カテゴリ:杉田久女( 24 )

080920 信州松本と杉田久女句碑-22 (終回)

f0005116_13193947.jpg気持ち的には前回で終わりにしたかったのですが、まだ書き残した事があるのです。
墓参を終えると丸ノ内中学校前の坂道を登り、杉田久女の句碑があるという高台の城山(じょうやま)公園(標高約600m)を目指しました。その途中の民家の庭で紫陽花の花をみつけました。まだ咲いている花、白くしおれた花、そして茶色く枯れてしまった花が1つの株についていました。

紫陽花がどこかで見つかるといいなとは思って、探しながら歩いては来たのですが早めに見つかってうれしかったことです。もちろん今から見に行く久女句碑にある「紫陽花に 秋冷いたる 信濃かな」の紫陽花の花です。久女が父廉蔵の納骨で松本を訪れ、そこで腎臓病を患ったのは、大正9(1920)年の8月のことでした。先年のホトトギス6月号では「花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ」が、三席ながらも賞賛され女性俳人としての地位を確立し、この大正9年吉岡禅寺洞の率いる福岡の俳誌「天の川」5月号では選者ともなって、久女の俳句人生はまさに順風満帆の矢先の出来事でした。

f0005116_14372050.jpgただその頃すでに俳句をめぐって、夫宇内とは溝が深まってきていたのです。あまりに句作にのめり込む久女には、夫との摩擦が心労と重なってしまったのでしょうか。

「阿ぢさいに 秋冷いたる 信濃哉」(句碑)
「山の温泉(ゆ)や 居残って病む 秋の蚊帳(かや)」

久女が紫陽花の句を読んだのは納骨式の前だったのか、それとも発病して松本の温泉で療養している時だったでしょうか。8月とはいえ山国信濃では、朝晩が冷えると聞きます。病んだ後の句とすればいっそう「秋冷」の語がしみてきます。
いずれにしても、この句は久女の俳句人生の最初の、大きな曲がり角だったように思います。その後久女は俳句を止めようと何度も思い、その度に復活を果たすのでした。

句碑は昭和58(1983)年8月1日、藤岡筑邨氏(俳人)他、地元有志の発起人により建てられ、もちろん石昌子さんも建立に加わっています。そして翌年には小原の
「灌沐(かんよく)の 浄法身(じょうほうしん)を 拝しける」
の句碑が建立されるのでした。

長かった久女シリーズの旅の見納めに、この城山公園にある展望台に上りました。そこからは360度のパノラマで、久女の愛した信濃アルプスの山々が一望出来ました。それは帰ってから小原の久女宇内夫婦の墓に参った時の、いいおみやげ話となりました。

f0005116_1713213.jpgこの松本もそうですが、あまり他のサイトに載っていない、久女とその家族、そして小原のことについて、知る限りなるべくこだわって書いてみたつもりです。しかし参考にした資料は始めから用意していた訳ではなく、記述順序が行っては戻りつみたいになってしまい、読みにくかったかと思います。うまく書けなかったところも多いのですが、久女シリーズとりあえずこれにて終了です。

思えば2002年のNHK人間講座のテキストに載っていた、久女と昌子さんの微笑ましい親子の姿が出発点でした。この優雅に構える久女の写真を見た私は、女流俳句は上流階級の奥様方のお遊びから始まったと思っていました。しかし実際の久女像は全く違っており、俳句をお遊び的に考えていた婦人たちを、久女こそが嫌っていたことも知ったのでした。ではこれにて、長らくのおつきあい誠に有難うございました。
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by ttru_yama | 2008-12-21 17:57 | 杉田久女

080920 信州松本と杉田久女句碑-21

f0005116_1073821.jpgもう1枚、富士見書房版の坂本宮尾著「杉田久女」の表紙カバーには、昭和17年とされる久女の写真が見られます。この年8月久女は義父杉田和夫氏の葬儀で小原を訪れ、また同月昌子さんの夫一郎氏が出兵するため上京しています。写真はその時昌子さん一家と撮影したものと思われますが、久女52歳の時のものです。
この後久女は空襲から句稿をかかえ守りぬき、終戦の翌年1月、食糧事情の悪い中筑紫保養院にて不幸な最後をとげるのですが、この口元に笑みをたたえ柔和な目をした久女の写真は、俳句も何も知らないでいた先の写真と見比べると、良くも悪くも俳句に生き、そして俳句に泣いた久女の人生をふりかえらずにはいられません。


f0005116_1110910.jpgさて、長く久女について書き何度も小原の墓詣もしてきましたが、いつも気の晴れぬまま夫婦の墓に向かって手を合わせるばかりでしたが、このたび小原の墓に向かってやっと、少しはましな言葉がかけられそうな日がきました。
この9月松本にある赤堀家の墓所(写真)を訪れたのです。松本は久女が尊敬した父赤堀廉蔵の眠る地であり、大正9年8月父の納骨で訪れた久女が腎臓病を患い、長期闘病生活が始まった地でもあります。

f0005116_1385138.jpg市内北部宮淵にある丸ノ内中学校のグラウンド近く、静かな住宅に囲まれた地に赤堀家の墓所があります。囲まれてとはいいましたが小原とは違って、陽のよくあたる開放的な墓地です。向かって右から久女に俳句の手ほどきをした兄月蟾(げっせん)の墓、父廉蔵と母さよの墓、次の小さな墓が幼いころ異国台湾で亡くなり、久女が愛してやまなかった弟信光の墓、そしてその隣が小原から分骨した久女の墓です。

f0005116_13351244.jpg昭和27年10月幾多の障害を乗り越え、まがりなりに虚子の序文を得て、難産の末に「杉田久女句集」が刊行されました。その後久女の再評価が始まってゆく中で、夫宇内はこの地に久女の墓を建てることを発願したのです。それを聞いた虚子は墓碑銘「久女之墓」の揮毫をしたといいます。そして昭和32年4月、家族に見守られたこの地に久女の墓が建てられました。

久女没後おそらく宇内は久女の書いた文章を読み直したことと私は思います。昌子さんが久女の投稿した記事などを集め、父に見せたのかもしれません。特に父母や弟の思い出をつづった文章は、宇内に分骨の意志を促した様に私には思えるのです。

『十九の年の夏、永い間の憧憬で有った父の故郷へ行った。あの藍色の信濃の山の美しさ。山を包む霊のある雲のたたずまい。私はもう何もかも忘れて山の神秘にとらえられて仕舞った。』
反面、続けて小原のことはこう書いています。
『其後私は栄華も富も、都会も、あらゆる現実界の光輝も幸福もすてて自ら、矢矧川(=矢作川のこと)の上流の淋しい淋しい山中を私の墳墓の地とすべく、思いがけない宿命の手に我れから投じて行った。だがそこには私の希望(のぞ)む深刻な色の山も神秘の森もなく只平凡な山と水。暗い因習と無智な安価な生活とが私を取り巻いて渦巻くのみ。私の胸は失望と悔恨とにうごめいて居る!!』(以上「曲水」誌 大正8年9月/「思い出の山と水」)

ずいぶん小原については手厳しい記述ですが、多分に作句に理解のない夫を通じて見た小原の印象だったようにも思います。しかし3年後の昭和37年5月、この地に墓を建てた宇内は他界するのでした。松本の墓を去る時、「もうこれで積年の確執からお互いに解放されたよね。いつでも小原と松本を行き来できるんだよね。」、と私は久女の墓に向かって祈ったのでした。
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by ttru_yama | 2008-12-14 15:37 | 杉田久女

081123 小原「松茸そば」と杉田久女句碑-20

f0005116_9284991.jpgこの期に及んでもう1冊、坂本宮尾著「杉田久女」を紹介します。(写真は富士見書房版ですが、現在は角川選書から新版が出ています) この本の存在は途中から知っていたのですが、当初は先に読んでいた米田利昭著「大正期の杉田久女」(沖積舎)と、石昌子著「私の五十年」(東京美術)や、石一郎著「大いなる幻影」(南雲堂)の小原に関連する記述、、そして田辺聖子著「花衣ぬぐやまつわる・・・・」(集英社)を参考にしていたのです。

よく調べて書けていると感じた「花衣ぬぐやまつわる・・・・」でしたが、それでも久女や、夫宇内の性格や久女の全体像が不鮮明な部分もあったり、内容も石昌子さんの思いとのずれがあったりして本当の久女像はそれでいいのかと、記述する際には苦労しました。そういった点の総チェックという意味でもこの本は、現在確認できる資料や事実関係をこまめに調べ、山口青邨に師事した女性俳人としての視点からも、句自体の検証評価、そして虚子はもちろん俳句仲間との軋轢なども通じて久女の内面に迫り、過去から今まで書かれてきた久女に関する記述についての曖昧さを再払拭し、特に最大の謎とされる虚子から一方的に発表された、「ホトトギス同人除名」や句集の発行問題に関しても鋭い考察を加えていくのです。

f0005116_12273377.jpg本の表紙カバー(部分)には久女の家族写真が2つ見えます。「杉田久女遺墨・続」のアルバム写真にも載っていますが、1つ目は昌子さんが子供の頃で妹の光子さんが生まれておらず、兄赤堀月蟾に俳句の手ほどきを受けたとされる大正5年以前の写真です。その後の夫婦の事情を知った者にすれば、久女(推定24、5歳)も夫宇内も穏やかで柔和な表情で映っているの事が写真の印象です。(よく見る久女の写真は、この写真から切り出したもののようです)

これまでいろんな本を読んできて思うことは、俳句がその後の久女自身および夫や娘に大きな影響を及ぼした事は間違いない事実ですが、その大根本とすればやはり久女の妥協を許さない一途な性格にあったような気がします。夫婦の関係で言えば、やはり育った環境が違ったことが原因なのでしょう。父の仕事で国内から、琉球、台湾を経て日本に戻り、お茶の水高等女学校を卒業し、大陸的な視野を持った久女と、三河の山奥の閉鎖された素封家の家に生まれた宇内とでは自ずから考え方にずれが出たのは無理からぬことと思います。

どちらかが歩みよればいいのですが、久女は革新的で夫は保守的なそれぞれ自分の位置を崩さずにいたように思います。当時の時代とすれば、家庭にしろ対外的にしろ久女にはもう少し控えめな態度が求められたと思います。でも、女性の社会的立場が向上した現在だとしても、ある意味妥協を許さず批判も恐れず突き進む久女の一途な性格が、周囲に波風を引き起こしているようにも思います。

虚子からの序文がもらえずに止まっていた句集の発行についても、久女の性急で自我の強さが災いしたように感じました。虚子にとって久女は有能な弟子の一人でしたが、こと師といえども俳句に関しては久女も自己主張が強く、虚子にとってはうるさすぎたのかもしれません。かといって久女を衆人の目にさらすように、誌面にて説明もなく同人除名をしたり、亡くなった後も小説や序文の中で狂人扱いしたのは、俳句結社の長である虚子としては大人げない行動だったように思います。性格的にはヒステリックな面もあったかもしれないけれど、久女は決して狂人ではなかったと感じました。

でもそのひたむきさゆえにわき目もふらず走り急ぐ部分は、久女自身の句作や、手作りの同人誌発行、そして過去からの女性俳句研究に突き進む上においては必須な要素であり、久女からそれを取ってしまったらただ平凡な俳人となってしまった事でしょう。台所雑詠から始まった大正期の女流俳句をリードする一方、現代に続く女性俳句研究は久女から始まったといって過言ではありません。以上、読んでみて私の思った感想ですが、思い違いもあるかもしれません。内容についてはみなさんの目でもご確認下さい。
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by ttru_yama | 2008-12-07 17:59 | 杉田久女

081123 小原「松茸そば」と杉田久女句碑-19

f0005116_9281382.jpg「夜の衾(ふすま)」石昌子句集より
「こぞり咲く 小さく寒き 四季桜」
「花寂し 咲き満ち冬の 四季桜」
「四季桜 人煙たて 冬の谷」
「山里の 蕾む梅買ふ 師走人」
「青軸の 梅買ひが来て 年くるる」


写真は長屋門をバックに咲きほこる四季桜です。花の無い晩秋に咲く四季桜の華やかさは格別です。そう思うと久女は秋の四季桜を見たことがあったろうか、と気になって年譜をいろいろひっくり返してみたのですが、おそらく可能性は低い様に思います。

小原に嫁いで来た時は冬で、明治42年3月31日には夫は小倉に赴任し(久女も最初から同行したかは不明)、入籍届けは8月、長女昌子さんの出産のため再度小原に来た時が明治44年8月で、昭和17年の義父の和夫氏の葬儀は8月ということで、大正2年の義母杉田しげさんの亡くなった時がまだ可能性としてはあるものの、数少ない小原滞在時に久女が四季桜を愛でた可能性は少ないかと思います。もし久女が四季桜を見ていたらきっと句に残し、母子の競作を私も見ることが出来たでしょうし、花好きの久女は敬遠していた小原の地を、今は見直しているかもしれません。

「梅買・・」の梅の話は小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-16にも少し載せましたが、正月飾りの梅の花を業者が、この屋敷にも買いに来たことがわかります。

f0005116_14193217.jpg「苔清水」
「父の忌も 心に深かく 五月来る」
「仏彫る 石工の軒端 麦は穂に」
聖観音
「すらすらと 話纏まり 麦の秋」
「孫連れし 子等と打ちつれ 木の実踏む」
「谷風の 木の葉の嵩(かさ)を 踏みし墓」


写真は昭和57年に昌子さんはじめ遺族により建てられた、聖観音こと「杉田家先祖代々証大菩提也」です。(「証大菩提」とは「大いなる悟りを開く」という意味です) 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-14にも載せました「灌沐(かんよく)の浄法身(じょうほうしん)を拝しける」の句の2年前に建ったものですが、ある意味この聖観音が「灌沐・・」の句碑を招いたのかもしれません。

聖観音は句の流れから読み取ると、初夏から製作され秋頃に建てられたように思います。屋敷がいつ解体されたのか私は知りませんが、杉田宇内・久女はもちろんのこと、累代の杉田家先祖を弔う意味でこの屋敷跡地に建てられたことでしょう。

その聖観音はこれまた見事に咲き始めた山茶花と、黄葉と四季桜に囲まれて静かに微笑んでいました。そして聖観音の左傍らに小さく佇む碑は、平成19年1月29日行年95歳で亡くなった石昌子さんを慰霊する碑です。慰霊碑には「杉田宇内・久女 長女」とあります。

こうした屋敷跡の風情を見ると私には、この庭が生前反目を繰り返した両親と娘の昌子さん等が集う、安息のパラダイス空間に思われてならないのでした。(これまで半年かけてこの屋敷の記述を、中断再開しながら続けてきましたが、まさか秋にこんな花盛りの嬉しい情景を書くことになるとは思ってもいませんでした)
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by ttru_yama | 2008-11-28 16:21 | 杉田久女

081123 小原「松茸そば」と杉田久女句碑-18

f0005116_21141314.jpgタイトルがいつまでも「夏の七草そば」でもないだろう、ということで新メニューを食しに、本日は四季桜の咲く小原へと出かけました。ご存じのように小原名物の四季桜は、春と秋に咲きますがもちろん秋の桜が有名です。11月1日から四季桜祭りが始まっていますが、この連休頃が見頃ということで道は大渋滞で、迂回しながらやっとこさ「紙の花」さんへ12:30に到着しますと、店は観光客で満席状態でした。

これでは新メニューは売り切れか(実は前回は売り切れだった)と、思いきや幸い新メニュー「松茸そば」(1000)と「松茸ごはん」(400)にありつくことが出来ました。写真用に見栄えするよう松茸を浮かせてみましたが、かなりの実が入っています。まあこのお値打ちな値段ということで、どこ産の松茸かを詮索するのはこの際無しでおいしく頂きました。(おいしけりゃ何でもいいね/笑)

では石昌子さんの「実梅」の句を続けていきます。(言い忘れていますが、通例の句集のように原文には5・7・5の区切りはありません)

f0005116_21593096.jpg「いのこづち」
「蚕室に 馴れて寝泊り 小鳥来る」
「銀杏の実 一つ乗せ来ぬ 母の墓」


四季桜祭りの喧騒をよそに、杉田家の屋敷跡は森閑としていました。そしてこの庭にも四季桜が咲き、散り際でしたがきれいな紅葉も一人占めで楽しめました。(正確に言えば聖観音が一緒でしたね) 写真の紅葉と四季桜のバックは蚕室です。銀杏の実の句は信州に分骨した墓の可能性もありますが、おそらくこの小原の墓だと思います。(信州の墓の話はもう少し先になるかと思います) 今日は実際裏山の墓地の入り口に、小振りですが銀杏の木があるのを見つけました。


f0005116_2227629.jpg「歌かるた」
「片付けし 蔵より古鏡 歌かるた」
「竹林の 微風の及ぶ 山桜」


「片付けし・・」というのは小原の屋敷を引き払うことを言っているのでしょうか。生前の母久女にとっては未練の無い小原の屋敷でしたが、昌子さんにとってはここで産まれ、そして母の病気の時にはここに預けられ、戦後は父と暮らした思い出の家です。「竹林」は屋敷の右奥にあり裏道や墓地への登り道につながっていて、風の通り道にもなっています。


f0005116_23134086.jpgところで遅ればせながら、杉田久女随筆集(講談社文芸文庫)を買い求めました。これは久女が「ホトトギス」、「雲母」、「曲水」等の俳句誌に投稿した随筆を集めたもので、米田利昭著「大正期の杉田久女」や田辺聖子著「花衣・・」等にも多く引用されています。これを読むと久女がいかに俳句を生活の糧とし、句作に理解の無い夫や日常家事の狭間で句作に没頭し、時には病気とか才能の限界を感じて俳句から離れたり、再度情熱を燃やし、自分の納得のいく一句を得ようと苦悩してきた様子がわかります。

夫とのズレはやはり趣味が違う点にあり、夫婦で俳句を趣味としている人達をうらやんでいます。かといって俳句に没頭しすぎて、家事を怠った時もあった事も白状しています。こういった文章を見て行くと、雑誌に載って人の目にさらされる事を前提にしているのに、包み隠さずに書いてもいます。この点愚直なほど真っ直ぐな性格の人だった事を再認識しました。
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by ttru_yama | 2008-11-24 00:00 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-17

f0005116_21401180.jpg今回は石昌子さんの句集の一つ「実梅」の中から、ふるさと小原と母への想いから詠んだと思われる、久女追悼の姿を追って見たいと思います。昌子さんは母に勧められ句作し、虚子の娘である星野立子の主宰する「玉藻」に投句をしていました。タイトルの「実梅」とは、鑑賞用の「花梅」に対する言葉のように思います。

この句集のあとがきに昌子さんは、『俳句は私の人生の日々にとって、愉しいものでも有難いものでもなかった。どちらかと言えば私の心身にとってひどく辛いものであった。その思いは運命としていつも私に作用した。気がついて見ると、打ちのめされた自分をいくじないと思う心が、いつか人生を大切にしたいという心に変わり、救いを求めるようになっていった。』と書いています。句作をするということは、ある意味俳句に人生を弄ばれた母の背中を追い続けるようなもので、けして愉しいことばかりではなかったのでしょう。

石昌子「実梅」より
「霊鷲山」(りょうじゅせん)
「琴の茶屋 合歓の花咲く 石畳」 (英彦山 七句のうち一句)
f0005116_23291898.jpg英彦山(ひこさん)はもちろん、久女の有名な「谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまゝ」の句作の地です。この句は帝国風景院賞句(金賞)の20句の一つとして、昭和6年4月発行の日本新名勝俳句(写真)に収められています。この本の英彦山の部には全11句(内金賞1、銀賞1)の久女の句が入選しています。
また昌子さんはこの地に前述の金賞句と銀賞句の碑を建立しています。銀賞句は「橡(とち)の實(み)の つぶて颪(おろし)や 豊前坊(ぶぜんぼう)」という句です。(豊前坊=高住神社)



f0005116_2222518.jpg

「初鮭」
「ふるさとの 山峡訪いぬ 稲光」
「山負ふて 山に向く家 稲光」


杉田家の屋敷は訪れてみると村道に近く、道に沿って稲田も拡がっており、今見るとそんなに山深い印象は受けませんが、それでも村道を登って行って屋敷を正面から見おろしますと、この「山負ふて 山に向く家」という句の通りの景色が見えてきます。
事実写真の角度からの杉田家は、句の如く山裾の木々に包まれています。(杉田家は中央の杉木立の左下付近、墓所は杉木立の右手上方付近です)


f0005116_2385970.jpg
「いのこづち」
「杉の香の 時雨にひたり 佇(た)ちし墓」
「唐辛子 お墓の供花に 挿し添へて」


裏山にある杉田家の墓所です。鬱蒼と繁る木々に囲まれ昼なお暗き地にあり、何代にも遡る墓石が林立しています。その中で中央に建つ立派な墓が宇内の親である杉田和夫夫妻の墓で、その右手が宇内と久女の眠る墓です。

この墓所にはつごう三度墓詣をしたでしょうか。しかし久女夫婦の墓前に佇み、「縁あってあなた方夫婦の記事を書くことになりました。」と、心の内で唱えるのですが、後年は互いに反目の日々を過ごした夫婦に対して手向ける言葉が見つからず、いつも幕切れの悪い墓参となってしまうのでした。

「久女さん、宇内さんは心の奥では貴女の事を評価していたんですよ。」とか、「貴女を狂女扱いした小説家とも闘おうとしてもいました。」とかなぐさめの言葉は浮かぶのですが、それにもまして山村のこの地を好きになれずにいながら、この地に埋葬されてしまった久女の無念を思うと、なかなか気のきいた言葉も見つからないのでした。思うにこんな気持ちになってしまうのは、この暗い墓所の閉塞感が影響していることも一因ではないかと思うのです。
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by ttru_yama | 2008-11-19 23:25 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-17

f0005116_9284112.jpg8月以来、ずっと久女記事が滞っていますので、ここしばらく集中していきたいと思います。石昌子さんの、母久女への想いを、父宇内に次いで「私の五十年」より拾ってみたいと思います。晩年の久女の様子と昌子さんの内面が見えて来る事でしょう。(写真は杉田家跡に昌子さんが建立した観音像)

『「お前も俳句を作るがいいよ」と言われ、その頃私は「玉藻」に投句した。平素から私は母から「昌子は常識家」と評されていてそれが気に喰わなかったし、(・・)私の実際解らぬ言葉の中には、「吾家には矛盾がある」とか、「血も涙もない者に何が芸術が分かるか」、「お前の家は旧い家だから覇気も気力も無い」、「依存性が強い」「遊情で太平楽」「島国根性で滅びる一歩手前」(・・)などなど私さえ激しさに圧倒されるものがあるが、(・・)母の神髄を知る者としては洵(まこと)に清純、純粋すぎる人柄なのである。』

『ダイヤを捨て馬車を捨て芸術家の夫に嫁したが、一枚の絵も描かずとうとう田舎教師に墜ちてしまった」(・・)それは父を非難すると言うより、自身の不運、気持ちの悲しみについての自嘲を含む無念の思いがこもり、母の泣き腫らした瞳を知る私は愛憐の心で受取らないでは居られぬ。』

『「女としては失敗、俳句は未完成、昌子と光子を育てた事を以て母として死んでゆく」(・・)「もし自分が死んだ後でももし機会があったら、お前は忘れずに、句集を出してほしい」この"忘れずに"という言葉を何度か重ねた。それが私との今生のお別れの母の心だったから、とても、その母が狂気の人になったとは思い至らぬ。』

『そればかりでなく、母は頭脳明晰、人間的に正直、(・・)絵も字も台所仕事片手間に書いていた文章でも、(・・)飛ぶように速く、学校の作文に悩む私には驚きだった。(・・)母の知識欲は旺盛で、碧巌録-仏教書、(・・)「出家とその弟子」も愛読書だったし、新旧約聖書(旧約聖書は「芸術なのだ」と言った)を耽読していたのを覚えている。(・・)ともかく生きるため、自分の心を見つめる目を母は与えてくれた。』

・・ということで、肉親の目から見た久女像は久女の俳句を別の視点から見直すとともに、俳句に関わった一母娘としての絆を感ずるものでした。

すでに一部書いてはいますが、久女は娘の病気の看病において、愛情深き句を多く残しています。同じく「私の五十年」の「久女遺句集と私」からみてみましょう。

「七夕竹を 病む子の室に 横たへぬ」、「梶の葉に 墨濃くすりて 願ふこと」、「面痩せし 子に新しき 単衣かな」、「銀河濃し 救い得たりし 子の命」、「床に起きて 繪かく子となり 蝉涼し」

『私の看病に尽くした母の姿を思うと、私には命の恩のある慈母でしかない。(・・)母の不慮の死で、気も狂わんばかりだった私・・・・当時山村の生家(注、昌子さんが生まれた小原の生家のこと)に住み、狐狸の横行する夜の闇さえ恐ろしくはなくなり、幾夜も山里の山をさ迷った。とはいえ、私は母の死から、母のもがきもこれで終わったという、何かほっとするものを受け取っていた。』

こうして母の死後、昌子さんは母の慰霊と成仏を祈る積もりで、久女遺句集(昭和27年10月刊行)に向けて取組んでゆきます。しかしそれは昌子さんが母久女の伝説と共に、世間と向き合ってゆく「私の五十年」のほんの序盤に過ぎなかったのでした。
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by ttru_yama | 2008-11-16 11:37 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-17

ふとしたことで小原・松名の屋敷跡に「杉田久女の句碑」を見つけた謎を追って、久女のこと、夫宇内のこと、そしてかつてのこの小原の交通、旧屋敷の面影等を、紆余曲折を繰り返しながら書いてきました。句碑がこの地に存在したわけは、単純にいえば夫宇内の出生地であり、久女が亡くなった後にこの地に葬られた事によるものですが、書き始めた当初から私は、この地が久女の人生にとって何らかの意味を持って関連づけられないかと期待して、ここまでやってきたのでした。要するに最初からラストの話の落とし処を見つけるためにここまで長引いてしまった部分もあるのでした。

久女の墓がここにあることと、句碑が建っている存在を、久女という俳人にとってどういう意味があったのかということが、自分なりに見つけられたらそれを機に(それを「はなむけ」という飾る言葉にして)終わるつもりでいたのです。でもこれまでご覧になられたように、事はなかなか簡単にはいきませんでした。これまで久女とこの土地、親戚家族、この地で生まれた夫、この地に預けられたり疎開していた娘に関連するエピソードを追ってきましたが、私がとりわけ見いだそうとした、久女のこの土地への愛着心みたいなエピソードはほとんど見つけられなかったのでした。

残念ながら久女がこの山奥の村を気に入っていた様子は見られず、結婚当初はともかく夫との関係もうまくいってはいませんから、夫の故郷で一緒の墓に入ることとなった運命も、うらめしく思っているのかもしれません。屋敷の裏山には宇内久女夫婦の墓があり、かれこれ3回は墓に詣でたのですが、いくたび毎二人の関係を知れば知るほど、久女はもちろん夫の宇内にもかける言葉が思いつかず、何度も無言で手を合わせ帰ってきたことです。
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by ttru_yama | 2008-09-09 23:31 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-16

f0005116_11431852.jpgここへきて愛知県でも集中豪雨がありましたが、暑かった8月も今日の31日で終わります。ところで生前の久女が小原を最後に訪れたのは、昭和17年の8月の義父杉田和夫氏葬儀の時でした。
石昌子著「私の五十年」の写真図録には、小原に来て作った原稿用紙8枚程の句稿の写真が載っています。久女自身のためのメモ書きであることと、くずし文字なので私には判読しにくく、間違いもあるかも知れませんが分かる範囲で書き出してみましょう。(写真は長屋門に登る門阪です)

「 松名滞在の句」 十七年 自八月三十一日 至九月十二日
「門阪の植え(〇)つけあるおみなへし」、「あさがほを釣〇〇にころぶしぬ」、「邸いろいろ筧の〇のある〇〇〇」、「門阪につけある花もおみなへし」、「葱(?)をいけ茄子をとりて〇・・り」、「笊(?)につむ大きな茄子のつ〇てけれ」、「かこにつむ〇〇〇盛りの秋茄子」、「ここに来てあつさも忘れ京(?)楓」


f0005116_1323995.jpgおそらく葬儀の傍らに走り書きしたものなのでしょう。原稿の1ページ目しか見えませんので、葬儀自体の様子が書かれているのかは分かりませんが、日常の句作では身近な花や野菜に題材を採る久女の様子が伺えます。
和夫氏は一族では道楽人のようでしたが書を嗜み、久女も俳句のため書の修練をしていたので、そういう面を尊敬していたようです。

「私の五十年」から小原に帰った宇内の様子も拾ってみましょう。
『年貢米で暮せた世の中は消え、敗戦で農地は開放、地主は農家となって転落、無収入となったが、一生働いた恩給が父には生活の支えとなった。(・・)贅沢をするわけでもなく、我身を飾るでもなく、無欲で質素、風采も田舎親父に見え、毎日古洋服で地下足袋、巻脚絆、鉈を腰に必ず下げ、時には鉄砲持ちで山の見回りをした。(・・)年末になると(・・)正月の花買いがやって来る。正月用の立花に我家の門前の豊後梅に目をつけた。(・・)が、父は断った。金にするより眺め度いと言い、お金にしなかった。』

『退職して後に小倉を訪れたときは全校生徒に迎えられたという。(・・)土産話の中で白萩の見えなかった話は苦情の一つだった。「あの玄関脇の窓の下に、わしが手入れしていた白萩を枯らしてしまった。(・・)どうした、と聞いたら枯れました、といった」(・・)小倉の記念に持ち帰った白萩は、山の日に所を得て、毎年美しい風情をこぼしていた。父の本然の姿がそこにあると思った。この白萩も今は見るよすがはなく、旧屋敷は解体の運命に際会してしまった。』
山里生まれで、一見花など見向きもしないと思っていた宇内には、こんな一面もあったのでした。
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by ttru_yama | 2008-08-31 14:02 | 杉田久女

080530 小原「夏の七草そば」と杉田久女句碑-15

f0005116_12175549.jpgさて杉田久女句碑に巡り合い、小原の地にも4回足を運ぶ事となりました。終盤となってきてもまだまだ分からないことも多々あるのですが、これからは石昌子著「私の五十年」~久女の実像を求めて~(平成10年10月1日発行)も参考にしながら、これまでの記事に関連する部分を振り返ってみたいと思います。小原は今でこそ419号線が整備され、うまくいけば豊田市内から3、40分で着く事もできますが、久女の時代は大変な山奥の村だったと思います。沖縄、台湾と外地で育ち、お茶の水附属高等女学校を卒業した久女は、この山奥の村での暮らしを好まなかったと言いますが、宇内が小倉中学の任地へ向かったのもそうした思いもあったのではと、昌子さんの記事「如法暗夜」を読んでから思うようになりました。当時の小原の交通は今とは隔世の感があります。

最初に「私の五十年」の本ですが、この本は娘である昌子さんが、母久女から依願された悲願の句集を出そうと虚子に手紙を出し、昭和27年10月、なんとか刊行できたものの、序文はもとより依頼した手紙も虚子に利用され、母久女は精神分裂病に仕立てられ、後にそれが反久女派の久女叩きにも増幅されていった、いわゆる偽りの久女伝説と戦い続けた昌子さんの軌跡の集大成ともなる本です。作者はゆがめられた久女伝説が、残る家族に及ぼした災いに傷つき、自身の無力さと絶望に耐えながら、少しずつ支持者の協力を得て書かれてきた虚偽の真相解明を追求してゆきます。

このブログもその姿勢に共感する立場で書いているつもりですが、残念なことにこの本には載っていないことがあります。(ある意味しょうがないのでしょうが) それは虚子をはじめ、反久女の急先鋒・横山白虹、そして久女に師事した橋本多佳子、姉事する中村丁女等が、久女のどうした点が嫌われ、そうした偽りの事実が書かれたかということです。そしてそれはこの記事を書いている私自身が、この時点ではいまだに久女の正確な実像を掴むことができないでいる点でもあります。これらの人に何故久女は嫌われ反感をもたれたか、(反感をもたれれば人は、あることない事に尾ひれをつけて悪く書きます)そこがずっと私には分からないでいたのです。ある意味こういう久女にとって負の部分が説明できずにいて、すっきりブログが終われないでいる面もあるのです。

田辺聖子著「花衣・・」には『久女資料を読むと、「久女の異常」に関してはどれもごく抽象的な記述しかない』とあります。
それでは何も進展説明にならないので、反久女派の横山白虹の文章みると「ヒステリーとか、一つのことに夢中になると、周囲への見境がなくなって」(「花衣・・」)という言葉が見られます。久女が「花衣」廃刊の時、神崎縷々宛てに書いた久女の手紙には、『廃刊は私の一生にとって誠に有り難い教訓となりまして今は却って魂の目がさめ傲慢不遜欠点だらけの私を更生いたす様日夜そればかり願って居ります。・・御相談の内容は御援助を強要したいとか再び小倉の俳壇へでしゃばりたいとかいふ心持ちでは全然なく・・』(「私の五十年」)とあり、久女は自身の傲慢さを認めているようです。また昌子さんが虚子に序文を頼って、へりくだって書いたとも思える手紙には、「母は病気でありました。」「我が儘で手がつけられない」と書いた(「花衣・・」ようですが、それを虚子は逆手にとったかのように「此の手紙にあるように或年以来久女さんの態度には誠に手がつけられぬものがあった」と利用されています。
(反久女側記述 / 久女側記述)

そんな断片的なことから素人の私が感じたのは、久女という人は自分の俳句に対して並々ならぬ自負と自信を身につけていましたが、物事に一途な性格が災いして、時にはそれが他の人には傲慢とも受け取られていたのではないかという思いです。もっといえば、久女という人は自分の信念を変えてまで、相手に迎合できぬ人だったようにも思うのです。
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by ttru_yama | 2008-08-17 22:27 | 杉田久女