)の解説によれば、この場所は昭和8(1933)年の布土(ふっと)付近ということで、この頃の南の終点はひとつ先の河和口駅(写真右上方向)でした。

各種資料を見ていくと、デハ910型は昭和18年(南吉の没年)に塗り替えられるまでは茶色で、車長は16m、2基のパンタグラフを持ち、内装はセミクロスシートでボックス席もありました。全部で8両が造られ、通常は1車両の単車運転でした。100馬力のモーター4基により加速性能も優れ、短い駅区間でも軽快な走りだったようです。

f0005116_1540963.jpgそういえば「春の電車」の詩の前半にも「・・ 麦の丘をうちすぎ/ みぎにひだりにかたぶき/とくさのふしのごとき/ 小さなる駅々にとまり 」なんてありました。

ところでどうでもいい話ですが、「春の電車」で私が一番気になっていたのは車体の色でしたが、茶色の他にマルーン色という記述もあって、マルーン(marron)って何?と思って調べたらマロンのことでした。そう、ごんぎつんねがおわびのしるしに、せっせと採っていた栗の色ですね。(笑)

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ということで、ワキタヨシコさん の絵に戻って、河和駅に着くと高台に河和小学校らしき建物が出てきます。
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さて写真は、南吉生誕100年-26にも出てきた河和小学校で、南吉は昭和12年の4月13日から7月31日まで勤めていました。

そして同僚の山田梅子先生と交際するようになり、学校が終わると二人は連れ立って裏門から帰るようになります。写真には正門も裏門も写っていませんが、正門は右手中央方向、裏門はその少し上にありました。

学校から河和駅へ向かうとすると裏門を下って、つきあたりを右手へ折れて行くのですが、美浜町図書館の南吉コーナーによれば、若い二人はわざわざ遠回りでこの校舎の外周を回ってから、左上の道へ行くデートコースで帰ったようです。
ということで、次回はその道を辿ってみたいと思います。
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by ttru_yama | 2013-10-05 18:01 | 新美南吉