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080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-11

f0005116_8203587.jpg以前載せた田辺聖子著「花衣ぬぐやまつわる・・」(集英社)の本は表紙カバーが無かったので、ここに再掲載します。さて読みすすめていくと著者がいうように、虚子は久女の句や研究熱心さは認めていたものの、個人としての性格(その一途さによる熱情的につきまとうとも思われる性格のことか?)を嫌っていた、という田辺説はあながち間違ってもいないようにも思えてきます。日野草城や吉岡禅寺洞にはホトトギスに反旗を掲げたという理由があるけれど、虚子崇拝の久女に対しては確かな理由が見つからないから、「単に久女が嫌いだった」というのが筆者の見解です。もし虚子が久女を反目した正当な理由が伝わっていたなら、昌子さんも何らかの形でそれを聞き取っていたことでしょう。

筆者も書いていますが長女昌子さんも久女に勧めたように、虚子に処女句集の序文を断られ発刊が出来なかった時や、同人を除名された時に思い切って「ホトトギス」を離れていれば、久女のその後の人生はこんなに苦しまずに済んでいたかもしれません。でも久女は「(世間を前に)恥をかかされた」と思いつつも虚子から離れることはありませんでした。
足袋つぐやノラともならず教師妻」の句には夫に対する不満をのぞかせていますが、同様にホトトギスを離れて生きていけなかった久女の姿が見え隠れています。気の強い面もあったけれど久女も当時の女だったのでしょう。また虚子を師とあがめて地方で橋本多佳子等を育て、俳句指導をしてきた久女には突然の宗旨がえは難しかったのかもしれません。

久女は最後まで句作を続けました。夫宇内は相変わらずでしたが、娘とも打ち解けられず何か心が不安定な状況だったようです。「花衣・・」には戦争末期、鎌倉の昌子さんを最後に訪ねた状況が載っています。(その後昌子さんは小原へ疎開しています)
『俳句に希望を失って以来の久女は、娘の目から見ると神経衰弱気味で、何でも無いような事に顔面蒼白となって激怒する癖があった。それを娘が指摘すると、「子供の前でぐらい、思ったことをいって何が悪い」とよけいたけり募るのであった。(中略・・昌子さんは)「私はよそよそしくもなれず、かといって平気で無神経になってしまうことも出来ず、冷淡ではいけないし、避けることも出来ず、馴れ親しんでうっかり怒らせたくはなし、同情しては気に入らず、へり下った気持ちも持てず、それでいてなおかつ母がいたましかった」(中略・・久女は)「光子(注・久女の次女)も台湾で元気でいるかしら、わたしは光子たちの身の安全と、お前のために石さんが戦地から無事で帰れるように、朝晩祈っているのよ・・やっぱり子供が大事だわねえ。わたしは今まで少しばかり俳句ができた思ってうぬぼれていたけれど、いまこの年になってみると俳句より子のほうが尊いねえ」』

これが母子の最後の別れとなりました。戦争中は空襲警報を聞くと、久女は防空壕に風呂敷で包んだ自分の句や原稿を大切に持ち込んでいました。夫は警報が出ると学校へ警備に出かけるので、久女はたった一人で句稿を抱えてしゃがむのでした。こうした戦争がますます久女の心を疲弊させたのかもしれません。昭和20年8月戦争は終結しますがその10月、久女の精神状態に異常を感じた宇内は、教え子の勧めもあって久女を太宰府の筑紫保養院に入院させます。しかし戦後の食料難もあり病院では多くの患者が栄養失調でなくなっています。久女も翌年1月21日に栄養失調と腎臓病悪化のため亡くなります。満55歳の若すぎた女流俳人の最後でした。
(「花衣・・」の本自体もそうですが、このブログでは亡くなった久女を狂女として取り扱う風潮に、生涯立ち向かった石昌子さんの意を汲んで書いています。石昌子さんによれば、「花衣・・」はかなりの誤った久女伝説を修正した作品だといいますが、それでもまだ不可思議な表現があるとのことです)
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by ttru_yama | 2008-07-27 10:34 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-10

久女はさらに俳句に専心します。俳句没頭に対する宇内の目は相変わらずだったけれど、子供にも手がかからなくなってきた久女は、それを無視して励んだことでしょう。俳句に没頭した久女は現代女流俳句の研究なども行います。昭和6年4月、41歳の時東京日日新聞と大阪毎日新聞の募集した「新名勝俳句」にて優秀なる帝国風景院賞の20句の一つ(応募10万余句)に、久女が詠んだ英彦山(ひこさん)の句
「谺(こだま)して山ほとゝぎすほしいまま」が入選します。英彦山(1200m・福岡大分県境)は小倉から日帰りも出来る山伏の修験道場で、時には一泊しながら久女は急峻な山道を何度も登りこの句を得ました。なお賞金の百円は贅沢の出来ない杉田家の暮らしの中で、長女昌子さんの羽織となりました。進学をさせるか晴着を買うかと日頃言われていた娘には最大のプレゼントとなった事でしょう。当時旧姓中学の年間授業料が5~60円の時代でした。この時代久女は嫁いで来た時の着物を、何度も染め替え直して着ていました。つぎはぎの着物の時には、人前で羽織をぬぐこともできなかったこともあったと言います。それでも俳句の短冊には最高の物を使っていました。久女は昭和7年3月(42歳)自らの手になる「花衣」を創刊しますが、この時も上質の和紙を使っています。(制作費は会員より先貰いでした) 思えばこの頃が久女の一番幸せな時代だったかもしれません。

さて昭和11年そんな久女(46歳)の身に思いがけない事件が発生します。ホトトギス10月号にて日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女の同人除名の社告が掲載されます。日野草城、吉岡禅寺洞ともホトトギス出身ながら無季句を提唱し虚子と対立した俳人です。それ以前にも水原秋桜子なども、客観的写生を唱える虚子と決別しています。俳句の世界も時代を重ね、旧来思考のホトトギスの俳句だけでは満足できない俳人たちが出て来た時代だったのでしょう。ただなぜ虚子を俳句の師と崇拝する久女の名が挙がったのかは今も謎とされています。戦後虚子は久女が句集を発行しようとした時、虚子宛に句集の序文を懇願する久女の手紙を使い、小説仕立てでよからぬ文章を書いていますが、この時もなぜ序文を書いてやらなかった明確な真相にはふれていません。

虚子の書いた小説等にとり上げられたその手紙は、虚子から序文を断られた久女が返事をもらえず、出すたびに時には師を崇め時には不遜な態度で、うつりゆく久女の心情を描き出しています。そんな事もこの除名事件に関わりがあるように思われるのです。ただ久女にとって事は重大で俳句をただ一つの心の拠り所とし、虚子にすがるしかなかった久女には、死の宣告とも同様な絶望的なショックを与えました。やがてそのことは他の有名作家にて、狂気の久女伝説が作られる発端ともなりました。長女石昌子さんが母の汚名返上を願い、久女の句集を出そうと活動を始めたのはこうした事件があったからでした。

虚子に何度も手紙を出したけれど受け入れられなかった久女。「久女記」にはその時の久女の様子が書かれています。
『「私は生きる愉しみや希望は何もないのです」といい、「生きることが苦しい。生きる張合いもないのだけれど、私が自殺などすれば、後に殘ったお前達をどんなに悲し悲しませばならないのかを思うと死ぬ事もできない」』
それでも久女はホトトギスへの投稿を続け、雑詠欄に句が載る事もありました。その後娘二人が結婚し、戦争が始まり昭和19年実母さよも亡くなります。そして終戦の昭和20年10月末、久女は福岡太宰府にある県立筑紫保養院(現在は福岡県立精神医療センター)に入院し、翌年1月21日に腎臓病悪化のため亡くなります。病院の性格からして小説などには狂死と書かれた久女の最後ですが、「久女記」にある真相では次のようにあります。

『戦争の末期、両親だけ小倉にいた。父は学徒勤労奉仕隊につききりになっていた。食糧不足で栄養失調で、神経衰弱気味、寝たり起きたりしていた母を見ることが出来ず、教え子の一人である卒業生に相談して入院させたものであった。(中略)父もあとになって悔んでいた。母はべつにあばれたわけではない。俳句のこと、ホトトギスのこと、虚子先生のことに父がふれるので、それが厭で厭で、死ぬほど苦しいので、父の口をふさぎたく、一方その反應が激しいので父がおかしいと思ったばかりと私は思っている。「どうしてどうして、理窟は理路整然、なかなか言います。とても胡蔴化せるような頭ではありません」と父はいつも言った。(中略、父は・・)「そのまま亡くなるものと知ったら、何も急場の處置はしなくてもよかったのだ」とも言った。母は「杉田は私を狂人扱いしようとする。恐ろしい人だ!!」と私に恐れを漏らしていた。』

ただこれだけを見て宇内だけを批判できないと思うのです。宇内もそうであったように、久女についても宇内の生き方に、うまく迎合できなかった性格面もあったのではないかと思います。句作を日々の糧としてそこそこの趣味としていれば、俳句による悲喜こもごもは起きなかったのかもしれません。でも久女の一途な性格上それは難しかったのでしょう。しかしある面宇内と結婚していたからこそ、久女の俳句が生まれたというのは言い過ぎでしょうか。ここまで書いてきてなぜかそんな気もするのです。
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by ttru_yama | 2008-07-21 17:01 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-9

大正9年8月、久女の父の納骨の為杉田夫妻が松本を訪れたあたりから、夫婦の最初の危機の発端がはじまったようです。その時久女は腎臓病に倒れ松本の温泉にて療養後、東京の実家に身を寄せ入退院をくりかえします。長女昌子(10歳)は小原に預けられ、下の光子(5歳)は東京の実家に引き取られ、宇内は痔病で小倉の病院に少し入院していました。
「虫鳴くや三とこに別れ病む親子」
久女の東京での入院生活は、血尿でベッドに伏した生活で悲惨だったようです。病で気がおかしくなっていたのか、見舞いで訪れた宇内の持ってきた葡萄を、夫の面前で板の間に投げ捨ててしまいます。
「葡萄投げて我儘つのる病婦かな」
大正9年秋、久女が退院し目白の実家に戻った頃から、東京から宇内へ離婚話がもたらされます。しかし宇内は強硬に拒否し、大正10年7月子供のためもあって久女は一年ぶりに小倉に戻ります。小倉では俳句仲間の勧めによりキリスト教の洗礼を受け、精神の安らぎを求めようとします。後に夫も洗礼を受けますが、入信を進めた知人たちが小倉を離れると、大正15年以降は教会から遠ざかったようです。しかし久女という人は思いつめたら突き進む性格もあり、聖書も何度も繰り返して読んでいたようです。またそれほどに心の拠り所を求めていたことなのでしょう。バザーなど教会活動にも専心しています。(「花衣・・」を参照記述)

長女石昌子さんの「杉田久女遺墨」内の「久女記」にある、夫や娘達に向けた久女の性格面をみていこうと思います。(括弧内の記述は理解の参考のため付加しました)
『「わたし(宇内のこと)は家(小原の実家)に帰れば、いつでも食うに困らない」と父はいい、(それに対して母は)「あんな淋しい山の中で、とても一生くらすことなんて出来ない。私はいやだ、廣い世の中を見ないから、少しばかりの山林田畑があるからといって、(中略)頼ろうとするのは、怠けて繪も描かない言い訳だ」と母(久女)は不満だった。
(父の絵について母は・・)「あのままずっと續ければ、そう下手でもなかったのに、惜しいことだ」と私に漏らしていた。
(昭和11年ホトトギス10月號にて、久女が虚子からを同人除名され孤立無縁の時、夫から言葉でなじられた時・・)「私の俳句には杉田に指一本觸れて貰いたくない」とも言った。』

『母を褒めようなどとは思わぬが、理論明快というか、生き方については手練手くだを弄しない人物、現實的というよりは理想家肌、精神的な深みのある人物だと思っている。暖かい嘘の言えない眞心の人だったと思う。(中略・・昌子さんが母を批判すると)
「餘り親をバカにすると、一生泣かなければならなくなりますよ。自分の物差しで私を測ってはいけない」などと言った母の言葉が浮かぶ』

いろいろ久女という人の性格、生き方を知ろうと、やたらページを割いてはきましたが、この「他人の物差しで測るな」という意味の言葉は、これまでの流れからしてすごく分かる気がするのですが、逆に「そんな生勉強で私の事が分かるの?」と見すかされているような気もするのです。
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by ttru_yama | 2008-07-19 00:49 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-8

杉田夫婦の心のすれ違いを、田辺聖子著「花衣・・・」では次のように記述しています。
争ひやすくなれる夫婦や花曇り
或る時は憎む貧あり花曇

宇内ははじめ妻の手すざびを何ごころなく看過していたが、次第に妻が趣味の範囲から逸脱してゆくのを、不安にも不快にも思ったのであろう。久女は夫の顔色よりも子供たちと俳句の板挟みになって苦しんだことと思われる。(・・)宇内は自分の言いたいことを、世間の名に負うせて妻を非難する。<俳句にばかりかまけて、子供も家事も抛ったらかしだと嗤われているのを知っているのか>』
『宇内は廉直な男で奸譎(かんきつ)なところはなかったがその人間人生観に関するかぎり凡俗の域をでなかった。(・・)久女が何に渇(かつ )え、何を欲しているか思いやる気持ちもなかった。ただただ妻が理不尽に思われた。<お前は家庭や子供をかえりみない。女のするべきことも果たしていないじゃないか>宇内の非難の根拠はひたすらそれだけである。久女はそこを衝かれると苦しむ。』

f0005116_9482929.jpg石昌子編「杉田久女遺墨」は久女の短冊や書き物、スケッチ画、遺品写真などを集めた本で、昭和55年4月に300部限定で発行されました。その中の「久女記」に長女昌子さんが父と母の気持ちや性格を記した部分があります。
『父は母について、「あれは天才ですよ、非常に鋭い感覚を持っています」(・・)母からすれば、父は真面目な好人物だが、鋳型にはまった考え方しかできない。せまく単純な人物、一緒に暮しても面白味(人間味)のない人物という風に見えた。父は(・・)大家族の中に育ち祖父(多十郎)や實父(和夫)は恐ろしい人で、よく叱り、母や奉公人が「宇内さま、お父さんに早くあやまりなさい」と取りなしてくれる。他人の方が肌觸りが柔らかかったのか、他人の言葉の方に頼るような傾向があった。(・・)何をやってもある程度は才能があって上手だったと思う。が(・・)表現が下手というか、猟にしろ、面白さを口にして家族をたのしませたり、自分も一緒に楽しもうとするところがない。(・・)人口希薄の山間育ちで、好人物ではあるが家族にとって人情のうすく見える父は、母が物事に熱中するのが理解できず、それを缼點(けってん)として退ける一方、母は、父が何事にあれ、追求しないそういう性格に飽き足らない風だった。』

とはいえ、宇内は学校においては教務に励み、生徒の面倒みのよい良教師であり、久女も陰でそれをささえていたようです。ただ家庭においての宇内は、次第に俳句に打ち込む久女を評価しなくなり、昭和11年11月、高浜虚子よりホトトギス同人を除名された久女が失意のどん底の時にも、こう言っています。『貴女のような人は虚子さんでさえ、愛想をつかしたでしょう』 あてにしていた訳でもないのでしょうが、身内からもつき放された久女は頼るすがもなく奈落の底へ落とされた気分だったことでしょう。
ただ、私としてはこの宇内の言葉は禁句として、いくら夫婦でも口に出してはいけない言葉だったと思いますが、そう言わせるものが日頃の久女との間に積み重なってあったのではないか、と思いました。

宇内にしても、よく久女伝説に取り沙汰される、時に相手への配慮にも欠けた一途で熱烈的な気性面は、そのまま伝説通りではなかったにしろ、日常相対していて気に入らなかったのかもしれません。「久女記」はもちろん久女をかばう娘の立場で書かれていますので、あまり久女の欠点を述べたものではなく、いきおい父親宇内への不満が目立ちますが、次回は久女の性格面等を拾ってみたいと思います。
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by ttru_yama | 2008-07-12 11:50 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-7

さて久女が杉田宇内と結婚したのは、長女石昌子氏の「杉田久女遺墨 続」の年譜によれば明治42年の冬(入籍届は明治43年8月22日)とあります。その小原に駕籠に乗って嫁いだ様子が、久女が書いた「山家の秋」に書かれています。おそらくこの時が初めての小原入りだったことでしょう。f0005116_1364671.jpg

『やがて日がとっぷり暮れて山の間から冬の月が出て山かげの田の面の氷をキラキラてらし出す。暗い谷底からひびく渓流の山坂を上下して、やっと山裾にチラホラと灯をみつけた時の、涙のにじむ様な淋しさ。寒さは迫る、体はゆられ通して綿の様。あとさきの提灯二つをたよりに、死んだ様な山中をたどる時、駕籠わきに塊り歩く人々のふみしめる草履の音のみが、恐ろしい程山径の沈黙をやぶる。やがてそこの村はずれに定紋付の提灯をもった人々が、塊でむかへてくれ、賑やかに山賊の砦の様な楼門の中にかつぎこまれる時には、駕籠の前後の提灯は三十ぐらいにふえてゐた・・・』

この年宇内は研究科を3月に中退し3月31日小倉へ赴任します。久女は明治23年5月30日生まれですから19歳、宇内は明治17年3月15日ですから25歳でした。夫の赴任を前にあわただしく行われた式ではなかったかと思われます。「文集」解説には『小倉へ新婚旅行の積りで一、二年行ってくるのもいいといはれ、その積りで赴任してゆきました』とあります。入籍届けはその年の夏休みの帰省時の8月に出したのではないでしょうか。明治44年8月、長子は婚家で生む習慣があったようで、久女21歳の時長女昌子を小原の家で生み1年程過ごします。夏はほととぎすが啼き、玄関の大衝立にキジが来てとまるという家で、家には中風で寝たきりの祖父(注、多十郎のこと)、口やかましい祖母、我が儘な舅、おとなしい姑がいましたが、久女は褒められ者の嫁だったようです。その後大正2年姑・杉田しげが亡くなり、舅の和夫の世話をしに小原へ逗留します。長男の嫁としての務めだったのでしょう。

ところで小倉での生活はどうだったでしょうか。小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-4」で生活感ある台所雑詠も合わせ久女の俳句を載せましたが、句作を始めてしだいに認められていった大正6~8年頃の夫婦の関係は貧しいながらも良い関係だった様です。
「画がく父ホ句よむ母や野辺遊び」(大正7年5月号)

大正8年8月26日、長谷川かな女の夫でホトトギスの編集者だった長谷川零余子が同人を連れて小倉の杉田家を訪れ、久女はこの時の様子を「葉鶏頭」に書いています。この日久女は東京から小倉に来ていた母を見送り、入れ代りに零余子一行を貧しい家に招いていますが、三人前の御馳走しか用意してなかったのに、5人もの来客となったうえ子供がぐずり、貧しい生活を見られさんざんだったようです。しかしこの時の宇内は、「何、僕のはいいよ。どうせ我々の様な教師暮らしではたいした事が出来ないって事も孤雁子(零余子の事)はご承知だらう、それより早く上げた方がいいよ」と言いビールを持って客相手をしています。

この座で宇内は「私の妻は油絵を少し書きますが実にいい色を出すことがありますよ。然し画いてゐる自分自身にそれがいいのか解らなくなって批評なんかすると却っていゝところを塗りつぶしてしまったりします。どこかに感じのいゝ独創的なところはありますがどの絵もどの絵も未成品で取留めがないのです。房子(久女のこと)の俳句もきっとそんな風な程度のものでせうと思ふ」と皆の前で話します。この頃の夫婦はまだお互いを認めて、分かり合える時代だったようです。しかし久女の俳句はすでに趣味程度の領域を越え、句作そのものが久女の人生の支えとなっている事は、この先も含め宇内の想像をはるかに越えていたように思われます。

いやいや、この先まだまだかかりそうですね。いつ小原の句碑の説明が出来るのでしょうか。
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by ttru_yama | 2008-07-06 20:44 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-6

f0005116_11152990.jpgまだまだ分からないことがいっぱいありますね。書きたい事はやはり小原と久女に関連するところですが、そうすると必然的に夫宇内との出会いや、夫婦の置かれた状況等も見ていく必要があります。もちろん夫宇内と小原本家との事情も気になります。
ここからは田辺聖子著「花衣ぬぐやまつはる・・わが愛の杉田久女」(集英社)を参考引用しながら、話をすすめていきたいと思います。(軽く終わる予定でしたが、だんだん深みにはまっていきそうな気配・・) ところでこの本はいわゆる「(行き過ぎた)久女伝説」の部分を、益田連著「杉田久女ノート」や久女の娘である石昌子氏(2007.1.29没)にも会い、彼女の発行した「杉田久女遺墨」(昭和55年発行)にある「久女記」などの資料にて、伝説の誤りを解説しながら、独自の見解を述べています。

まず久女と宇内の出会いに関して石昌子氏の記述には、
『家が上野桜木町にあった処から、兄などの遊び友達として、父杉田(美術学校生)が家に出入りするようになったと祖母からきいております』、『垣間見た父が、家庭とか親兄弟などの外見から、これならといふところで、叔父を仲人に頼み、是非にと申し込んだのが出会いの真相のやうです』 とあります。一方久女としては『絵描きといふからには貧乏は覚悟の前だったと申して居りました。あんな田舎にと、渋った両親の反対を聞かず、自分の我儘を通し、親に心配ばかりかける自分は、本当に親不孝だとすまながりました』とあります。これからすると宇内が久女を見初め、久女も当初から画学生としての宇内に惹かれた様です。

f0005116_11263365.jpg「杉田久女遺墨(続)」を見ると、宇内が東京美術学校卒業制作時に描いた裸体自画像等と共に岡崎中学校(愛知県立第二中学校/現岡崎高校)時代の作品が載ってます。中学時代の作品はデッサン力が確かで構図ともしっかりしており、絵が得意で早くから美術学校を目指したことをうかがわせます。実は久女も絵を描く事は好きだったようで、主宰した句誌「花衣」の表紙を描いていますし、遺墨の中には後年描いた「ヒマハリ」やスケッチ画が載っています。このまま結婚すれば、美男美女の芸術を愛する夫婦が誕生し、金銭的にはともかく久女の夢であった画家の妻の生活が始まるはずでした。しかし宇内は小倉中学の美術教師となり、ほとんど絵の制作をしない半生を過ごすのです。

田辺聖子氏は宇内の卒業制作画(裸体自画像)に、迫力と才気を感じたといいます。私の見た感想も肉体や肌の表現などにかなり修練を積んだ作品だと感じました。しかし彼の作品が売れるようになるには、さらなる独自性が必要とされたのではないかとも思いました。(この絵は宇内が画家になる事を勧めた教え子の絵とともに、北九州市立美術館にあります) 実家の援助を受け絵画に専念すれば、いつか花開く時があったかもしれませんが、一方宇内と遊蕩的な面を持った父和夫の中はあまりうまくいっていなかったこともあったようです。小倉へ赴任した後も宇内は貧乏教師ながらも、故郷に無心などをした事は無かったといいます。宇内という人はお金に執着せず堅実な生き方をした人のように思います。
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by ttru_yama | 2008-07-03 00:45 | 杉田久女