カテゴリ:茨木のり子( 9 )

0910-「20世紀少年」の町-297 (南吉生誕103年-152)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-9

f0005116_2340824.jpg地図を西尾駅周辺に絞ってみました。前回のおさらいですが最初出来た西尾駅は、後に警察署に転用された話をしました。(図左部)
そして警察署から東に向かった先でみどり川を渡る橋が五條橋でした。


f0005116_0504760.jpgその五條橋から駅方向を見ると、右端に茶色い建物が見えます。もう一度地図の方を見てみると、警察署の北東に旧山尾病院というのがありますが、そちらはS7(1932)年のり子の父・洪氏が京都から西尾に移ってきた時の医院の場所で、写真の方は現在の山尾病院です。


f0005116_21372337.jpg現在の山尾病院を西尾駅前通りから見ると、H29年10月完成をめざし全面建て替え中でこんな感じになっています。
ちなみにここの交差点名は「花ノ木5丁目」になります。
同じ場所を下記のGoogleマップの地図にて、警察署・五條橋・山尾病院・西尾高女をマークしてみました。(2回クリックで拡大)

f0005116_230149.jpgと、ここで気づいたのですが、花ノ木町にある交差点名は、(おそらく耕地整理の賜物で)みどり川に架かる橋の名前とすべて合わせてあります。
つまり北から「2丁目→二條橋・・5丁目→五條橋」なので、駅前通りから目的の橋や旧市街を目指す時、例えば西尾城を目指す時は花ノ木4丁目から、四條橋を渡って真っすぐ西へ・・みたいな感じです。

f0005116_22451034.jpgところで現在の山尾病院の前には、醫学博士・山尾宰博士の碑が建っています。それによれば山尾宰氏(M34.11.30生)は当病院の初代院長でT13(1924)年5月、京都府立医学専門学校卒業、S5(1930)年8月、京都帝国大学医学部専修科終了、S7(1932)年7月1日開業、病院はS9年4月29日開設とあります。
そしてのり子の父・洪氏とは大学時代の教室で知り合ったようで、洪氏は副院長に就任しています。
図録には洪氏の生年月日はありませんが、もし二人が同年であれば開業したのは30歳の頃になります。
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by ttru_yama | 2016-03-21 23:45 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-296 (南吉生誕103年-151)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-8
f0005116_1052577.jpg
それではまた図録の地図を参照させていただきます。〈2回クリックで拡大〉地図はのり子が西尾へやってくる7年前のS3(1928)年頃の西尾市街図がベースで、左半分の緑色 (原図では黄色)のエリアが旧城下町で、
f0005116_12321548.jpg右のそれこそ京都のように碁盤の目状に整備された西尾駅周辺区域が、T14(1925)年3月創立の「花ノ木耕地整理組合」(組合長は中村謙作町長)によって開発された新興市街地です。

前回出てきた「みどり川」は、青色表示で城下町の東部を流れています。(写真/永楽橋~桜橋付近にある「花ノ木耕地整理組合碑」)

f0005116_12454020.jpg図上で西尾駅の東側に赤色で囲われているのは、のちにのり子も通った西尾高等女学校で、T7(1918)年7月に仮校舎にて開校し、翌8月にこの場所に本校舎が竣工しました。
ところで実は当時の愛知電気鉄道の線路は、みどり川の1本西筋を走っており「警察署」となっている場所が以前の西尾駅でした。思うに以上のことから京都を意識した道路計画や、四條橋などの名称は、この耕地整理計画から出来てきたように想像します。

ということで線路はこの「花ノ木耕地整理」により、S3(1928)年この地図の位置に移動し、新しい西尾駅も高等女学校に隣接して建てられたのでした。
この碑には「西尾の歴史的発展段階に於ける画期的計画により(中略)市街の中核を形成し、近代都市西尾の誕生に寄与す」と刻まれています。

f0005116_11395115.jpgこちらが移動前にあった最初の西尾駅兼本社で、M44(1911)年10月に開業しました。(写真集・明治大正昭和・西尾より)社長は岩瀬弥助といい、今回の「茨木のり子」展の会場となった、岩瀬文庫を創設した地元の事業家で、耕地整理組合の副組合長でもありました。
鉄道の開業当時は西三軌道といい西尾から岡崎新駅までを結んでいましたが、翌年改称して西尾鉄道となり、T4(1915)年8月、その後のり子が移り住む吉田町の吉良吉田駅までが開通しています。

f0005116_12415316.jpgこの旧西尾駅舎はS5(1930)年から、(図にも描かれていますが西尾)警察署として使われましたが、屋上から八ツ面山方面を俯瞰した様子(写真参照)が、同写真集に残っています。
解説によれば写真中央を斜めに縦断する白い道が、かつての線路跡で現在は2車線の道路になっています。そしてわかりにくいですが、その右手に並行して木々が連なっているところが北浜川(みどり川)です。
ちなみにこの建物は現在ありませんが、五條橋の筋で西側が吾妻町の駐車場になっています。
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by ttru_yama | 2016-03-17 22:17 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-295 (南吉生誕103年-150)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-7

f0005116_20542133.jpg八ツ面山からの眺望を少し見てみましょう。写真はちょっと霞がかっていますが、西尾市街をズームしたもので左の横長のビルは大型スーパー・アピタ西尾店で、鉄道の名鉄(めいてつ)西尾駅はその向こう側に隠れています。

その西尾駅の東口には、のり子の通った西尾高等女学校がかつてありました。また当時住んでいた家は駅西口の向こう側でした。駅から八ツ面山へは直線で2kmです。
写真中央や右端のビルは駅前周辺の高層マンションで、今の西尾市は名古屋への通勤圏内となっています。城下町西尾のシンボル西尾城は、写真の背景方向ですが霞んでわかりません。

f0005116_2372362.jpgさて西尾の観光パンフレットには、よく「小京都西尾」という言葉が使われています。確かに今でも市内には古くからの寺院や町並みが残っていますが、まあ観光宣伝的なイメージ目的が強いので、なるほどと思う人もいればそれほどでもという人もいるかもしれません。ただ「全国京都会議」という団体に、愛知県では西尾市だけが参加しています。

ということで八ツ面山から東の方向を見ると、小京都を感じさせる由縁の一つである万燈山(まんとうやま/145.9m/写真)が、直線距離で4.5km先に見えます。山頂付近に三日月を伏せたような弧が見えますが、「かぎ万燈」というお盆の行事で束ねた108の柴に火を点け、戦国時代に戦で亡くなった死者の霊を弔ったものといいます。また万燈山のふもとにある長圓寺の肖影堂には、家康により初代京都所司代を任ぜられた板倉勝重が祠られています。

f0005116_12532288.jpg万燈山の頂上付近には小さな石の祠が建っていますが、そこから南西6.5km離れた西尾市街を見渡すとこんな感じです。地平線上の中央が先ほどの市街域で、右手にうっすら八ツ面山も見えています。山の斜面の黄枯れたところで「かぎ万燈」が焚かれます。のり子もお盆の夜には、明るく燃え盛る「かぎ万燈」を眺めたことでしょうか。

f0005116_13534736.jpgもうひとつ小京都を感じさせるのが、城下町の東部を流れる北浜川(市内中心部の流域はみどり川と呼ぶ)に架かる橋の名前で、他の名前の橋も交えながら北から南へ二條橋から六條橋まであります。
ということでこちらは四條橋にある市内を循環する、「六万石くるりんバス」のバス停になりますが、のり子が西尾時代に住んでいた家も近くにあります。
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by ttru_yama | 2016-03-13 23:45 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-294 (南吉生誕103年-149)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-6

f0005116_238191.jpg愛知県で西尾市といえば「お茶」の生産が有名で、(他県での知名度は芳しくなさそうですが)、特に抹茶の原料としては京都府とトップクラスを争っており、市内北西部にある稲荷山近辺にはごらんのような茶畑が広がっています。

西尾の茶栽培は古くからありましたが、明治期に一段と盛んとなり、のり子が京都から西尾にきた頃には、一番茶を摘む時期には近隣から800人もの茶摘み女が集まったそうです。
f0005116_118223.jpgこちらは市内一円で見られる自販機ですが、コーヒーとともに西尾茶が売られています。土産品等も もちろんお茶なのですが、最近は抹茶ロールケーキなどに力を入れています。

さて西尾はかつて「三河国幡豆郡吉良(きら)荘」といって、足利氏の流れを汲む・吉良(きら)氏が治めていました。のり子が16歳の時父・洪氏が後に開業する幡豆郡吉田町も吉良荘です。その吉田町は戦後合併して吉良町となりました。

かつてこの吉良町の領主だったのが、忠臣蔵で有名な吉良氏の末裔・吉良上野介でした。のり子も後年弟・英一氏と吉良家の菩提寺を訪れています。そして先(2011年)の合併で、吉良町を含む幡豆郡の町村は西尾市に吸収されました。

f0005116_2353151.jpgということで、吉良荘とか吉良家の名称となった、雲母(うんも/きらら/きら/とも読む)の採掘された西尾市の八ツ面(やつおもて)山にやってきました。八ツ面山は西尾市の北部域にあり、南の標高67.4mの男山と北の39mの女山の2つのピークを持っています。

写真は山の東南から撮ったもので、市街地は左手方向にあって眺望が開けているので、昔から小学校の遠足やピクニックによく利用されました。また昔は二峰の谷間に遊園地がありましたので、おそらくのり子も来たことと想像します。

f0005116_124133.jpg男山の中腹にその雲母抗の跡が残っていました。雲母は続日本紀の中に和同6(713)年、税として朝廷に献上された記録があり、婦人病・頭痛の医薬、江戸時代には京都で屏風や襖の装飾材料となりました。
海外にも輸出された産出量でしたが、明治33年崩落事故があり採掘は中止され、昭和6(1931)年小学生が過って転落死したことをきっかけに、この1ヶ所を残しすべて埋められました。まだのり子が京都の幼稚園に行っていた頃です。

f0005116_12471684.jpgこちらは愛知県の伝統工芸品でもある、西尾の郷土玩具「きらら鈴」です。
明治の崩落事故以後 死者の霊を慰める為、人々が木の枝に鈴を下げたものが「きらら鈴」で、雲母を練りこんで焼き固めた素朴な土鈴です。
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by ttru_yama | 2016-03-10 20:45 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-293 (南吉生誕103年-148)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-5

f0005116_22152666.jpg参考図書として「花神ブックス1 茨木のり子」を手に入れました。まだ中途読みですが、読んでいくと多くの友人から見た「茨木のり子」の詩、人物像、夫婦像などが語られています。
中でも圧巻なのが「櫂」の同人でもあった、詩人・大岡信(まこと)氏との対談です。そこには大岡氏によるのり子の詩評、人物評があり、それに答えるのり子自身の言葉が出てきます。

エッセイ「はたちが敗戦」や「第一詩集を出した頃」等の文章でも、のり子の詩の生い立ちや立ち位置を理解するのに役立ちますが、こちらは対談形式なのでそのままの言葉で表現され、対談相手も詩人仲間故、詩作に関する拝啓がより掘り下げられています。

そういう話も出てきますが、さりげなく娘時代を過ごした西尾についての、のり子の感想が述べられています。実はこれからのり子の過ごした当時の西尾について、古い写真などを見ながら紹介していこうかと思っているのですが、(愛知県の人間からみたら)ちょっと残念な感想を持っていたようです。

f0005116_23241838.jpg『私は物心ついたら愛知県で育っていた、(中略)京都でも暮らしましたし、幼稚園のとき愛知県にまいりました。
ただ例えば大岡さんが三島でお育ちになった、という形での根付いた感じはなくて、やはりよそ者的だった。今、甥なんか見ますと三代目で、根付いてますけどね。』とあります。(幼稚園写真/図録より)

ただよそ者的という扱いをのり子が感じたのは、ある意味しょうが無かったかもしれません。父・洪氏は患者の貧富等にとらわれない、町にうち解けた面倒見の良い医師だったそうですが、のり子は西尾の一般の子から見たら、お金に不自由することのないお嬢さんで、はたまた生まれついてのキリッとしたルックスもあいまって、他の子どもたちからしてみたら、何か近寄り難かったのではなかったかと想像します。(この辺りは日記を読む機会があれば、確認したいところです)

また「女の子のマーチ」にある、「男の子をいじめるのは好き」という場面は、いじめにあった弟・英一氏をかばうためにした事実だそうです。何か理不尽なことがあると、男の子にも向かっていったのでしょう。

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そしてこの図録には素晴らしい地図が載っています。この図も使わせていただいて、のり子の育った西尾を巡ってみたいと思います。(拡大は図を2回クリック)
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by ttru_yama | 2016-03-04 23:46 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-292 (南吉生誕103年-147)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-4

f0005116_2243575.jpgGoogleマップにより、愛知県の概略地図と、西尾市の位置を確認しておきましょう。愛知県の県庁所在地は、赤〇で囲った名古屋市の中心部にあります。
愛知県には大きく言って2つの半島があり、左の半島(知多半島)と名古屋市周辺区域を「尾張」といいます。ことのついでに言えば、新美南吉が生まれ育ったのは知多半島の半田市です。

あとの東の区域を「三河」といいますが、右の斜めに突き出た半島(渥美半島)と、その付け根辺りの豊橋市から上部の山間区域までを「東三河」といいます。そして残った部分が「西三河」となりますが、茨木のり子(T15・6・12-H18・2.17)が大阪で生まれ、そして5歳の時京都から移り住んだのが、青〇で囲った西尾市で「西三河」の南部にあります。また新美南吉は、西尾の北隣にある安城の高等女学校の先生でした。

f0005116_22364756.jpg(「詩人 茨木のり子とふるさと西尾」図録より、掲載許可 以下「図録」とします)さてこちらが、のり子3歳の時の父母との写真です。
父・宮崎洪(ひろし)氏の生家は、長野県善光寺の門前にある味噌・醤油の商家で、金沢医学専門学校卒業後、病院勤務、スイス ベルン大学に留学、帰国後 済世会大阪病院耳鼻咽頭科医長となり、のり子が生まれています。

母・(旧姓・大滝)勝(かつ)さんは、山形県東田川郡三川町東沼村の豪農の生まれで、鶴岡高等女学校を出ています。ことのついでに言えば、詩人・のり子の良き理解者で生涯の伴侶となる三浦安信(やすのぶ)氏も医師で、出身は山形県鶴岡市です。
写真は3歳とのことで大阪時代なのですが、写真館で撮ったような写真です。2つ違いの弟・英一氏は次の写真に写っています。
f0005116_2233740.jpg二人は実に仲の良い兄妹で、小学校の のり子の日記を見ると二人とも成績優秀ですが、運動会の競争ではのり子が一等で英一氏は五等だったとあります。小学二年生の作文「私のをとうと」には、「わたしのぼうや」とか「かはいいおかしいこ」と書かれています。

英一氏は後に医者となり、父・洪氏が吉良町に建てた宮崎病院を継ぐのですが、姉思いでのり子の詩「売れないカレンダー」にも「いったい ぜんたい 毎日何をしとるんだや?」と、東京の姉に電話で気遣いしている下りがあります。
また夫に先立たれた晩年の のり子を心配し、東京に住む息子の治氏に時々のり子の様子を見やるようにさせています。ただ自分が先に逝ってしまうのですが・・。
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by ttru_yama | 2016-03-02 23:45 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-291 (南吉生誕103年-146)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-3

茨木のり子のことをもう少し調べようとして先日、図書館へ行ってきました。ところでそこでハタとつまづきます。というか自分が根本から間違っていたことを知らされました。図書の検索をしますと一冊の本も出てこないのです。「そこそこ有名な詩人なのに、そんなばかな!?」

f0005116_22104122.jpg数秒考えてから検索し直したら、今度はいっぱい本が出てきました。何を間違ったかというと、茨木は「いばらき」ではなく「いばらぎ」と濁って読むのでした。そんなことさえ知らずに、茨木のり子の話を書こうとしているわけです。ついでに言えばタイトルがずっと「茨城」になっていました。(笑)

ところで少しのり子のペンネームのいわれを見ていきますと、歌舞伎の舞踊曲に「茨木」(なんと通常の読みは「いばらき」)というのがあり、ペンネームを考えていた時、ちょうどそれがラジオから流れていたからだといいます。

だったら初めから「いばらき」で良いのに、と思うのですが「いばらぎ」となった理由を、私はまだ見つけられていません。歌舞伎でもそう呼ぶこともあったのか、何か強い響きがほしかったのでしょうか。

また、歌舞伎の茨木童子(いばらきどうじ)は大江山の酒呑童子の家来の鬼で、羅城門または京都の戻り橋で源頼光の四天王の一人・渡辺綱に悪さをし、片腕を切り取られますが七日目の晩に綱の叔母に姿を変え、隙を見てその腕を取り返すと空に舞って消え失せます。

のり子はこの話が好きで、「鬼の我執というか、自我にあやかりたいと思って、ヒョイとつけたペンネーム」だったと「櫂」小史に書いています。何かに向かって真っすぐとか、意思をしっかり持つということなのでしょうか?
ところでのり子の生まれは大阪府で、5歳で京都へ移ったことしか知りませんが、同小史には後年京都の戻り橋に行った事や、大阪府の茨木(いばらき)市の茨木童子伝説に関連した記事がみられます。

f0005116_20462825.jpgということでのり子の生涯を知る参考本として、先にあげた後藤正治著「清冽 茨木のり子の肖像」を借りたり、「茨木のり子詩集 言の葉」1などを購入しました。

先の「清冽」というのは「水などが清らかに澄んで冷たい様」ですが、本文(10章-1)に「茨木の主調音が個の精神の清冽さであった」と書かれています。(詩「古歌」にも出てくるそうです)また図録「詩人・茨木のり子とふるさと西尾」の冒頭の、「ごあいさつ」文には「凛とした生きる姿勢」「社会を見つめる鋭い批評眼」「優しさとユーモア」という記述があります。

さて何も知らずに「清冽」を読んでいくと、「根府川の海」や「わたしが一番きれいだったとき」が、戦争詩の部類に入っていることに、最初は違和感を覚えていました。しかし読み進めていくと彼女の詩の底辺には、日本を奈落の底に陥れて、何百万もの人たちの命を奪った戦争や戦争責任に対する憤りが、戦後の時が流れてゆくほど降り積もっていきます。

もちろん彼女は戦争詩(反戦詩)ばかり書いていたわけでないのですが、二十歳の前後に受けた戦争への不信感は、1960年の安保闘争でのデモ参加を記した日記形式のエッセイ「恐るべき六月」や、日本軍に強制連行され北海道で炭鉱労働者となり脱走し、終戦も知らずに13年間逃避行を続けた中国人「劉連仁」のことを書いた長編詩「りゅうれぇんれんの物語」、天皇の戦争責任についての記者会見を題材にした「四海波静」(1975)などに、時にはユーモア、時には皮肉、時にはやさしいまなざしを向けて発表しています。
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by ttru_yama | 2016-02-24 23:45 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-290 (南吉生誕103年-145)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-2

f0005116_0155528.jpg写真は「詩人 茨木のり子とふるさと西尾」展の図録の表紙と、ページ内容の一例です。今回の展示については、茨木のり子(1926-2006/以下のり子とする)の刊行図書の他、アルバム写真も含め、西尾の写真がふんだんに使われ、日記や詩なども西尾に関係する箇所に光があてられ、タイトル通り のり子が育った西尾との関連がよく分かる展示になっていました。

ところで今回は展示資料の撮影が可能で、図録写真の掲載許可もいただきました。
これはもちろんご遺族のご厚情によるものと、これから茨木のり子の「ふるさと西尾」を、全国に向けて発信していこうという関係者の思いから来ていることと思います。そういうことで単発の紹介だけで終わろうと思っていましたが、もうちょっと続けてみたいと思います。

まず、私が茨木のり子の詩がなぜ気になったかという、(というかこれしか知らなかった)とっかかりの作品「わたしが一番きれいだったとき」を載せてみました。この作品を知らなければ、いくら彼女が愛知県で育ったからといっても、ただ「ふ~ん」で終わっていてここに取り上げることもなかったでしょう。

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この詩はのり子が高等女学校から帝国女子医専で終戦を迎えるまでの軍国少女時代と、その後進駐軍による民主化政策とともに、自由化を象徴するようなジャズ音楽が入ってきたあたりの、世の中の価値観が180度ひっくり返された頃の心の変化を詠っています。
たぶん同世代の女子学生は誰もが、その頃を振り返って「若かった頃は戦争で不幸だった」と思っていたことでしょう。

ただ皆んなもそうは思っていても、なかなか のり子の様に詩などの形で発表するとか、己の鬱積を晴らすかのような事はなかったことでしょう。19歳で敗戦を迎えた灰色で暗かった青春時代を、11年後の31歳になった時に振り返って書かれたこの詩は、戦争の悲惨さを言葉をたくみに選び、持ち前の反骨精神で明るく吹き飛ばしているかのようにさえ見えます。

「とんでもないところから青空が見えたり」、「おしゃれのきっかけを落として」とか、「男たちは挙手の礼しか知らなくて」とか、「手足ばかりが栗色」だとか、随所にユーモアなのか皮肉っているのか選び抜いた言葉を注ぎ込んでいます。

しかしそうかといって、大事な事がらは漏らしてはいません。第4連の「わたしの頭はからっぽで、かたくなで」とか、ラスト前の7連目、「わたしはふしあわせ、とんちんかん、さびしかった」の語句からは、一見意味不明で矛盾するようにも見えますが、当時の心の動きがしっかり綴られています。

彼女の反骨精神が如実に表れているのは、やはり第5連の、「そんな馬鹿なことってあるものか、ブラウスの腕をまくり、のし歩いた」あたりに見られるスパイシーな言葉でしょう。そして最終連の「だから決めた」や「ね」の前向きな締め括りが、穏やかで爽やかな読後間をあたえています。
とはいいながら これは単に私の感想で、詩の解釈は人によりけりです。(ひとつぐらいは解説じみた話をと、あえて書いてみました)
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by ttru_yama | 2016-02-20 23:40 | 茨木のり子

0910-「20世紀少年」の町-289(南吉生誕103年-144)

詩人・茨木のり子とふるさと西尾-1

f0005116_0465096.jpg愛知県西尾市の岩瀬文庫にて、「詩人 茨木のり子とふるさと西尾」展が開催中(2015.12.12-2016.2.21)、というのを知り先日行ってきました。彼女の詩は「わたしが一番きれいだったとき」くらいしか知りませんでしたが、この展示のチラシで「えっ、西尾が故郷?」、ということで出かけたのでした。

『茨木のり子(旧姓・宮崎圀子/結婚後・三浦姓)はT15(1926)年6月12日に大阪で生まれ、6歳の時医師である父・洪(ひろし)氏の転勤で愛知県西尾町(現・西尾市)に移り住み、西尾幼稚園、西尾尋常小学校、西尾高等女学校、東京の帝国女子医学・薬学・理学専門学校に進みます。

学徒動員された軍需工場で敗戦を迎え、戦後は結婚後 東京で24歳から詩作活動を始めます。凛とした強さや優しさ ユーモアにあふれた詩は、H18(2006)年2月17日 西東京市で亡くなった今も、多くの読者の心をとらえています。』(以上、年譜記事概略)

f0005116_3231738.jpgということで、今書いている新美南吉とあまり接点はないのですが、無理やり関連付けて見ていきますと、多少身近になる様な気になります。(笑)
茨木のり子は南吉より13年後に生まれ、幼稚園から高女まで過ごした故郷は、父の勤めた山尾病院(写真は現在地の建物)と住まいがあった西尾市内と、その後父が独立して開業した宮崎医院のある(最近西尾市と合併した)吉良町とになり、南吉の勤めていた安城と西尾は隣町同士です。彼女が西尾高女を卒業したのがS18年3月16日で、その6日後の3月22日に南吉は亡くなりました。

f0005116_327662.jpgとすれば安城高女の南吉学級だった第19回生の卒業1年後に、西尾高等女学校(写真は名鉄西尾駅東口にある高女跡碑)を卒業したわけですが、S17年7月の南吉日記に「(元安城高女の校長だった)佐治先生が西尾中学校長になるそうだ。・・(安城高女に)来ている娘3人も西尾(高女?)にかわるだろう。」との記事があります。また茨木のり子は帝国女子医専ですが、南吉の恋人だった中山ちえさんは、東京女子医専の卒業でした。
 
こんなことで多少はそんな時代の話かと、うっすら見えてきたでしょうか?
(つづく)
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by ttru_yama | 2016-02-13 10:40 | 茨木のり子