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080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-5

・・とは書いてみましたが、まだよく表現できませんでしたね、久女という人について・・。良くいえば一途で、ひたむきでがむしゃらで、悪く言えば自我がストレートすぎて周囲のことなど気にしないで突き進む感じ。(違っていたらすみません) それ故に誤解も生まれ易かったのでしょうか。そういった点はいろんな小説等にも、久女伝説のようにまことしやかに書かれているとも聞きます。でもひとつ間違いなく言えるのは、句作が久女の心の支えであったこと。そしてその俳句により師や朋友を得る喜びを知った事、反面それら全てを失うような深い傷を負ったりもします。そんな事を思うと俳句を知った久女は幸せだったろうかなどと考えてしまいます。

いうまでもなく久女の句は久女にしかできません。小原と久女の関係がきっかけとなって、にわか勉強で久女の句を見てきましたが、有名な句でもこれがどうして人に支持されるか、私には分からない句も多いのですが、私的に感ずる久女の句の醍醐味は、情景を自分の気持ちにストレートに言い切る(描ききる)表現にあるのではないかと思います。

後年の有名な「谺(こだま)して山ほとゝぎすほしいまま」という句などは、その代表例のように思います。「ほしいまま」など絶対久女の性格があってこそで、久女にしか出来ない表現ではないでしょうか。

ここまでは米田利昭著「大正期の杉田久女」(沖積舎)を参考にしました。
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by ttru_yama | 2008-06-28 00:57 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-4

書きながら分かってはいたのですが、あまり久女の句やその周辺事情がわからない状態でこのまま句碑を見て頂いても、何だか消化不良(説明不足)な記事になりそうです。かといってもそれほど資料がある(見ている)わけでもないので、時には想像も加えての記述になることを最初に断っておきます。まず私が久女を知った経緯から書いてみたいと思います。2002年の8ー9月期にNHKTV「人間講座・女性俳人の系譜」という番組があり、それを見たのが久女との出会いでした。その時知った句が

「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」、「冬服や辞令を祀る良教師」、「足袋つぐやノラともならず教師妻」
の句で、今思うと久女の性格をのぞかせる句ばかりなのですが、その中で当時一番気になったのが「ノラ」の句でした。ノラというのはノルウェーの劇作家イプセン(1828-1906)の「人形の家」(1879/明治12)という戯曲中の女主人公で、ある事件をきっかけに夫に従順な人形のような生活から、一人の自立した女として生きて行く為に家を出てゆくのです。「人形の家」は明治44年に松井須磨子によって舞台上演されたり、翻訳本が読まれてノラは自立する「新しい女」の代名詞となって行きます。

というわけで、「足袋つぐやノラともならず教師妻」(大正11年2月号)は、俳壇で脚光を得てはいるものの、家を飛び出さず一見従順を装って足袋の綻びを繕っている我が身を詠んでいます。いつからかは不明ですが、実は夫である美術教師・宇内との関係はあまり良いとは言えず、「冬服や辞令を祀る良教師」の「良教師」にも皮肉っぽく反面表現がされています。家庭内ではよく口論があったと言われ、その原因の一つとしてよく取り沙汰されるのが、久女の偏執といってもいいような思いでした。久女は美術学校を優秀な成績で通した夫が、画家にならず地方の美術教師となって、絵を描かなくなったことにずっと失望していました。ことあるごとに夫に絵を描くことを要求していたようです。

逆に宇内の方は画家の生活を現実的ではないと捉えていたか、もしくは自分の進む方向は美術指導に向いていると感じていたのかも知れません。学校教師としての宇内の評判は悪くなく、生徒指導や援助においても親身で身銭を投じたこともあったようです。逆にそういう面を久女は嫌います。想像ですが久女の俳句への没頭は、自分の理想とは食い違う結婚生活からの逃避だったのかもしれません。しかし久女の句が有名になることにより、それがますます悪影響を及ぼしたこともあったのではないでしょうか。

句作に没頭したとはいえ、久女が不出来な主婦だともいえません。家事もこなし料理は得意だったようで家庭菜園で茄子やトマトを作り、子供の発熱には普通の母として一喜一憂します。子を残し句会などで遠出をする時は家を気にかけます。(もしかして作品の年月が違っているかもしれませんが、ホトトギス誌などから句を書き出してみましょう。)

「へつついの灰かきだして年くるゝ」、「妻若く前掛に冬菜抱きけり」」(大正6年1月号)、「手づくりの初なりの茄子や夕の膳」、
「皿の絵に赤くしみつく苺かな」(同7月号)、「蠣飯に灯して夫を待ちにけり」(同12月号)、「早寝して熱ある子かな秋の暮」(同9月)、
「昼飯たべに帰り来る夫日永かな」、「画がく父ホ句よむ母や野辺遊び」(大正7年5月号)、「銀河我に安らけし子の命救ひえたり」(同9月号)
「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」(大正8年6月号)、「熱の子に夜明けひた待つ蚊帳哉」(同9月)
「髪掻くや春眠さめし眉重く」、「茄子もぐや日を照りかへす櫛のみね」(大正9年8月号)、「さうめんや孫にあたりて舅不興」(同9月号)

「紫陽花に秋冷いたる信濃かな」、「墓の前の土に折りさす野菊かな」、「我をすてゝ遊ぶ看護婦秋日かな」(大正9年11月号)、父の納骨の際に信州で腎臓病を患い静養。
「松とれし街の雨来て初句会 」(大正10年1月)、同年7月東京での療養を終え小倉に帰る。
「足袋つぐやノラともならず教師妻」(大正11年2月号)、「われにつきいしサタン離れぬ曼珠沙華」(?)、大正11年2月久女、一時クリスチャンとなる。「雪道や降誕祭の窓明り」(同年5月号)


宇内にしても妻の句作や時々ある遠出、久女主宰の句誌「花衣」の創刊等にはある程度は目をつむり、あからさまなに反対をしてはいなかったように思われます。(久女がおしきったのかも知れませんが) ホトトギスの同人が小倉までくれば家に迎えています。しかし夫にしてみれば時には何かにつけ、久女のみさかいの無いいきすぎた言動(たぶん本人にすれば一心な、ときにはわき目もふらないひたむきさによるものか)に腹を立てることもあったことかと想像します。久女においては俳句同人等との恋愛感情の話が出てきますが、よくわからないのでここでは割愛します。というわけで不勉強ながら、少し久女をとりまく状況を記述してみました。
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by ttru_yama | 2008-06-22 23:07 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-3

f0005116_743137.jpg通りから坂道を少し上がると立派な長屋門が見えてきます。いかにも苗字帯刀を許された庄屋らしく堂々とした門構えです。ただし久女がこの門を潜ったのは、結婚した時と長女出産の時、義母、義父の葬式の4回だけだったと言います。(石昌子著「私の五十年」より) しかし村の篤志家だった夫宇内の祖父、多十郎翁は大正9年8月14日に没しますが、その時は盛大な葬式がとり行われたと思いますので、おそらく久女も夫宇内とともに参列したのではないかと想像します。
その同じ8月、久女は大正7年12月に亡くなった父・廉蔵の納骨のため信州松本を訪れます。(その際に、「紫陽花に秋冷いたる信濃かな」という句を残します。) しかし久女はその松本で腎臓病を患い浅間温泉で静養し、その後東京の実家にて療養をすることとなります。その際10歳の長女(後の俳人石昌子氏)を、この屋敷に預けています。

f0005116_2221335.jpgこの屋敷の様子については、中国から復員後しばらくこの家に住んでいた昌子氏の夫・石一郎氏が、著書「大いなる幻影」(南雲堂)の中に詳しく記述しています。(久女に関しての記述は残念ながら本の目的がちがうためか、あえて触れていないようです。) そこから少し屋敷の様子を拾って見ましょう。(・・)は中略部です。

『だらだら登りの門坂道が長屋門に通じ(・・)鉄鋲入りの桧の大扉が重々しくひらいた、左右に武者窓のある下男部屋があるが、今は下男はひとりもいないし、(・・)長屋門は集落の総本家を誇示するいかめしい造りだった。』

f0005116_2302045.jpg写真は屋敷内の一角に建てられた大菩薩像と句碑ですが、この敷地に今は無き母屋があったと思われます。
『萱(かや)葺きの大屋根のある母屋すれすれに背戸山が迫っているが敷地は広く、東西二つの蔵(年貢蔵と調度蔵)が並び、化粧塗りの白壁が美しかった。その他別棟の客座敷(入母屋造りの玄関がある)、茶室、茶室を取り巻く白塗りの土塀、梅の古木、石垣の下の湧き水のすがすがしい小池、(・・)先代の(・・)はまだ在世だったものの、長年中風を病み、奥の居間にねたきりだった。(・・)母屋の大広間には、土間の近くに一間炉があって、(・・)「夏でもひえましてのう」と説明する義父(編注:宇内のこと)は、炉端の席をすすめ、(・・)「昔は奉公人が十数人からおりましたがー」(・・)戦争以来若い男はどんどん兵隊にとられる一方、婦女子は徴用されて県下の軍需工場へ送られた。』

と没落していく家の様子がうかがえます。戦後の母屋は雨漏りがするほどすっかり痛み、義父宇内が一人住むだけで、石夫婦は長屋門側にある蚕室(現存)の2階に住んでいたといいます。
なお、久女は終戦の昭和20年秋に太宰府の保養院に一人で入院しており、翌年1月21日に栄養失調と腎臓病悪化のため亡くなっています。父宇内から小原に疎開していた娘昌子氏には、役場経由の電報を親類が受取りましたが、その後の詳細を知るにはさらに時間がかかったといいます。
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by ttru_yama | 2008-06-15 01:00 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-2

f0005116_2195592.jpg前回でお知らせしたように小原和紙工芸の祖・藤井達吉を訪ねる話は、杉田久女の句碑の出現でいったんストップすることとなりました。写真は愛知県豊田市小原地区松名町の杉田家の庭にある「杉田多十郎翁頌徳碑」ですが、大正/昭和戦前期の俳諧にその名を轟かせた杉田久女(すぎたひさじょ、明治23.5.30-昭和21.1.21)の句碑と墓が何故かこの杉田家の敷地内にあるのです。
地元では周知の話なのでしたが、私はその事を全く知らずに小原にやってきて、いきなり久女の句碑に遭遇したのでした。久女は九州小倉の女流俳人だとは知っていましたが、なぜ山村のこの地に久女の句碑があるのかとても不思議だったのでした。

f0005116_051030.jpgその答えは杉田久女の年譜を見て行くと分かるのですが、少しプロフィールを見ていきたいと思います。久女は長野県松本出身の父大蔵省事務官赤堀廉蔵と、兵庫県出石出身の母さよの三女(本名:久/ひさ)として父の赴任先の鹿児島で生まれます。その後岐阜大垣、琉球、台湾、東京と父の転勤で移り住み、東京女子高等師範学校附属・御茶水高等女学校を明治40年に卒業します。
そして明治42年、愛知県小原村出身で上野美術学校西洋画科を卒業した東京美術学校研究科生の杉田宇内と結婚します。結婚後、夫宇内は美術学校を中退し福岡県小倉中学校の美術教師として赴任し、久女もそれに従います。(ということで小原は夫の実家なのでした)

2女をもうけた後子育てのかたわら、俳句趣味の次兄・赤堀月蟾(げっせん)の手ほどきを受け、大正6年1月号より高浜虚子主宰のホトトギス「台所雑詠」欄(女性の俳句を募ったもの)に、号を久女として投稿を始めると作品はどんどん掲載され、久女にとっても句作が生きる糧となっていきます。大正7年4月号では初めて虚子選「雑詠」欄にも掲載され、翌大正8年8月号では久女を有名たらしめた句、「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」が掲載され、女流俳人久女の地位を不動のものにしました。

ことのついでに言いますと、「杉田多十郎翁」というのは、夫杉田宇内の祖父であり小原村の村長もしていた人物で、地区の寺子屋も開いていました。若くして郡会議員になり、明治期生産量が落ちた小原和紙の復興に務めたといいます。
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by ttru_yama | 2008-06-09 00:20 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-1

f0005116_22401937.jpg世の中歩き回っていると、時々面白い出合いに遭遇します。今日は「季節物の珍しいそば」と有名人ゆかりの場所に出合いました。ということでいろいろ書きかけ中の話ばかりですが、「080413 藤井達吉のいた大正-1」の続き取材のため、愛知県豊田市小原の「和紙のふるさと展示館」を訪ねました。この館で昭和20(1945)年から達吉が本格的に移り住み、地元の若者と和紙工芸の工房を立ちあげたという「鳥屋平(とやがひら)」の場所を聞きました。親切な職員さんに手書きの地図を描いてもらったのですが、その隣接地に「久女の句碑」という場所があったのでした。その話はまたにしますが、ちょうど昼時なのでまずは腹ごしらえとしました。

f0005116_23155687.jpg「和紙のふるさと展示館」の入り口に「紙の花」という食堂を兼ねた土産店があります。ここの季節メニューに「夏の七草そば」というのがあったので、物珍しさにつられ注文してみました。するとごらんのようにサラダ菜ではないけれど、青々とした七草がたっぷりトッピングされた「夏の七草そば(850)」がでてきました。


f0005116_23332019.jpg七草をつゆにからめてかみしめると、若葉特有のシャキシャキしてもっちりする歯ごたえとともに、じわ~っと口の中に薬草的な「苦み・えぐみ・渋み」の風味が拡がります。でもそれらの風味は程よい範囲内に納まっているので、厭味が無くサラダ菜感覚で食べられました。どんな七草が入ってるか分かるように、少し整理したのがこの写真です。
ここでいう「夏の七草」というのは、ご主人のオリジナルとのことで現在①ウルイ(ギボシ)、②ワラビ、③ワサビ、④ミツバ、⑤セリ、⑥ミョウガタケ、⑦ハコベが入っています。(丸いのがワサビの葉です) 七草のエキスを頂き食後感もサッパリした感じで、なんとなく気分的にも健康的になりました。近くへ行った時にはいかがでしょうか。ご主人曰く、「秋には秋の七草メニューも出しますから、またぜひどうぞ」とのことでした。
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by ttru_yama | 2008-06-02 00:21 | 杉田久女

080523 レトロ豊橋の風景展-2

f0005116_058864.jpg地図は昭和6(1931)年発行の豊橋市勢要覧への掲載図(風景展リーフレットより)で、市街区域がピンクと黄色で表示されています。上部の水色の湾曲が豊川で、そのUの字下部に吉田城(緑色部)があります。この城跡こは明治19(1886)年より歩兵第十八連隊が設営されました。左上からの斜め線が東海道本線で、豊橋駅は明治21(1888)9月、市の西部に開業しました。東海道本線は市街区域を抜け南東へ向かいますが、その下辺りが渥美郡高師村(現豊橋市)で明治39(1906)年に第十五師団が設置されました。

f0005116_1505412.jpgちなみに第十五師団の司令部の庁舎は戦後の昭和22(1947)年より愛知大学の本館として使われました。
このように豊橋市は師団を受け入れたことで、軍都として発展した側面ももっています。そういえば2006年4月からNHKの朝ドラで放映された、「純情きらり」でも達彦が入営したのが豊橋の連隊で、ロケなんかも大学キャンパスで撮影されましたね。

f0005116_2142159.jpg写真は「レトロ豊橋の風景展」パンフレット表紙にある豊橋駅前風景です。記事からすると女学生が向かっているのは、大正5(1916)年に完成した2代目駅舎で、横断している線路は駅前まで延長していた頃の渥美線(現豊橋鉄道渥美線)なのだそうです。

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ところで昭和2(1927)年11月、愛知県において陸軍特別大演習が行われました。演習後には昭和天皇の行幸があり、豊橋地区には11月21日、岡崎経由で到着しました。天皇は歩兵第十八連隊等の主要部隊を視察後、岩屋観音のある山頂に登攀し日程を終えます。写真(風景展リーフレットより)はその登攀道途中のものですが、今回の展示会場である市街から離れた、二川宿にもほど近い岩屋まで来て登攀したということは、付近に手頃な山がなかったからなのでしょう。東海道本線の二川駅付近から岩屋観音を眺めることが出来ますが、この山に登頂の記念碑があることは初めて知りました。なお当時あった観音像は戦時供出され、昭和25年再建されたものだといいます。たまには地元の歴史の勉強もいいものです。(疲れたけど・・ね)
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by ttru_yama | 2008-06-01 03:43 | お出かけ