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080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-16

f0005116_11431852.jpgここへきて愛知県でも集中豪雨がありましたが、暑かった8月も今日の31日で終わります。ところで生前の久女が小原を最後に訪れたのは、昭和17年の8月の義父杉田和夫氏葬儀の時でした。
石昌子著「私の五十年」の写真図録には、小原に来て作った原稿用紙8枚程の句稿の写真が載っています。久女自身のためのメモ書きであることと、くずし文字なので私には判読しにくく、間違いもあるかも知れませんが分かる範囲で書き出してみましょう。(写真は長屋門に登る門阪です)

「 松名滞在の句」 十七年 自八月三十一日 至九月十二日
「門阪の植え(〇)つけあるおみなへし」、「あさがほを釣〇〇にころぶしぬ」、「邸いろいろ筧の〇のある〇〇〇」、「門阪につけある花もおみなへし」、「葱(?)をいけ茄子をとりて〇・・り」、「笊(?)につむ大きな茄子のつ〇てけれ」、「かこにつむ〇〇〇盛りの秋茄子」、「ここに来てあつさも忘れ京(?)楓」


f0005116_1323995.jpgおそらく葬儀の傍らに走り書きしたものなのでしょう。原稿の1ページ目しか見えませんので、葬儀自体の様子が書かれているのかは分かりませんが、日常の句作では身近な花や野菜に題材を採る久女の様子が伺えます。
和夫氏は一族では道楽人のようでしたが書を嗜み、久女も俳句のため書の修練をしていたので、そういう面を尊敬していたようです。

「私の五十年」から小原に帰った宇内の様子も拾ってみましょう。
『年貢米で暮せた世の中は消え、敗戦で農地は開放、地主は農家となって転落、無収入となったが、一生働いた恩給が父には生活の支えとなった。(・・)贅沢をするわけでもなく、我身を飾るでもなく、無欲で質素、風采も田舎親父に見え、毎日古洋服で地下足袋、巻脚絆、鉈を腰に必ず下げ、時には鉄砲持ちで山の見回りをした。(・・)年末になると(・・)正月の花買いがやって来る。正月用の立花に我家の門前の豊後梅に目をつけた。(・・)が、父は断った。金にするより眺め度いと言い、お金にしなかった。』

『退職して後に小倉を訪れたときは全校生徒に迎えられたという。(・・)土産話の中で白萩の見えなかった話は苦情の一つだった。「あの玄関脇の窓の下に、わしが手入れしていた白萩を枯らしてしまった。(・・)どうした、と聞いたら枯れました、といった」(・・)小倉の記念に持ち帰った白萩は、山の日に所を得て、毎年美しい風情をこぼしていた。父の本然の姿がそこにあると思った。この白萩も今は見るよすがはなく、旧屋敷は解体の運命に際会してしまった。』
山里生まれで、一見花など見向きもしないと思っていた宇内には、こんな一面もあったのでした。
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by ttru_yama | 2008-08-31 14:02 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-15

f0005116_12175549.jpgさて杉田久女句碑に巡り合い、小原の地にも4回足を運ぶ事となりました。終盤となってきてもまだまだ分からないことも多々あるのですが、これからは石昌子著「私の五十年」~久女の実像を求めて~(平成10年10月1日発行)も参考にしながら、これまでの記事に関連する部分を振り返ってみたいと思います。小原は今でこそ419号線が整備され、うまくいけば豊田市内から3、40分で着く事もできますが、久女の時代は大変な山奥の村だったと思います。沖縄、台湾と外地で育ち、お茶の水附属高等女学校を卒業した久女は、この山奥の村での暮らしを好まなかったと言いますが、宇内が小倉中学の任地へ向かったのもそうした思いもあったのではと、昌子さんの記事「如法暗夜」を読んでから思うようになりました。当時の小原の交通は今とは隔世の感があります。

最初に「私の五十年」の本ですが、この本は娘である昌子さんが、母久女から依願された悲願の句集を出そうと虚子に手紙を出し、昭和27年10月、なんとか刊行できたものの、序文はもとより依頼した手紙も虚子に利用され、母久女は精神分裂病に仕立てられ、後にそれが反久女派の久女叩きにも増幅されていった、いわゆる偽りの久女伝説と戦い続けた昌子さんの軌跡の集大成ともなる本です。作者はゆがめられた久女伝説が、残る家族に及ぼした災いに傷つき、自身の無力さと絶望に耐えながら、少しずつ支持者の協力を得て書かれてきた虚偽の真相解明を追求してゆきます。

このブログもその姿勢に共感する立場で書いているつもりですが、残念なことにこの本には載っていないことがあります。(ある意味しょうがないのでしょうが) それは虚子をはじめ、反久女の急先鋒・横山白虹、そして久女に師事した橋本多佳子、姉事する中村丁女等が、久女のどうした点が嫌われ、そうした偽りの事実が書かれたかということです。そしてそれはこの記事を書いている私自身が、この時点ではいまだに久女の正確な実像を掴むことができないでいる点でもあります。これらの人に何故久女は嫌われ反感をもたれたか、(反感をもたれれば人は、あることない事に尾ひれをつけて悪く書きます)そこがずっと私には分からないでいたのです。ある意味こういう久女にとって負の部分が説明できずにいて、すっきりブログが終われないでいる面もあるのです。

田辺聖子著「花衣・・」には『久女資料を読むと、「久女の異常」に関してはどれもごく抽象的な記述しかない』とあります。
それでは何も進展説明にならないので、反久女派の横山白虹の文章みると「ヒステリーとか、一つのことに夢中になると、周囲への見境がなくなって」(「花衣・・」)という言葉が見られます。久女が「花衣」廃刊の時、神崎縷々宛てに書いた久女の手紙には、『廃刊は私の一生にとって誠に有り難い教訓となりまして今は却って魂の目がさめ傲慢不遜欠点だらけの私を更生いたす様日夜そればかり願って居ります。・・御相談の内容は御援助を強要したいとか再び小倉の俳壇へでしゃばりたいとかいふ心持ちでは全然なく・・』(「私の五十年」)とあり、久女は自身の傲慢さを認めているようです。また昌子さんが虚子に序文を頼って、へりくだって書いたとも思える手紙には、「母は病気でありました。」「我が儘で手がつけられない」と書いた(「花衣・・」ようですが、それを虚子は逆手にとったかのように「此の手紙にあるように或年以来久女さんの態度には誠に手がつけられぬものがあった」と利用されています。
(反久女側記述 / 久女側記述)

そんな断片的なことから素人の私が感じたのは、久女という人は自分の俳句に対して並々ならぬ自負と自信を身につけていましたが、物事に一途な性格が災いして、時にはそれが他の人には傲慢とも受け取られていたのではないかという思いです。もっといえば、久女という人は自分の信念を変えてまで、相手に迎合できぬ人だったようにも思うのです。
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by ttru_yama | 2008-08-17 22:27 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-14

f0005116_862875.jpg観音像の右隣に立つ久女の「灌沐(かんよく)の浄法身(じょうほうしん)を拝しける」の句碑です。(「灌沐」と「浄法身」の読み方は石昌子さんの解釈に従います) 久女が亡くなって以来、虚子の文章、松本清張の小説「菊枕」、吉屋信子の小説「底のぬけた柄杓」により、遺族にとっては耐え難い形で久女伝説が一人歩きします。母の句集を刊行した石昌子さんは、夫一郎氏とともに、それらの誤った記述の訂正のため奔走します。ここにきて宇内も娘夫婦と同じく憤りを感じ、清張の「菊枕」の訂正を求め裁判も辞さない覚悟を持ったようです。
結果は簡単に解決に至るような経過では無かったようですが、善くも悪しくもこれらの文や小説は、久女を世に知らしめる結果となりました。

この地においての句碑の建立は久女の句が再評価されていく中で、遠路久女の墓を訪ねるとともに句会も催され、この小原にも久女の足跡を留めたいという気運が起こる中で、石昌子さんが句碑を建立し、小原村が協賛するという形で、昭和59年11月10日に行われました。「灌沐の浄法身を拝しける」の句は久女自身の編集となる同人誌「花衣」3号(昭和7年6月12日発行)に載せたもので、ホトトギス7月号の虚子選の雑詠欄の巻頭作品ともなり、まさに久女絶好調の時の句でした。この句は久女がよく吟行を行った小倉にある広寿山福聚楽禅の寺で行われた灌仏会(4月8日の花祭りのこと、仏生会ともいう)の時の情景を詠んだもので、甘茶で身を清められ誕生を祝福された仏身を心から拝んだという意ですが、「拝しける」と言いきったところに久女ならではの持ち味が出ているかと思います。

f0005116_02934100.jpgこの仏生会の時詠まれた他の句も紹介しておきましょう。「無憂華の木陰はいづこ仏生会」、「ぬかづけば我も善女や仏生会」。摩耶夫人が釈迦を産んだ時そばにあったという無憂華の花。久女も日々の生活の中で、無憂華の木陰を探していたのでしょうか。そして「灌沐の浄法身を拝しける」。句を見ていると当時の久女の生活風景が伝わってきそうです。さらにここ小原の地にあって観音像のそばに、この句碑を選んで建てた昌子さんの気持ちも合わせて伝わってきそうです。今はこの地に眠る久女は、子の建てた句碑と観音像のあるこの庭からの景色を、どんな思いで眺めていることでしょうか。
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by ttru_yama | 2008-08-14 22:43 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-13

f0005116_22584396.jpg長屋門を抜け、右手の蚕室を横に見ながら進むと何も無い空き地がみえてきます。かつてはこの中心に藁葺き屋根の朽ちた母屋がありました。その母屋は昭和29年に瓦屋根となりましたがこの母屋も今はありません) 小倉から小原の家に引き上げた宇内は、一人居間にかくれるように住み、旧知への手紙を書く事が多く、めったに姿を見せなかったようです。ただ一つの趣味としてウィンチェスター銃を担ぎ、猟犬を供に山へ狩猟に出かけるのでした。石一郎氏の「大いなる幻影」ではその頃の母屋の様子を伝えています。

『欄間には先々代達之丞(多十郎翁のこと)と先代庄衛門(和夫氏のこと)の写真が額縁に入り掲げられていた。先々代は・・口ひげを八の字にぴんとはね上げ、人を射るような目がするどく、顔つきがいかめしい。((「杉田久女遺墨 続」にある多十郎写真では柔和な印象を受けます))剛毅果敢な人と知られ、県会議員を長年務め、後県会議長となって・・名声を高めた。先代・・は柔和な面持ちが対照的だが、体格がよく、ほとんど終身村長を務めた。猟期になると猟に出かける一方、日置流弓術の師範格で、毎年正月には、前庭に矢場をつくって弓術大会を催し、門弟はもちろん見物に集まってくる人々にふるまい、得意だった。』

小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-4にも載せましたが、大正9年ホトトギス9月号に、久女の「さうめんや孫にあたりて舅不興」 が載っています。小原の家では久女はよくできた嫁とされ、舅(和夫氏)ともうまくいっていたようです。この年は久女が父の納骨で松本へ行って倒れた年なのですが、その前に一家で宇内の実家を訪ねた時の句ではないかと、私は思うのですが・・。

f0005116_2318676.jpg「花衣・・」の著者、田辺聖子氏は昭和58年5月、この地を訪れているので引用してみます。この時すでに新しい母屋も、東西の蔵も無くなっていました。
『道からたらたらと坂を登った上に、宇内の家はある。いや、あったというべきであろう。坂の上を塞ぐようにして、実に見事な長屋門が建っている。(・・)久女が十里の山道を駕籠で揺られ、さらに坂をのぼってこの門をくぐったのかと思った。(・・)門をくぐると、邸はあとかたもなかった。邸内は一望の草原に還っている。(・・)四井は鬱蒼とした木々だが、若葉の照り返しで明るい。ただ隅に白い観音像が建てられている。これは昌子さんの建立されたもので、のちにこのそばに久女の句碑「灌沐(かんよく)の浄法身(じょうほうしん)を拝しける」が建つのであるが、この時はまだなかった。青葉一色のなかに庵治石(注/あじいし/黒雲母花崗岩)の雪白の観音像は浮きでていた。(・・)いきどころのない祖先の魂を慰めるには、観音さまの像に如(し)くものはないであろう。やわらかなお姿である。』

この観音像の台座には「杉田家先祖代々証大菩提也 昭和57年建之」とあります。句碑はその2年後菩薩像の隣に建てられました。
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by ttru_yama | 2008-08-07 23:56 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-12

f0005116_16313192.jpgかくして昭和21年1月21日午前1時半、杉田久女(満55歳)は福岡太宰府町の筑紫保養院で亡くなります。小倉にいた宇内(満61歳)は臨終に間に合いませんでした。宇内は40年過ごした小倉を後にして、小原に帰り2月10日に妻の本葬を行います。小原では鎌倉から疎開していた昌子さんが母の亡骸を待っていました。石昌子さんの「私の五十年」によれば、
『母が亡くなった時は、母は小倉の地から追われる如くであった。旧小原中学の卒業生だった人が葬儀は郷里でしなさいと提言したという。悪い評判を父の為に案ずる卒業生の思いやりだったかも知れぬ。父はその意見もあって終戦後、骨壺を背負いひとまず山村の生家に帰り葬式を行った。』とあります。

宇内が郷里に持ち帰った物の中には、久女の遺稿がありました。妻の句作活動には否定的で、久女から「指一本觸れて貰いたくない」と言われていた遺稿でしたが、宇内はそれを小原まで持ち帰ったのでした。その遺稿を前に昌子さんは、母が生前果たせなかった句集の刊行を思いめぐらすのでした。その後、中国戦線にいた昌子さんの夫、石一郎氏が復員します。著書「大いなる幻影」よりその頃の小原の様子を見てみましょう。(・・は中略)

『(おそらく知立駅から)・・終点の挙母町(現豊田市)につき、・・バスはさらにうす汚れたガタガタの木炭車だった。・・山道の登りにかかると、乗客は全員降りて歩いた。・・最後の峠をこえると、・・終点の集落についた。・・半鐘のある火見櫓の間から谷間道に入った。・・大きく突き出た山鼻を回ると・・長屋門はむかしのままだったが、・・くぐって母屋の前庭に立つと母屋の中から現われた妻の佐知子(昌子さんのこと)はびっくりして立ち止まった。・・「まあ、だしぬけに、・・いつ帰ったの」・・旧家の有様も変わった。先代の庄衛門(和夫氏のこと)は戦時中に他界していた。当主の多門(宇内のこと)は無事だったものの、病気がちだった義母(久女のこと)は食料事情の悪化も手伝い、死亡した。・・母屋の荒れはひどく、常住出来る部屋はありそうもなかった。』

f0005116_22351730.jpg『やむなく前庭を隔てた蚕室に疎開荷物をはこび、そこに落ち着いて住んだ。・・蚕室は・・瓦葺きで・・長屋門の背後の石垣に沿って建ち、・・板張りなのでムシロや茣蓙を敷き、その上でねた。』
この蚕室で昌子さんは久女の遺稿を原稿用紙に清書しなおして、虚子に序文を依頼する手紙を書くのでした。この手紙は後に虚子により悪い形で発表され、遺族を逆なでする久女伝説を生み出すこととなるのですが、ともかく「杉田久女句集」は昭和27年10月に刊行されたのでした。
やっと念願の母の句集を出した昌子さんでしたが、次は作られた久女伝説と戦うことになります。
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by ttru_yama | 2008-08-03 23:21 | 杉田久女