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081123 小原「松茸そば」と杉田久女句碑-19

f0005116_9281382.jpg「夜の衾(ふすま)」石昌子句集より
「こぞり咲く 小さく寒き 四季桜」
「花寂し 咲き満ち冬の 四季桜」
「四季桜 人煙たて 冬の谷」
「山里の 蕾む梅買ふ 師走人」
「青軸の 梅買ひが来て 年くるる」


写真は長屋門をバックに咲きほこる四季桜です。花の無い晩秋に咲く四季桜の華やかさは格別です。そう思うと久女は秋の四季桜を見たことがあったろうか、と気になって年譜をいろいろひっくり返してみたのですが、おそらく可能性は低い様に思います。

小原に嫁いで来た時は冬で、明治42年3月31日には夫は小倉に赴任し(久女も最初から同行したかは不明)、入籍届けは8月、長女昌子さんの出産のため再度小原に来た時が明治44年8月で、昭和17年の義父の和夫氏の葬儀は8月ということで、大正2年の義母杉田しげさんの亡くなった時がまだ可能性としてはあるものの、数少ない小原滞在時に久女が四季桜を愛でた可能性は少ないかと思います。もし久女が四季桜を見ていたらきっと句に残し、母子の競作を私も見ることが出来たでしょうし、花好きの久女は敬遠していた小原の地を、今は見直しているかもしれません。

「梅買・・」の梅の話は小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-16にも少し載せましたが、正月飾りの梅の花を業者が、この屋敷にも買いに来たことがわかります。

f0005116_14193217.jpg「苔清水」
「父の忌も 心に深かく 五月来る」
「仏彫る 石工の軒端 麦は穂に」
聖観音
「すらすらと 話纏まり 麦の秋」
「孫連れし 子等と打ちつれ 木の実踏む」
「谷風の 木の葉の嵩(かさ)を 踏みし墓」


写真は昭和57年に昌子さんはじめ遺族により建てられた、聖観音こと「杉田家先祖代々証大菩提也」です。(「証大菩提」とは「大いなる悟りを開く」という意味です) 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-14にも載せました「灌沐(かんよく)の浄法身(じょうほうしん)を拝しける」の句の2年前に建ったものですが、ある意味この聖観音が「灌沐・・」の句碑を招いたのかもしれません。

聖観音は句の流れから読み取ると、初夏から製作され秋頃に建てられたように思います。屋敷がいつ解体されたのか私は知りませんが、杉田宇内・久女はもちろんのこと、累代の杉田家先祖を弔う意味でこの屋敷跡地に建てられたことでしょう。

その聖観音はこれまた見事に咲き始めた山茶花と、黄葉と四季桜に囲まれて静かに微笑んでいました。そして聖観音の左傍らに小さく佇む碑は、平成19年1月29日行年95歳で亡くなった石昌子さんを慰霊する碑です。慰霊碑には「杉田宇内・久女 長女」とあります。

こうした屋敷跡の風情を見ると私には、この庭が生前反目を繰り返した両親と娘の昌子さん等が集う、安息のパラダイス空間に思われてならないのでした。(これまで半年かけてこの屋敷の記述を、中断再開しながら続けてきましたが、まさか秋にこんな花盛りの嬉しい情景を書くことになるとは思ってもいませんでした)
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by ttru_yama | 2008-11-28 16:21 | 杉田久女

081123 小原「松茸そば」と杉田久女句碑-18

f0005116_21141314.jpgタイトルがいつまでも「夏の七草そば」でもないだろう、ということで新メニューを食しに、本日は四季桜の咲く小原へと出かけました。ご存じのように小原名物の四季桜は、春と秋に咲きますがもちろん秋の桜が有名です。11月1日から四季桜祭りが始まっていますが、この連休頃が見頃ということで道は大渋滞で、迂回しながらやっとこさ「紙の花」さんへ12:30に到着しますと、店は観光客で満席状態でした。

これでは新メニューは売り切れか(実は前回は売り切れだった)と、思いきや幸い新メニュー「松茸そば」(1000)と「松茸ごはん」(400)にありつくことが出来ました。写真用に見栄えするよう松茸を浮かせてみましたが、かなりの実が入っています。まあこのお値打ちな値段ということで、どこ産の松茸かを詮索するのはこの際無しでおいしく頂きました。(おいしけりゃ何でもいいね/笑)

では石昌子さんの「実梅」の句を続けていきます。(言い忘れていますが、通例の句集のように原文には5・7・5の区切りはありません)

f0005116_21593096.jpg「いのこづち」
「蚕室に 馴れて寝泊り 小鳥来る」
「銀杏の実 一つ乗せ来ぬ 母の墓」


四季桜祭りの喧騒をよそに、杉田家の屋敷跡は森閑としていました。そしてこの庭にも四季桜が咲き、散り際でしたがきれいな紅葉も一人占めで楽しめました。(正確に言えば聖観音が一緒でしたね) 写真の紅葉と四季桜のバックは蚕室です。銀杏の実の句は信州に分骨した墓の可能性もありますが、おそらくこの小原の墓だと思います。(信州の墓の話はもう少し先になるかと思います) 今日は実際裏山の墓地の入り口に、小振りですが銀杏の木があるのを見つけました。


f0005116_2227629.jpg「歌かるた」
「片付けし 蔵より古鏡 歌かるた」
「竹林の 微風の及ぶ 山桜」


「片付けし・・」というのは小原の屋敷を引き払うことを言っているのでしょうか。生前の母久女にとっては未練の無い小原の屋敷でしたが、昌子さんにとってはここで産まれ、そして母の病気の時にはここに預けられ、戦後は父と暮らした思い出の家です。「竹林」は屋敷の右奥にあり裏道や墓地への登り道につながっていて、風の通り道にもなっています。


f0005116_23134086.jpgところで遅ればせながら、杉田久女随筆集(講談社文芸文庫)を買い求めました。これは久女が「ホトトギス」、「雲母」、「曲水」等の俳句誌に投稿した随筆を集めたもので、米田利昭著「大正期の杉田久女」や田辺聖子著「花衣・・」等にも多く引用されています。これを読むと久女がいかに俳句を生活の糧とし、句作に理解の無い夫や日常家事の狭間で句作に没頭し、時には病気とか才能の限界を感じて俳句から離れたり、再度情熱を燃やし、自分の納得のいく一句を得ようと苦悩してきた様子がわかります。

夫とのズレはやはり趣味が違う点にあり、夫婦で俳句を趣味としている人達をうらやんでいます。かといって俳句に没頭しすぎて、家事を怠った時もあった事も白状しています。こういった文章を見て行くと、雑誌に載って人の目にさらされる事を前提にしているのに、包み隠さずに書いてもいます。この点愚直なほど真っ直ぐな性格の人だった事を再認識しました。
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by ttru_yama | 2008-11-24 00:00 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-17

f0005116_21401180.jpg今回は石昌子さんの句集の一つ「実梅」の中から、ふるさと小原と母への想いから詠んだと思われる、久女追悼の姿を追って見たいと思います。昌子さんは母に勧められ句作し、虚子の娘である星野立子の主宰する「玉藻」に投句をしていました。タイトルの「実梅」とは、鑑賞用の「花梅」に対する言葉のように思います。

この句集のあとがきに昌子さんは、『俳句は私の人生の日々にとって、愉しいものでも有難いものでもなかった。どちらかと言えば私の心身にとってひどく辛いものであった。その思いは運命としていつも私に作用した。気がついて見ると、打ちのめされた自分をいくじないと思う心が、いつか人生を大切にしたいという心に変わり、救いを求めるようになっていった。』と書いています。句作をするということは、ある意味俳句に人生を弄ばれた母の背中を追い続けるようなもので、けして愉しいことばかりではなかったのでしょう。

石昌子「実梅」より
「霊鷲山」(りょうじゅせん)
「琴の茶屋 合歓の花咲く 石畳」 (英彦山 七句のうち一句)
f0005116_23291898.jpg英彦山(ひこさん)はもちろん、久女の有名な「谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまゝ」の句作の地です。この句は帝国風景院賞句(金賞)の20句の一つとして、昭和6年4月発行の日本新名勝俳句(写真)に収められています。この本の英彦山の部には全11句(内金賞1、銀賞1)の久女の句が入選しています。
また昌子さんはこの地に前述の金賞句と銀賞句の碑を建立しています。銀賞句は「橡(とち)の實(み)の つぶて颪(おろし)や 豊前坊(ぶぜんぼう)」という句です。(豊前坊=高住神社)



f0005116_2222518.jpg

「初鮭」
「ふるさとの 山峡訪いぬ 稲光」
「山負ふて 山に向く家 稲光」


杉田家の屋敷は訪れてみると村道に近く、道に沿って稲田も拡がっており、今見るとそんなに山深い印象は受けませんが、それでも村道を登って行って屋敷を正面から見おろしますと、この「山負ふて 山に向く家」という句の通りの景色が見えてきます。
事実写真の角度からの杉田家は、句の如く山裾の木々に包まれています。(杉田家は中央の杉木立の左下付近、墓所は杉木立の右手上方付近です)


f0005116_2385970.jpg
「いのこづち」
「杉の香の 時雨にひたり 佇(た)ちし墓」
「唐辛子 お墓の供花に 挿し添へて」


裏山にある杉田家の墓所です。鬱蒼と繁る木々に囲まれ昼なお暗き地にあり、何代にも遡る墓石が林立しています。その中で中央に建つ立派な墓が宇内の親である杉田和夫夫妻の墓で、その右手が宇内と久女の眠る墓です。

この墓所にはつごう三度墓詣をしたでしょうか。しかし久女夫婦の墓前に佇み、「縁あってあなた方夫婦の記事を書くことになりました。」と、心の内で唱えるのですが、後年は互いに反目の日々を過ごした夫婦に対して手向ける言葉が見つからず、いつも幕切れの悪い墓参となってしまうのでした。

「久女さん、宇内さんは心の奥では貴女の事を評価していたんですよ。」とか、「貴女を狂女扱いした小説家とも闘おうとしてもいました。」とかなぐさめの言葉は浮かぶのですが、それにもまして山村のこの地を好きになれずにいながら、この地に埋葬されてしまった久女の無念を思うと、なかなか気のきいた言葉も見つからないのでした。思うにこんな気持ちになってしまうのは、この暗い墓所の閉塞感が影響していることも一因ではないかと思うのです。
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by ttru_yama | 2008-11-19 23:25 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-17

f0005116_9284112.jpg8月以来、ずっと久女記事が滞っていますので、ここしばらく集中していきたいと思います。石昌子さんの、母久女への想いを、父宇内に次いで「私の五十年」より拾ってみたいと思います。晩年の久女の様子と昌子さんの内面が見えて来る事でしょう。(写真は杉田家跡に昌子さんが建立した観音像)

『「お前も俳句を作るがいいよ」と言われ、その頃私は「玉藻」に投句した。平素から私は母から「昌子は常識家」と評されていてそれが気に喰わなかったし、(・・)私の実際解らぬ言葉の中には、「吾家には矛盾がある」とか、「血も涙もない者に何が芸術が分かるか」、「お前の家は旧い家だから覇気も気力も無い」、「依存性が強い」「遊情で太平楽」「島国根性で滅びる一歩手前」(・・)などなど私さえ激しさに圧倒されるものがあるが、(・・)母の神髄を知る者としては洵(まこと)に清純、純粋すぎる人柄なのである。』

『ダイヤを捨て馬車を捨て芸術家の夫に嫁したが、一枚の絵も描かずとうとう田舎教師に墜ちてしまった」(・・)それは父を非難すると言うより、自身の不運、気持ちの悲しみについての自嘲を含む無念の思いがこもり、母の泣き腫らした瞳を知る私は愛憐の心で受取らないでは居られぬ。』

『「女としては失敗、俳句は未完成、昌子と光子を育てた事を以て母として死んでゆく」(・・)「もし自分が死んだ後でももし機会があったら、お前は忘れずに、句集を出してほしい」この"忘れずに"という言葉を何度か重ねた。それが私との今生のお別れの母の心だったから、とても、その母が狂気の人になったとは思い至らぬ。』

『そればかりでなく、母は頭脳明晰、人間的に正直、(・・)絵も字も台所仕事片手間に書いていた文章でも、(・・)飛ぶように速く、学校の作文に悩む私には驚きだった。(・・)母の知識欲は旺盛で、碧巌録-仏教書、(・・)「出家とその弟子」も愛読書だったし、新旧約聖書(旧約聖書は「芸術なのだ」と言った)を耽読していたのを覚えている。(・・)ともかく生きるため、自分の心を見つめる目を母は与えてくれた。』

・・ということで、肉親の目から見た久女像は久女の俳句を別の視点から見直すとともに、俳句に関わった一母娘としての絆を感ずるものでした。

すでに一部書いてはいますが、久女は娘の病気の看病において、愛情深き句を多く残しています。同じく「私の五十年」の「久女遺句集と私」からみてみましょう。

「七夕竹を 病む子の室に 横たへぬ」、「梶の葉に 墨濃くすりて 願ふこと」、「面痩せし 子に新しき 単衣かな」、「銀河濃し 救い得たりし 子の命」、「床に起きて 繪かく子となり 蝉涼し」

『私の看病に尽くした母の姿を思うと、私には命の恩のある慈母でしかない。(・・)母の不慮の死で、気も狂わんばかりだった私・・・・当時山村の生家(注、昌子さんが生まれた小原の生家のこと)に住み、狐狸の横行する夜の闇さえ恐ろしくはなくなり、幾夜も山里の山をさ迷った。とはいえ、私は母の死から、母のもがきもこれで終わったという、何かほっとするものを受け取っていた。』

こうして母の死後、昌子さんは母の慰霊と成仏を祈る積もりで、久女遺句集(昭和27年10月刊行)に向けて取組んでゆきます。しかしそれは昌子さんが母久女の伝説と共に、世間と向き合ってゆく「私の五十年」のほんの序盤に過ぎなかったのでした。
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by ttru_yama | 2008-11-16 11:37 | 杉田久女

081112 トモガキ ~ちばてつや氏20歳のトキワ荘~

f0005116_22324974.jpgこのところマンガづいています。(笑) さて物事を偶然に見落とすこともありますが、偶然に見い出すこともあります。最近は忙しくて大島サン以外のマンガを見る暇がなかったのですが、今日はマンガ喫茶で昼食をしたのでした。そこで見たのが今週の「ヤングマガジン」50号です。ふだん「ヤングマガジン」で見るのは、2、3のお気に入り作家の漫画を、パラパラっと早めくりするだけなのですが、今日は時間があったので他の作品もわりあい時間をかけて読んでいました。

それもいいかげん飽きてきた頃、目に飛び込んで来たのが一見して「ちばてつや」さんとわかるマンガのキャラクターでした。それはナント、故・石ノ森章太郎(当時は石森)氏と故・赤塚不二夫氏を中心としたトキワ荘(手塚治虫氏が最初に仕事場として使用したことから、それ以来彼を慕うマンガ家が入居した伝説のアパート)の面々とのマンガを通しての心の交流の物語でした。(ちばさんのマンガがこの雑誌に載るのは28年ぶりだとか!!)

あらすじは
『20歳の頃ちばさんは「少女クラブ」(講談社)に、「ママのバイオリン」を連載し人気漫画家となっていました。ある時その「ママのバイオリン」が別冊付録として掲載されることになります。付録といっても目玉企画なので、ちばさんは講談社の別館にカンヅメ状態で原稿を描いていましたが、締め切り2日前になっても7ページしか、ペン入れが出来ていない状態で編集者に小言をいわれていたのでした。その時あろう事かちばさんは、冗談で編集者に「電気アンマ(悪ふざけ)」をかけて喜んでいたのですが、おかえしをされ窓に体ごとぶつかり、ガラスで口内や大事な商売道具の右手の、筋を切ってしまうという大ケガをしてしまいます。こうなってはもうマンガどころではありません。

人気付録に穴を開けることの出来ない、少女クラブの丸山編集長はかえり血のついた原稿を持ってトキワ荘の石森、赤塚両氏を訪ね、代筆でペン入れを願うのです。夜中に何事かと集まったトキワ荘の住人は、その残り2日で仕上げなければならない膨大なページ数と、絵のタッチも違うし編集者の理不尽な申し入れに、ちばさんの原稿にペン入れするのを拒みます。ましてやちばさんはトキワ荘仲間でも無かったので、そこまで義理立てする事もなかったのです。

でも石森・赤塚両氏は作品でしか知らなかった、ちばさんの原稿を自分達の勉強だと仲間にも呼びかけ、今までのちばさんの連載を見ながら、そのタッチを掴んで締め切りまでになんとか仕上げたのです。病院で完成したゲラ刷りを見せて貰ったちばさんは、胸にこみ上げて来る物を感じ一時外出の許可が出るとトキワ荘を訪ね、作品上でしか知らなかった石森赤塚氏達に感謝を告げるのでした。ここからちばさんと、トキワ荘の面々との交流が始まっていくのでした。』

ということで、50号は後編ですが、49号(前編)合わせ90ページのちばさん69歳の大作でした。それはちばさん自身の20歳の苦い経験を語るとともに、つい先日亡くなった赤塚不二夫さんや先に逝った石ノ森章太郎さん達へのレクイエムが込められていて、胸の熱くなるような作品でした。漫画界の歴史の中でも、トキワ荘のあったこんな時代はもう二度とやってこないことでしょう。読み捨てのマンガ週刊誌ですが、いつもなら見逃してしまうはずのところ、偶然にも目に留めることが出来た次第です。(50号表紙のちばさんに関する部分を抜き出して写真に載せましたが、ふだんこんなカットまで見ていませんものね。えっ、ふだん表紙のどこ見てるかって・・?!)
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by ttru_yama | 2008-11-13 00:11 | 本・映画・ドラマ

080913 グーグーだって猫である-大島弓子の世界-10

・・さて、前回からまた追加で大人買いしたので、大島サンのマンガが続々届いています。でも今大変困った状況にあります。前回では「秋日子かく 語りき」から、作品を遡っていこうと思ったのですが、それ以前に(まだしっかり読んでいませんが)「ロスト ハウス」とか、「つるばらつるばら」、「ロングロングケーキ」(←これは読んですごいと思った) など文庫のタイトルにもなった作品があるのに、これを飛び越えて遡るなんてできない、と思ったわけです。(このあたりの気持ち的には、あの作品を見逃して・・という後悔の予感がしてならない所からきているのです)

かといって、初期から見直すという方も作品が手元に無い場合、記憶も全くうすれているので記事にならない気がします。しかしながら、こちらの方式のほうが正攻法である事にまちがいないし、新たにコミックス化されてくる可能性も低いわけ(絶版が見つかる事が、あるかも知れませんが)なのです。ということで多少不安はありますが、私が見た初期作品からなぞって見ていきたいと思います。

ところで今回いろんな人のブログや作品リストの確認で参照させて頂いている「White-Field」さんをはじめとするHPを見ました。2チャンネルの部分的なスレや、男の読者も結構いることに感心したり、コミックス未掲載作品を見る為に国会図書館に行くという(そこまで! というかある意味羨ましい)人もいたり、コミックス未掲載作品の復刊を望む人達などがいたりして、大島ファンの熱い想いを再確認しています。

f0005116_23282941.jpgということで「秋日子かく 語りき」は、それまでお預けなのですが、実はこの単行本(ASUKAコミックスでない方の「秋日子かく 語りき」/初版2003)には大変な「おまけ」がついています。それは大島サン自身による作品の思い出や解説があるからです。(写真は本の裏表紙となります)
角川の本へ大島サンが作品を描くのは「秋日子かく 語りき」が最初の作品(月刊ASUKA/1987.01/角川書店)となったということで、これを2003年にASUKAコミックスからあらためて単行本化した際の企画だったのでしょう。(こういうのは他社にはみられないところ)

この本人よる作品解説には「ポーラの涙」(1968.04)から、「すばらしき昼食」(1991.06)までが部分的に選択して載っています。こういう企画は今後もまたやってもらいたいところですが、その中の話もとりまぜて行きたいと思っています。
ということで、思いつきでいろいろ話の進行が変わるのがウチのブログの特徴ですが、次回からは初期作品から見ていく予定です。(たぶん・・。) 長期化しそうなので、滞っている続き物も時々織りまぜながらして行かないととも思っています・・ハイ。(汗;;)
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by ttru_yama | 2008-11-09 00:47 | 大島弓子

080913 グーグーだって猫である-大島弓子の世界-9

「秋日子かく語りき」(1987/1)。題名は聞いた覚えがあるのですが、コミックスは現在無くて、ネット記事で調べても既読なのか不鮮明です。このあたりは大島作品から離れてた時期でもあります。今回いろんな方のネット記事見ると避けて通れない作品のような気がしますので、少し書いて見たいと思います。またNHKがこの原作を主人公を宮崎あおいさんでドラマ化(2004/1~2)した「ちょっと待って神様」(見ていませんが)のページに大島サンのコメントが載っています。そしてBSマンガ夜話(1996/8)でも取り上げられたようですが、この頃家にBSは無かったのでした。(笑) しかしこの番組「ポーの一族/(萩尾望都氏)」なんかも、こんな以前に取り上げていたとは・・。

ということで「あらすじ」は、先程の方のネット記事を引用させて頂こうと思います。
『「秋日子かく語りき」はすてきな作品です。同時に事故に巻き込まれた二人。54歳の主婦と高校二年生の秋日子(あきひこ)。 秋日子はまちがいで来たのだから今すぐ自分に戻りなさいと神様の使いに言われます。主婦は人生に納得してないので生き返らせて欲しいと訴えます。それを聞いていた秋日子はしばらくの間自分の帰り道を貸してさし上げましょうと言い出し主婦は六日間だけ秋日子になって生活することになります。』(myucoさん)

まずタイトルの「秋日子かく語りき」はいうまでもなく、「ツァラトゥストラはかく語りき」からとったものでしょう。音楽的にも映画「2001年宇宙の旅」のオープニングのファンファーレとドラムの音で有名です。ニーチェの永劫回帰についてのページを見ると「秋日子かく語りき」にも関連する内容ですので、勉強家の大島サンのことですから、そんな内容も踏まえてのことなのでしょう。この作品例のように大島サンのタイトルは深い事もあるのですが、時に内容をほとんど現して無さそうにも思える事も有ります。まあそういうのは予告掲載時に、まだネームがほとんど出来ていなくて発表したものかなと思っています。予告の表紙の絵なんかに、違和感があるときなんかもそういった事情があるようですから。そうして大島サンの修羅場が始まって行くんですね。

大島サンの漫画には、こうした黄泉と現実の生死の世界の交錯が時々描かれます。前回紹介したの「8月に生まれる子供」(1994/07)なんかも、少しばかり関連がありますし、「四月怪談」(1979/06)は全面的にその世界で、「10月は二つある」(1975/10)や「F式蘭丸」(1975/08-09)なんかもこういう事象に関係する作品です。この手の世界を漫画で(ファンタジックに包んで)描けるのも、大島サンの持つ力量ではないかと思います。

(この続きはコミックスが届いてからにしましょう)
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by ttru_yama | 2008-11-01 21:40 | 大島弓子