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080920 信州松本と杉田久女句碑-22 (終回)

f0005116_13193947.jpg気持ち的には前回で終わりにしたかったのですが、まだ書き残した事があるのです。
墓参を終えると丸ノ内中学校前の坂道を登り、杉田久女の句碑があるという高台の城山(じょうやま)公園(標高約600m)を目指しました。その途中の民家の庭で紫陽花の花をみつけました。まだ咲いている花、白くしおれた花、そして茶色く枯れてしまった花が1つの株についていました。

紫陽花がどこかで見つかるといいなとは思って、探しながら歩いては来たのですが早めに見つかってうれしかったことです。もちろん今から見に行く久女句碑にある「紫陽花に 秋冷いたる 信濃かな」の紫陽花の花です。久女が父廉蔵の納骨で松本を訪れ、そこで腎臓病を患ったのは、大正9(1920)年の8月のことでした。先年のホトトギス6月号では「花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ」が、三席ながらも賞賛され女性俳人としての地位を確立し、この大正9年吉岡禅寺洞の率いる福岡の俳誌「天の川」5月号では選者ともなって、久女の俳句人生はまさに順風満帆の矢先の出来事でした。

f0005116_14372050.jpgただその頃すでに俳句をめぐって、夫宇内とは溝が深まってきていたのです。あまりに句作にのめり込む久女には、夫との摩擦が心労と重なってしまったのでしょうか。

「阿ぢさいに 秋冷いたる 信濃哉」(句碑)
「山の温泉(ゆ)や 居残って病む 秋の蚊帳(かや)」

久女が紫陽花の句を読んだのは納骨式の前だったのか、それとも発病して松本の温泉で療養している時だったでしょうか。8月とはいえ山国信濃では、朝晩が冷えると聞きます。病んだ後の句とすればいっそう「秋冷」の語がしみてきます。
いずれにしても、この句は久女の俳句人生の最初の、大きな曲がり角だったように思います。その後久女は俳句を止めようと何度も思い、その度に復活を果たすのでした。

句碑は昭和58(1983)年8月1日、藤岡筑邨氏(俳人)他、地元有志の発起人により建てられ、もちろん石昌子さんも建立に加わっています。そして翌年には小原の
「灌沐(かんよく)の 浄法身(じょうほうしん)を 拝しける」
の句碑が建立されるのでした。

長かった久女シリーズの旅の見納めに、この城山公園にある展望台に上りました。そこからは360度のパノラマで、久女の愛した信濃アルプスの山々が一望出来ました。それは帰ってから小原の久女宇内夫婦の墓に参った時の、いいおみやげ話となりました。

f0005116_1713213.jpgこの松本もそうですが、あまり他のサイトに載っていない、久女とその家族、そして小原のことについて、知る限りなるべくこだわって書いてみたつもりです。しかし参考にした資料は始めから用意していた訳ではなく、記述順序が行っては戻りつみたいになってしまい、読みにくかったかと思います。うまく書けなかったところも多いのですが、久女シリーズとりあえずこれにて終了です。

思えば2002年のNHK人間講座のテキストに載っていた、久女と昌子さんの微笑ましい親子の姿が出発点でした。この優雅に構える久女の写真を見た私は、女流俳句は上流階級の奥様方のお遊びから始まったと思っていました。しかし実際の久女像は全く違っており、俳句をお遊び的に考えていた婦人たちを、久女こそが嫌っていたことも知ったのでした。ではこれにて、長らくのおつきあい誠に有難うございました。
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by ttru_yama | 2008-12-21 17:57 | 杉田久女

080920 信州松本と杉田久女句碑-21

f0005116_1073821.jpgもう1枚、富士見書房版の坂本宮尾著「杉田久女」の表紙カバーには、昭和17年とされる久女の写真が見られます。この年8月久女は義父杉田和夫氏の葬儀で小原を訪れ、また同月昌子さんの夫一郎氏が出兵するため上京しています。写真はその時昌子さん一家と撮影したものと思われますが、久女52歳の時のものです。
この後久女は空襲から句稿をかかえ守りぬき、終戦の翌年1月、食糧事情の悪い中筑紫保養院にて不幸な最後をとげるのですが、この口元に笑みをたたえ柔和な目をした久女の写真は、俳句も何も知らないでいた先の写真と見比べると、良くも悪くも俳句に生き、そして俳句に泣いた久女の人生をふりかえらずにはいられません。


f0005116_1110910.jpgさて、長く久女について書き何度も小原の墓詣もしてきましたが、いつも気の晴れぬまま夫婦の墓に向かって手を合わせるばかりでしたが、このたび小原の墓に向かってやっと、少しはましな言葉がかけられそうな日がきました。
この9月松本にある赤堀家の墓所(写真)を訪れたのです。松本は久女が尊敬した父赤堀廉蔵の眠る地であり、大正9年8月父の納骨で訪れた久女が腎臓病を患い、長期闘病生活が始まった地でもあります。

f0005116_1385138.jpg市内北部宮淵にある丸ノ内中学校のグラウンド近く、静かな住宅に囲まれた地に赤堀家の墓所があります。囲まれてとはいいましたが小原とは違って、陽のよくあたる開放的な墓地です。向かって右から久女に俳句の手ほどきをした兄月蟾(げっせん)の墓、父廉蔵と母さよの墓、次の小さな墓が幼いころ異国台湾で亡くなり、久女が愛してやまなかった弟信光の墓、そしてその隣が小原から分骨した久女の墓です。

f0005116_13351244.jpg昭和27年10月幾多の障害を乗り越え、まがりなりに虚子の序文を得て、難産の末に「杉田久女句集」が刊行されました。その後久女の再評価が始まってゆく中で、夫宇内はこの地に久女の墓を建てることを発願したのです。それを聞いた虚子は墓碑銘「久女之墓」の揮毫をしたといいます。そして昭和32年4月、家族に見守られたこの地に久女の墓が建てられました。

久女没後おそらく宇内は久女の書いた文章を読み直したことと私は思います。昌子さんが久女の投稿した記事などを集め、父に見せたのかもしれません。特に父母や弟の思い出をつづった文章は、宇内に分骨の意志を促した様に私には思えるのです。

『十九の年の夏、永い間の憧憬で有った父の故郷へ行った。あの藍色の信濃の山の美しさ。山を包む霊のある雲のたたずまい。私はもう何もかも忘れて山の神秘にとらえられて仕舞った。』
反面、続けて小原のことはこう書いています。
『其後私は栄華も富も、都会も、あらゆる現実界の光輝も幸福もすてて自ら、矢矧川(=矢作川のこと)の上流の淋しい淋しい山中を私の墳墓の地とすべく、思いがけない宿命の手に我れから投じて行った。だがそこには私の希望(のぞ)む深刻な色の山も神秘の森もなく只平凡な山と水。暗い因習と無智な安価な生活とが私を取り巻いて渦巻くのみ。私の胸は失望と悔恨とにうごめいて居る!!』(以上「曲水」誌 大正8年9月/「思い出の山と水」)

ずいぶん小原については手厳しい記述ですが、多分に作句に理解のない夫を通じて見た小原の印象だったようにも思います。しかし3年後の昭和37年5月、この地に墓を建てた宇内は他界するのでした。松本の墓を去る時、「もうこれで積年の確執からお互いに解放されたよね。いつでも小原と松本を行き来できるんだよね。」、と私は久女の墓に向かって祈ったのでした。
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by ttru_yama | 2008-12-14 15:37 | 杉田久女

081123 小原「松茸そば」と杉田久女句碑-20

f0005116_9284991.jpgこの期に及んでもう1冊、坂本宮尾著「杉田久女」を紹介します。(写真は富士見書房版ですが、現在は角川選書から新版が出ています) この本の存在は途中から知っていたのですが、当初は先に読んでいた米田利昭著「大正期の杉田久女」(沖積舎)と、石昌子著「私の五十年」(東京美術)や、石一郎著「大いなる幻影」(南雲堂)の小原に関連する記述、、そして田辺聖子著「花衣ぬぐやまつわる・・・・」(集英社)を参考にしていたのです。

よく調べて書けていると感じた「花衣ぬぐやまつわる・・・・」でしたが、それでも久女や、夫宇内の性格や久女の全体像が不鮮明な部分もあったり、内容も石昌子さんの思いとのずれがあったりして本当の久女像はそれでいいのかと、記述する際には苦労しました。そういった点の総チェックという意味でもこの本は、現在確認できる資料や事実関係をこまめに調べ、山口青邨に師事した女性俳人としての視点からも、句自体の検証評価、そして虚子はもちろん俳句仲間との軋轢なども通じて久女の内面に迫り、過去から今まで書かれてきた久女に関する記述についての曖昧さを再払拭し、特に最大の謎とされる虚子から一方的に発表された、「ホトトギス同人除名」や句集の発行問題に関しても鋭い考察を加えていくのです。

f0005116_12273377.jpg本の表紙カバー(部分)には久女の家族写真が2つ見えます。「杉田久女遺墨・続」のアルバム写真にも載っていますが、1つ目は昌子さんが子供の頃で妹の光子さんが生まれておらず、兄赤堀月蟾に俳句の手ほどきを受けたとされる大正5年以前の写真です。その後の夫婦の事情を知った者にすれば、久女(推定24、5歳)も夫宇内も穏やかで柔和な表情で映っているの事が写真の印象です。(よく見る久女の写真は、この写真から切り出したもののようです)

これまでいろんな本を読んできて思うことは、俳句がその後の久女自身および夫や娘に大きな影響を及ぼした事は間違いない事実ですが、その大根本とすればやはり久女の妥協を許さない一途な性格にあったような気がします。夫婦の関係で言えば、やはり育った環境が違ったことが原因なのでしょう。父の仕事で国内から、琉球、台湾を経て日本に戻り、お茶の水高等女学校を卒業し、大陸的な視野を持った久女と、三河の山奥の閉鎖された素封家の家に生まれた宇内とでは自ずから考え方にずれが出たのは無理からぬことと思います。

どちらかが歩みよればいいのですが、久女は革新的で夫は保守的なそれぞれ自分の位置を崩さずにいたように思います。当時の時代とすれば、家庭にしろ対外的にしろ久女にはもう少し控えめな態度が求められたと思います。でも、女性の社会的立場が向上した現在だとしても、ある意味妥協を許さず批判も恐れず突き進む久女の一途な性格が、周囲に波風を引き起こしているようにも思います。

虚子からの序文がもらえずに止まっていた句集の発行についても、久女の性急で自我の強さが災いしたように感じました。虚子にとって久女は有能な弟子の一人でしたが、こと師といえども俳句に関しては久女も自己主張が強く、虚子にとってはうるさすぎたのかもしれません。かといって久女を衆人の目にさらすように、誌面にて説明もなく同人除名をしたり、亡くなった後も小説や序文の中で狂人扱いしたのは、俳句結社の長である虚子としては大人げない行動だったように思います。性格的にはヒステリックな面もあったかもしれないけれど、久女は決して狂人ではなかったと感じました。

でもそのひたむきさゆえにわき目もふらず走り急ぐ部分は、久女自身の句作や、手作りの同人誌発行、そして過去からの女性俳句研究に突き進む上においては必須な要素であり、久女からそれを取ってしまったらただ平凡な俳人となってしまった事でしょう。台所雑詠から始まった大正期の女流俳句をリードする一方、現代に続く女性俳句研究は久女から始まったといって過言ではありません。以上、読んでみて私の思った感想ですが、思い違いもあるかもしれません。内容についてはみなさんの目でもご確認下さい。
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by ttru_yama | 2008-12-07 17:59 | 杉田久女