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0910-「20世紀少年」の町-171 (南吉生誕100年-33)

「春の電車」-その4

・・ですがその前に、この「ごんの秋まつり」時期の、矢勝川名物・街頭紙芝居を紹介しましょう。
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これまでも南吉イベントで、ちょくちょくお見かけした「きりんの会」さんが、5年程前から出張公演されていて、無料で南吉童話の紙芝居が披露されています。聞き慣れた「ごんぎつね」も、屋内でなくごんゆかりの権現山や、彼岸花の咲く矢勝川沿いで見るとなれば、気分はまた格別です。
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さて「春の電車」は、岩滑村を通って 南の終点・河和(こうわ)に行きますが、残念ながら右上の切出写真の沿線は菜種ばたけでは無く、黄金色に色づき始めた稲田です。(笑)

そしてその河和ですが・・
「そこにはいつも/ わがかつて愛したりしをみなをりて/ おろかに心うるわしく われを/ 待つならむ」ということで詩が書かれたのは、南吉が安城高女に勤めて2年目(昭和14年)の春なのですが、逆上る事2年前の昭和12年、4月から7月まで南吉は河和第一尋常小学校で代用教員を勤めました。そして同僚には山田梅子先生がいて、やがて二人は交際するのですが、南吉の両親の反対にあってやむなく別れることになります。

そう、その「愛したりしをみな(女)」がその梅子先生だったわけで、その後南吉は安城高女へ通勤するため、省線(現JR)の半田駅へ向かう途上で、知多鉄道の河和行き電車を見送る、ということもあったわけです。
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ということで、写真は終点の現・名鉄電車の河和駅です。
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駅前の風景も載せておきましょう。駅ビルはショッピングセンターになっています。右上の切出し写真(美浜町図書館・南吉コーナー写真をトリミング)は、昭和初期の河和駅で駅前にバスが停まっている風景は今も変わっていませんね。

さて、あらかた「春の電車」の話は終りなのですが、南吉生誕100年-26以来、せっかくまた河和へ戻ってきたので、もうちょっとだけ河和の南吉さんを、見ておこうと思います。
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by ttru_yama | 2013-09-28 00:47 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-170 (南吉生誕100年-32)

「春の電車」-その3

・・なのですが、その前に矢勝川の200万本の彼岸花、青空の下、今年も咲きました。前方の山は権現山です。ニュースでは3分咲きといっていましたが、もう盛りを過ぎた花とこれからの新しい芽とが、渾然一体となっています。「ごんの秋まつり」(9/20~10/20)も始まっています。
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ということでいよいよ、ワキタヨシコさんによる、半田口駅の観光看板の絵にある「春の電車」の詩です。(そのワキタさんにも、本日お会いできました)

f0005116_20332470.jpg『わが村を通り/ みなみにゆく電車は/ 菜種ばたけや/ 麦の丘をうちすぎ/ みぎにひだりにかたぶき/

とくさのふしのごとき/ 小さなる駅々にとまり /風呂敷包み持てる女をおろし/
また杖つける老人をのせ/ 或る村には子供等輪がねをまわし/ 或る村には祭の笛流れ/
ついに半島のさきなる終点に/ つくなるべし。

そこには春の海の/ うれしき色にたゝえたらむ/ そこにはいつも/ わがかつて愛したりしをみなをりて/ おろかに心うるわしく われを/ 待つならむ/ 物よみ 草むしり/ 小ささ眼を黒くみはりて/ 待ちてあらむ

われ けふも みなみにゆく電車に/ わが おもひ乗せてやりつれど/ その おもひ とどきたりや/ 葉書のごとくとゞきたりや』
(原詩には段落が無いのですが、読みやすいよう適当に段落行を挿入)
全集の解説によれば、この詩について創作日は書かれていないものの、前後の詩の関係から昭和14(1939)年3月30日ではないか、ということです。これは安城高女の教師になった翌年のことです。

f0005116_2332499.jpgそこで復習ですが知多鉄道の、太田川から半田の成岩間が開通したのが、昭和6(1931)年4月1日のことで、南吉が中学を卒業し岩滑尋常小学校の代用教員を始めた時でした。
そして当初は「デハ910型」という電車が走っていました。(写真/名鉄資料館)そして最終の河和駅まで開通したのが、昭和10(1935)年8月で、南吉が東京外国語学校4年の夏のことでした。

さて、その翌年学校を卒業した南吉は東京で就職するのですが、夏の終りに体を壊し、巽聖歌及び婦人の千春さんの看病で小康を取り戻し、11月 岩滑に帰郷します。
その帰郷時電車から降り立ったのが、知多鉄道半田口駅なのでした。

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写真は美浜町立図書館の南吉コーナーにある、昭和5年の半田口駅の工事風景(名鉄資料館提供)です。
とすれば、この写真に写っている工事の人達は、朝鮮から来た人達なのでしょう。見ればレールが複線で敷かれています。半田駅まではもともと複線だったのでしょう。

さて、体を壊し失意の中帰郷した南吉が、昭和10年12月、聖歌にあてた手紙にある「帰郷」という文章に、当時の半田口駅の様子が記されています。この中の息子というのは南吉自身です。
『息子は電車からおりた。その停車場でおりたのは彼一人だった。電車がその窓から、ホーム─と言っても土を盛ったにすぎない、土堤の体裁をよくしたようなもの─になげていたわずかばかりの光をも拉して南の方へ去ってしまうと、息子は完全な闇の中にとり残された。彼は二つ三つ咳をして、足探りで歩き出した。村は電車線路の西側にかたまっていた。』

写真は日差しの具合から、手前が北で岩滑の集落は右手方向のようです。駅と言えども当時は街灯も無く、夜は真っ暗闇だったのでしょう。
ところで「春の電車」、さらっと終わる予定でしたが、この調子だともう少しかかりそうですね。
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by ttru_yama | 2013-09-22 23:59 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-169 (南吉生誕100年-31)

「春の電車」-その2

前述しましたように知多鉄道の、太田川から半田の成岩間が開通したのが、昭和6(1931)年4月1日のことです。このあたりを前出の中山さんは、「私の南吉覚書」<その四>で、『(鉄道の)道床工事は昭和三年初めから五年末までかかり、六年四月に初めて電車が走った。』と書いています。
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(写真は南吉も半田へ行くのに通った大道が、半田口駅の南で交差する踏切り。この先は住吉神社、カブトビールに至る)

さて「南吉覚書」で大事な話は、『土木工事に携わったのは、主に朝鮮半島出身の人達であった。』ということと、岩滑には三ヶ所の飯場があり、『飯場の人達は子どもに至るまで礼儀正しく、擦れ違う村人に一々丁寧なお辞儀をした。』いうところです。
博愛主義者で慈悲深かった中山さんの母は、そんな朝鮮人の子供達のために、卵を与えようと庭で鶏を飼い、子供達を招き入れて卵を取らせていたといいます。

そんな様子から、岩滑の村人と朝鮮の人の間には、あまり大きなトラブルも無かったように思われます。中山さんの母上が病気になった時、子供が世話になった朝鮮人の棟梁が見舞いに来た、ともあります。
そして鉄道工事は南吉の家の商売(畳屋と下駄屋)にも、ちょっとした富をもたらしました。工事のための地下足袋が飛ぶ様に売れのです。

f0005116_2358465.jpgといった前説が終わったところで、南吉の「文芸自由日記」(1930=昭和5)にある「アブジのくに」(1930.10.31)という作品です。

『村の横に電車道を作りに大勢の朝鮮人のトロッコ押が来てお宮さんの東の空屋に住居をしました。朝はやくから、トロッコの音が寒さうにきこえました。
(中略)下駄屋の小母さんの家には地下足袋を売つてゐたので、よく朝鮮人は地下足袋を買ひにきました。
「こんちはタビください」
さう云つて、一人の朝鮮人がはいつてきました。下駄屋の家の入口がふさがつて了ふ位大きな人です。女の子を一人つれてゐました。』

(この女の子は「つやこ」と言いますが、作品には南吉の継母と南吉自身も登場します)

『行つてまいりました」と云つて、小母さんの男の子が学校から帰って来ました。小母さんの男の子は中学校の五年でした。つやこは、小母さんの男の子を見ると、眼をパチパチさせて、
「アブジー」と云ひました。
小母さんは笑ひながら、アブジと云ふのはお父さんと云ふことであるよと男の子にはなしました。(以下略)』

といった感じの文章で、朝鮮人の一家と下駄屋の小母さんや息子との、これといった事件は起きないけれど、なにかほのぼのとした作品です。南吉は同じ年の3月14日、「電車道の工事場で、土礫をふるひにかけてる女を見た時作った詩」も書いています。
『彼女達は黄色になつた蝋燭だ。/古い蝋燭でもうたを知つてる。/あか土色の日暮れの空とあか土色の工事場の土の中でいやらしいうたをうたつてゐる。/しびれた声だ。』

ということで、「春の電車」の工事が進んでいた頃の、南吉の見た風景なのでした。こうして「春の電車」の道床は、岩滑の丘の土を削ってトロッコで運ばれ、上の踏み切り写真のような姿になっていったことでしょう。さて「春の電車」、次回はいよいよ最終回?のはずです。
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by ttru_yama | 2013-09-15 04:26 | 新美南吉

0910-「20世紀少年」の町-168 (南吉生誕100年-30)

「春の電車」-その1
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さて前回の名鉄半田口駅の話にあった、「春の電車」の続きです。まず知多半島に鉄道が開通したのは、明治19(1886)年3月1日の武豊線の開通に始まり、名古屋から(現在のJR)武豊駅まで、主に半島東部を通っています。
次に開通したのは、半島西部を通る名鉄常滑線で、明治45(1912)年2月28日、名古屋(伝馬)-大野間が開通します。(南吉は翌年の3月に生まれています)
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その後常滑線の中間の太田川駅から、半田の成岩駅までが開通したのが、昭和6(1931)年4月1日のことで、これが「春の電車」の履歴です。(南吉18歳、4月からの半年間 母校岩滑小学校の代用教員になった年です)

写真左部は、半田市立博物館にある開通当時の(現・名鉄)知多半田駅の写真ですが、左右は池?やら田んぼで駅前の道も新しそうです。そして右側が現在の知多半田駅前の通りで、この夏南吉のキッズワークショップや、半田ふるさと検定(南吉編)が行われた、クラシティビルが左に見えています。
ついでながら検定の結果は、170名受験で118名の合格率でした。しかし受けてみて分かるのは、この高い合格率は簡単だったからではなく、受験者さんの知識レベルの高さを感じます。

f0005116_13311120.jpgところで本題へ入る前準備として、中山文夫著「私の南吉覚書」の本の紹介です。中山さんは「ごんぎつね」冒頭にも出てくる、「中山さまのおとのさま」の分家の出身で、中山家は祖父の時代に破産しその時父は出郷するのですが、その後の父上は小学校の先生となり、定年退職した昭和2(1927)年3月、一家で先祖の地・岩滑に戻ってきます。

その岩滑の家は南吉の家のすぐ近くにあり、大正7(1918)年3月生まれの中山さんは当時9歳の小学生でした。そして5歳年長の南吉は当時14歳、旧制半田中学の2年生でした。当時童話の題材をもとめ、話の聞ける知り合いを探していた南吉は、中山家にも出入りすることになります。

中山さんはこの本の中で中山家と南吉の関わりを、出来る限り真実に沿う記憶を手繰りながら、南吉の実像にせまっています。時には思い違いもあるかもとしながら、真摯な文章で内容には信憑性があると感じました。
「南吉の日記には所々にフィクションが混ざっている」と、いう話が研究者の間にあるようですが、そういった点で中山さんも著書の中で、南吉日記にある中山家の人々の記述にフィクションがあると書いておられます。

f0005116_14143748.jpgさて本題からさらに外れてしまいますが、当時の岩滑の子の夏の遊び場は、阿久比川沿いにある「立て切り」という、農業用水を分配する堀のような場所で泳ぐことでした。(写真はその後の、現在ある阿久比排水機場で、実際はもっと狭い場所だったように思います)

中山さんの同級生・小栗大造さんの著書「南吉のやなべ」によれば、南吉もここで魚を採っていたこともあったそうです。ところでその「立て切り」は隣の阿久比村との境界にあり、その阿久比村の子供の遊び場でもあったので、岩滑の子らは「阿久比ガンチクソガンチ・・」などと争っていました。(この囃し言葉は、南吉の文章にも出てきます)

そんな縄張り争いの中、ある時中山さんが阿久比村の捕虜となってしまい、その時南吉が貰い受けに行ったこともあったようです。つまりそのくらい中山家は、南吉と深いつきあいとなっていました。

そうはいっても中山さんにとって南吉は、なかなか気難しい青年であったようです。しかし中山さんの母は博愛主義者だったようで、継子(ままこ)である南吉を不憫に思い、結核の疑いもあった南吉を家に招き入れ、中学生の南吉が童話の題材に調べていた、近隣の村の昔話を語り聞かせていました。

南吉童話の中には、どこかにそんな話がヒントとなったものも、あるのではないでしょうか。
・・あっと、肝心の本題に入るのに、こんなにページを使ってしまいました。ということで「春の電車」、次回に続きます。(またまたブログは、現在から遠のきそうです。笑)
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by ttru_yama | 2013-09-07 23:30 | 新美南吉