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2016-10-05T12:00:03+09:00
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0910-「20世紀少年」の町-357 (南吉生誕103年-174)
http://ttru.exblog.jp/26247135/
2016-10-05T23:50:00+09:00
2016-10-05T12:00:03+09:00
2016-10-05T09:51:41+09:00
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新美南吉
さて、話は逆のぼって9//22、ミツカンミュージアムの見学後ですが、前日の雨で矢勝川の堤の道は、ぬかるんでいました。
気になる彼岸花ですが今年は開花が遅れ気味とのことで、写真も「いいとこ取り」しないと、ちょっと寂しい感がありました。今年はそのいいとこ取りの場所に、「撮影スポット(ごんと見る権現山)」としてベンチが置かれ、その傍には「ごんの置物」が置かれていました。(左下の説明写真参照)
いつもは賑わう露店会場ですが、ごらんの様なぬかるみ状態で、お客さんの姿も遠目に眺めている様子でした。
私も近づけなかったので、別の所で撮った「ごんのお土産写真」を上に貼っておきました。
その足で記念館へ行きますと、いつもはよく露店の休憩所でやっている街頭紙芝居が、記念館広場で行われていました。紙芝居を自転車に積んだ、昔ながらの懐かしいスタイルです。
「南吉童話お話の会」さんの、この日の紙芝居はもちろん「ごんぎつね」。
結末は分かっているのに、ラストは何度見ても何度聞いても悲しく、せつなくなる名場面です。そういえば前回、10/4が「ごんぎつねの生まれた日」という話をしましたが、彼岸花や栗・松茸も出て来ますし、今更ながら「ごんの秋まつり」にこの作品は欠かせません。]]>
0910-「20世紀少年」の町-356 (南吉生誕103年-173)
http://ttru.exblog.jp/26237757/
2016-10-04T23:50:00+09:00
2016-10-04T23:49:06+09:00
2016-10-04T22:12:32+09:00
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新美南吉
今日はいろいろ盛りだくさんで、話がごちゃごちゃしそうです。
まず前回のミツカンミュージアムで見た、旧半田病院が気になっていたので、名鉄半田駅前のクラシティビルから見た、現在の旧半田病院方面を写真に撮ってきました。
右上に切り出したのが前回の写真で、当時は駅付近でも田んぼが広がっていました。それで写真の説明ですが、左手の白い建物が名鉄半田駅で駅からの遊歩道が、この写真を撮った駅前再開発ビル「クラシティ半田」まで延びています。
そして旧半田病院の場所は、中央付近にある茶色に緑屋根の所で、現在は雁宿ホール(半田市福祉文化会館)となっており、2013年の南吉生誕百年では数々の南吉イベントや舞台が行われたところです。
話は変わって「ごんの秋まつり」(9/1~10/2)です。(今日見た大判のポスターには、開催期間が~10/5になっていました。この間、南吉記念館駐車場は使えず、駅からの臨時バスのターミナルとなります。)
この写真のように、矢勝川堤防の三百万本の彼岸花が咲き乱れる中、9/24には花嫁行列がありました。
この花嫁行列は私も楽しみにしていたのですが、あいにく雑用で見に行けませんでした。
ところが今日10/4、東海地区のローカル番組で、「本日は、新美南吉の<ごんぎつね>が生まれた日です。」ということで、この写真にある「花嫁行列」がテレビで紹介されたのでした。
それはそれで嬉しい放送でしたが、まず「ごんぎつねの生まれた日」という説明に、えっ、そんな記念日があったの?」と、びっくりしました。(まあ、それは悪い話ではないのでいいのですが)
さっそく全集(巻10)の南吉日記を見てみると、S6(1931)の通称「スパルタノート」に、「権狐 赤い鳥に投ず」という項があり、南吉が雑誌「赤い鳥」に投稿した時点での「ごんぎつね」の原版が載っていて、末尾に日付が一九三一・一〇・四。と書かれていました。
もちろんその記載自体は知っていましたが、それを「ごんぎつねの生まれた日」と聞かされたのは、今日が初めてでした。
そしてこちらが人力車に乗った花嫁の脇に、連れ添って歩く新郎が映ったシーンで、慌てて携帯のカメラで撮ったものです。(NHK名古屋「ほっとイブニング」より)
他にもこの結婚式を、毎年プロデュースしている仕掛け人さんや、彼岸花を育てているボランティアさんも登場し、全部で4~5分の放送時間でしたが、初めて実際の花嫁行列の様子を見ることが出来ました。]]>
0910-「20世紀少年」の町-355 (南吉生誕103年-172)
http://ttru.exblog.jp/26216346/
2016-10-03T23:50:00+09:00
2016-10-03T23:45:36+09:00
2016-10-03T15:11:45+09:00
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新美南吉
矢勝川の彼岸花も咲き出して、今年も「ごんの秋まつり」(2016.9.17~10.2)の次期となりました。今年は残念ながらあいにくの天気だったようですが、大勢の観光客で賑わったようです。
そこへ行く前にまず<MIM>(MIZKAN MUSEUM)に寄ってみました。ミツカンミュージアム自体は、長い休館期間の末1年前の2015年11月8日にオープンしました。
予約すればいいのですが、なんだかおっくうで年に何度かある自由見学日(今回はごんの秋祭り期間の9/22)に行ってきました。以前この施設に行った時は博物館「酢の里」という名前で、解体も進んでいた頃でした。(2013.7記事)
酢造りの基本部分の展示は、そんなに変わってないのですが、工場見学も一部出来るようになって、大がかりな展示スペースもあります。
館内へ行く前に、西側の建物スペースがメモリアル広場の様になっていました。
この場所は以前、南吉も見たであろう中埜銀行が建っていたところです。
展示スペースに「半田 記憶の風景」という古い写真が何点か飾ってありました。こちらの写真は旧半田病院の建物、現在の雁宿ホールのある場所ですが、病院が建ったのは戦後のようです。
ちなみにその上部を左右に走るのは、南吉もかつて利用していた現在の名鉄河和線。ミツカンのある場所的な位置は、この写真の上方枠外です。
こちらはミツカンの工場と、運河を整備している頃の写真。左側の建物が現在のミュージアム主要部です。今回のミュージアム1階には、酢を積んで運んだ木造の弁財船が復元されました。
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0910-「20世紀少年」の町-354 (南吉生誕103年-171)
http://ttru.exblog.jp/25565374/
2016-08-08T23:45:00+09:00
2016-08-07T22:59:14+09:00
2016-08-07T11:38:28+09:00
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新美南吉
7/31、昨日に続き生誕祭2日目の新美南吉記念館入口です。
昨日の訪問者が願い事を書いたランプの短冊が、風に揺れていました。
館内では昨日も貝殻笛づくりやお話会があり、外の広場では宵祭りもありましたが、今日もウグイス笛づくりや、ごんぎつねの人形劇等の催し物で賑わっていました。
午後の13:30からは「南吉さんの贈り物」で紹介した、小野敬子さん達の「歌とお話の会」もありました。(左下写真)
ちょうど同じ時刻に特別展「教科書に載ったごん」の解説があったので、今回はそちらの様子を見てみました。
特別展の解説は学芸員の遠山さんで、コーナー入口には教科書にも使われている挿絵画家・かすや昌宏さんの、「ごんぎつね」のスライド(地元の小学生が音声に参加)が流れていました。
そうした挿絵画家の作品も並べられる中で、展示は明治以降からの教科書の変遷から始まります。写真の右下枠に切り出したのは、ハナの挿絵から始まるので通常「ハナハト本」と呼ばれる教科書で、南吉もこの教科書を使ったそうです。
さて戦後の1956年になり、大日本図書が「ごんぎつね」を小学4年生の教科書に掲載し、その9年目以降、同作品を掲載する教科書会社が毎年増え、現在は全ての小学4年の国語教科書に採用されています。
こうした背景には、読者をどんどん引き込む物語の秀逸性があり、最後が象徴的な終わり方をしている事で、児童の様々な心情的な発言を引き出し、教材としても優れている点にあるといいます。
この大日本図書の最初の採択には、当時教科書の編集にあたった、南吉作品の育ての親と言われる「巽聖歌」(写真)の力が大きかったと言われています。
詳しくは10月23日まで開催の特別展・「教科書に載ったごん」でどうぞ。
さて14:45からの恒例ビッグイベントはウナギのつかみどりです。
小学生未満の子は広場のミニプールで、小学生以下の子は人工川をせき止めて、放たれた200匹のウナギのつかみどりです。
捕まえたウナギはもちろん食べられますが、子どもがウナギと触れられる機会を提供する、というのが主催者側の意図だそうで、大人の手出しは厳禁です。
にょろにょろ滑って逃げるウナギに、みんな悪戦苦闘していましたが、終りがけにバケツを除くとみんなそれなりの成果があったようです。
(おしまい)]]>
0910-「20世紀少年」の町-353 (南吉生誕103年-170)
http://ttru.exblog.jp/25552357/
2016-08-06T23:45:00+09:00
2016-09-18T15:06:50+09:00
2016-08-05T20:20:22+09:00
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新美南吉
参考までに今回の本型ベンチの「良寛物語 手毬と鉢の子」(S16.10発行)と、昨年設置された「おぢいさんのランプ」(S17.10発行)については、こちらとこちらのページで触れています。
写真は本の表紙側を撮ったものですが、拡大してよく見ると絵柄の中に「学習社文庫」とあり、この学習社文庫シリーズで発刊された本は、タイトルだけ違って表紙は全て同じだったようです。
表側は右手上部に切出しで一部表示しましたが、開かれたこのページには挿絵があり、第5章の「紙鳶(たこ)を買う銭」の一場面が描かれています。
ブースも出店していましたので、少しだけ紹介します。
「ハッピーキッチン」は安城高校のブースで、浴衣姿の高校生が「南吉の青春」カステラを販売していました。隣の南吉関連活動団体では、「新美南吉に親しむ会」さんが活動誌「花のき」20-21を号を販売されていました。
また中央図書館のブースでは、南吉絵本大賞となった「二ひきのかえる」や「手毬と鉢の子」等も販売されていました。
最後にステージの紹介を少しだけ。(画像をクリックで拡大)
「安城駅前元気会」さんの「南吉ジャンボかるた大会」は、もちろん南吉にちなんだかるた取り。発見しても場所が広いので取るのも大変です。
「チアダンス」の「レクラ」さんは、3組が交代しながらステージいっぱい、元気でかわいいダンスを披露しました。
「新美南吉に親しむ会」さんの「蟹のしゃうばいい」は、平均年齢七十ウン歳のメンバーさんが、振付も楽しく南吉童話を朗読されて喝采を浴びていました。
安城出身の女優・石川恵深さんは、朗読と安城高女で南吉先生が生徒と歌われた「アロハオエ」等を歌い、「ハッピーバースデイ」を貝殻笛で演奏されました。
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0910-「20世紀少年」の町-352 (南吉生誕103年-169)
http://ttru.exblog.jp/25534331/
2016-08-03T23:45:00+09:00
2016-08-05T22:02:38+09:00
2016-08-02T14:30:39+09:00
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新美南吉
さて7/30の後半は、安城市での新美南吉生誕祭の様子です。(クリックで拡大)
会場は巨大ウォールペイントのある「駅西駐車場」前。16:00からオープニングがスタートです。
ということで来年6/1オープン予定の、図書情報館を中心とした公共施設「アンフォーレ」の、建設状況を見ながら会場へ向かいます。
その歩道には新しく敷かれた「花のき村と盗人たち」のマンホールも見られます。
そして駐車場前のステージでは、今回の南吉モニュメント「良寛物語 手毬と鉢の子」の本型ベンチが除幕を待っていました。
除幕式に先立ち安城市・杉山教育長は、生誕100年を機に始まった安城市の南吉顕彰とまちづくりへの取組を説明され、南吉が安城で幼い頃からの夢だった童話集を出版したことを受け、生誕祭を市民の夢を応援する場、願いや思いを発表する場、そして「願い事日本一」を掲げ来週から始まる七夕祭りのプレイベントと位置付けていますと話されました。
そして除幕式は教育長はじめ南吉の教え子・加藤千津子さん、南吉の下宿先の大見さん、安城高女を引き継いだ安城高校生徒と、高女ゆかりの地の桜町小学校児童にて行われ、さっそくベンチに座っての記念撮影となりました。
記念撮影の後、教え子代表の加藤(旧姓・山口)さんが「良寛物語 手毬と鉢の子」発行の頃に、南吉先生から原稿の清書を頼まれた時の思い出を話されました。
原稿の中身や期限も教えられぬまま受け取った加藤さんは、読みづらい原稿を一字一字、万年筆でまるで習字でもするように清書していきました。一枚を清書するのに何時間もかかり、結局完成することができなかったといいます。
しかし、本が出来ると先生は誰もいない職員室に加藤さんを呼び、出版されたばかりでインクの匂いもする「手毬と鉢の子」を差し出し、ひとこと「書いてくれて有難う」と言われました。そして「ここに書いておいたから」と言って、表紙の裏に毛筆で書いた詩のページを示されたそうです。(参考写真:新美南吉記念館)
そこには「月夜は藪に石投げろ。寒い狐がコンと泣く 山口千津子様」と書かれていたそうです。加藤さんはそのことを母親以外 誰にも告げず、家に帰ると一気に読みました。加藤さんはお手伝いが十分できなかった恥ずかしさ、悔しさこそ思え、「書いてくれて有難う」と言われた言葉や詩まで書いてくれたその時の先生の気持ちを思い、その意味を今でも煩悶されているそうです。(内容の一部を要約)
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0910-「20世紀少年」の町-351 (南吉生誕103年-168)
http://ttru.exblog.jp/25529154/
2016-08-02T23:45:00+09:00
2016-08-02T10:37:19+09:00
2016-08-01T15:39:36+09:00
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新美南吉
また南吉さんの生誕日が来て、生きていれば今年は103回目の誕生日だそうです。(半田市のリ-フレット/クリックして拡大)
まずは7/30半田市・新美南吉記念館からです。
生誕祭時の新美南吉記念館は、例年通り(高校生・大人210円が無料)です。
そしてこの値段の安さですが、今開催中の特別展「教科書で出会ったごん」(2016.7.16-10.23)展は、なかなか見ごたえがあります。
入口の生誕祭提灯を横目に館内ロビーへ入りますと、10:30からの式典を前に準備の最中でした。写っているセーラー服は半田中学校の生徒さんで、今日は式典で合唱を歌ってくれるのですが、それまでは案内役をしてくれています。
館内ロビーには特別展の為に造った黒板があり、今世間で話題の黒板アートがありました。名古屋の女子美大生3人が2日程かけて、南吉先生やごんのシーンを描いたそうです。
さて、式典では藤本副市長が集まった南吉ファンに感謝を述べ、この1月に市役所の新庁舎前広場を整備し、市民から寄贈された時計塔のモニュメント、「南吉さんのお話の木」を設置したことを話されました。(写真参照)
そして南吉が生前残した言葉、「作品が読み継がれるなら、自分はそこに生きることが出来る」の言葉通り、まさに半田市は市民の方たちから支えられ、南吉が望んだような町になってきている事を実感し、これからもそうしたまちづくりを進めたいと話されました。
ついで南吉と同郷の半田市岩滑出身のソプラノ歌手・高居洋子さんが「菩提樹」と「しじみ蝶」を生誕を祝って歌われました。
恒例の特製ケーキのろうそくに火が付きました。火を消すのは藤本さん高居さんに加え、合唱する中学生代表です。
今回の生誕日のテーマは「木の祭」ということで、「パンのトラ」さんが「シュトーレン」というクリスマスに食べる、ドイツの砂糖をまぶした菓子パンをツリーに飾りつけました。木の根元にも動物や虫をあしらったパンが置かれています。
そして半田中学校生徒による合唱(明日・枇杷の花)の後には、参加者全員で南吉さんに献花が行われ、これまた恒例の「山桃ジュース」での乾杯が行われました。
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0910-「20世紀少年」の町-350 (南吉生誕103年-167)
http://ttru.exblog.jp/25409427/
2016-07-06T23:49:00+09:00
2016-08-02T10:38:22+09:00
2016-07-04T22:53:08+09:00
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新美南吉
さる6/11(土)安城市南吉下宿先にて、掲記の催し物がありました。
南吉研究家でストーリーテラーである小野敬子(おのけいこ)さんは、毎月茨城県つくば市より半田市の新美南吉記念館に来られ、南吉の歌を歌われる左近治樹(さこんはるき)さんと、その奥様である玲子さんとともに「南吉童話の歌とお話の会」をされています。
今回はタイトルの「半田から安城へ 南吉さんの贈り物」とあるように、記念館でのお話会をそのまま安城の下宿先へ、持ち込んだ形の催しとなりました。
開始の1時間前、半田からの出演者ご一行が安城の南吉下宿先に到着されました。
梅雨のさなか、背後のハクモクレンの葉が緑に繁って綺麗です。(左端から新美南吉記念館、遠山さん、右に左近玲子さん、治樹さん、小野敬子さん)
縁側に南吉関係の本を置き、会場設営を行う左近さん。
私も参考にしていた小野さんの著書「詩碑の散歩道」、新美南吉に親しむ会発行「安城の新美南吉」、矢口栄著「南吉の詩が語る世界」、南吉著「手毬と鉢の子」などがありました。
時間となり、左近さんの南吉オリジナルソング「ランプの思い」から「歌とお話の会」がスタートしました。
左近さんは小野さん等のお話の後、自作の歌の演奏をされました。
次に全員揃ってのご挨拶。今回の出前公演は左近さんの希望だったそうで、小野さんも下宿先の大見さん、南吉に親しむ会の協力に感謝され、今回は「うた時計」「一年生たちとひよめ」他、玲子さんは「かんざし」「かたつむりのうた」を聞かせて頂きました。
こうした流れの中で、遠山さんは「一年生たちとひよめ」に出てくる「ひよめ」についての生態や呼称、そして現代にも歌い継がれている「ひよめの歌」、作品の元になった「嘘」という作品についても解説されました。
また「うた時計」については、掲載された「少國民の友」(S17.2月号)を記念館から持参され、目次などを読んで、昨年太平洋戦争に入った直後の時代背景や、当時ならではの検閲で問題になった箇所等を解説されました。
この中には巽聖歌も「神武天皇」という詩を寄せています。また南吉が当時の授業で教え子に「うた時計」を読んで聞かせた話もされました。
かくして「半田からの贈り物」は、歌あり、お話(作品)あり、解説ありの豪華版で、1時間半があっという間に過ぎていきました。
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0910-「20世紀少年」の町-349 (南吉生誕103年-166)
http://ttru.exblog.jp/25396412/
2016-07-03T23:45:00+09:00
2016-08-02T10:38:53+09:00
2016-07-01T22:11:42+09:00
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新美南吉
鴉根の坂の頂上付近から、南成岩方面を見下ろした写真です。
背後に見える青やタンクの塔は、衣浦湾の向こう岸に見える碧南市の砂糖プラント工場ですが、その手前左端の赤茶けた屋根は半田のJFEスティール工場です。逆に言えば鴉根の「鴻の松」が、近隣から見えたというのがうなづけます。
さて南吉はこの鴉根の畜産研究所に3ヶ月いて、12月に本社勤務の辞令が出ます。その鴉根時代にも農場で働く婦人たちの解雇などを目撃するのですが、本社に行った南吉は当初は主人・杉浦治助に見出されることを喜びとしたものの、やがて憎み出すようになります。
杉浦治助自体はつつましく生活し、いわゆるブルジョワ然とした人物ではないのですが、「ひとの道教団」に傾向する、治助自身の信じるモラルがベースとなって進められる会社のつつましさ、例えば朝の体操とか暖房の行き届かないこと、俸給の安さなどに、南吉は反発を感じてゆきます。(写真:2013年3月、廃屋の杉治商会、ただし南吉時代の建物ではない。南吉は鴉根の寮から自転車でここへ通勤していた。)
「全く搾取である。屈辱である。修養とだとか何とか云って、それは搾取を甘受させるための言葉にほかならない。」(12.26の日記)
杉浦治助の説く会社モラルは、いわゆる資本主義の労働者搾取とは精神的には違ったかもしれませんが、南吉にとっては実質同じ事だったようです。
「マルクス主義的な考え方を年少時代に軆得してしまった我々二十代の青年達は一生不幸で終ることになるかもしれない。
何故ならその考へはあくまで我々の心の奥深く素喰ひ、併もそれはそれ自身で我々の運命を開拓していける程強いものでないからだ。」(写真は2016年6月現在の、貯蔵サイロだけ残った様子です。)
南吉の作品自体にプロレタリアート的なものはありませんが、この杉治商会時代の生活は、南吉の職歴としては異質な体験で、その後の童話作品にも少なからず、影響を与えていることと思います。(おわり)
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0910-「20世紀少年」の町-348 (南吉生誕103年-165)
http://ttru.exblog.jp/25325280/
2016-06-13T23:05:00+09:00
2016-08-02T10:39:24+09:00
2016-06-12T20:58:00+09:00
ttru_yama
新美南吉
今日は少し話を変えて南吉作品と、鴉根の狐についてです。
南吉作品には「ごんぎつね」を始め、狐がたくさん登場しますが「狐」(S18年)にも「鴉根山の狐の話」が出てきます。
といっても実際に狐が登場するわけではなく、「晩に新しい下駄をおろすと狐つきになる」という迷信を素材にしている童話で、「鴉根山は狐の住みか」として語られています。村の祭りの晩に新しい下駄をおろした文六ちゃんは、帰りに「コン」と妙な咳をするようになってしまい、狐つきにあったと思い込んで、寝るときその不安をお母さんに話します。
『もし、僕が、ほんとに狐になっちゃったらどうする?』『・・いっしょに狐になるね。そうして、文六ちゃんの狐をつれて鴉根の方へゆきましょう』『鴉根って、西の方?』『 成岩から西南の方の山だよ』『松の木が生えているところだよ』『猟師が撃ちに来たら、母ちゃんどうしよう?』『そしたら、母ちゃんは、びっこをひいてゆっくりいきましょう』『猟師が来て、母ちゃんをしばってゆくでしょう。その間に、坊やとお父ちゃんは逃げてしまうのだよ』『いやだったら、母ちゃん。母ちゃんがなくなるじゃないか』
と、最後はこんな母子相互の愛があふれるお話ですが、偶然なのか鴉根の「愛厚 半田の里」の入り口モニュメントの左端には「狐」(上写真)もいます。
その「愛厚 半田の里」から坂をさらに上っていきますと、君ヶ橋住宅もはずれのほうで坂の頂上付近になります。(写真の向きは坂の下り方向)
かつてこの住宅の前あたりに、鴉根山のシンボル「鴻(こう)の松」という大木が立っていて、半田一帯、三河からも見えたと言います。
松はS7年2月に枯れたため伐られ、惜しまれその7月には同じ場所に記念碑が建ちました。(写真では松のあった辺りに、榊原弱者救済所跡公園の説明パネルを置いてみました)ということで、南吉が研究所に来たS12年には碑しか残っていなかったのですが、「狐」の中の文では「松の木が生えているところだよ」と書かれ、またびっこの母狐について「南吉と鴉根の狐パネル」の説明では、榊原救済所の伝説の狐「三本足の狐」の話があったと書かれています。
こちらは戦後S22年頃の写真ですが、鴉根の農場風景です。戦争末期のS17(1942)年頃より、軍から戦闘機の増産を迫られていた中島飛行機は、半田市に飛行場と生産工場の建設を急いでいました。
工場や飛行場の建設もさることながら、従業員の増加に伴い食料増産農場として充てられたのが、鴉根研究所の農場でした。S18年杉治商会は畜禽用から食料業務に転向し、土地は中島飛行機の農場として買収されました。
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0910-「20世紀少年」の町-347 (南吉生誕103年-164)
http://ttru.exblog.jp/25285206/
2016-06-04T23:45:00+09:00
2016-08-02T10:40:04+09:00
2016-05-31T22:20:21+09:00
ttru_yama
新美南吉
説明板にある「杉治青年学校」の朝の体操風景です。全員、朝5時30分に起床し、朝食前に「箸とらば祖先や親の恩を知れ われ一力で喰うと思うな」と唱和した後、「いただきます」で箸をとったとのこと。
その鴉根寮の大食堂の写真(下記)です。説明文には南吉も通ったとありますので、ここで三食を取ったことでしょう。
前述したように南吉が鴉根畜産研究所に勤めるのは、S12(1937)9月からの事ですが、日記には少しばかり研究所の様子が見られます。
まず飼っていた家畜ですが鶏や豚の外には、七面鳥・羊・乳牛もいたようです。ただし実際に、南吉がどんな仕事をしていたのかは書かれていません。給料でさえ12月になり鴉根から店(本社)へ転勤になってから、初めて月給20円(手取り16円)という話が出てきます。
さて話を進めながらバス通りの坂道を1区間上って、当時畜産研究所のあったという付近に行ってみましょう。
右手に高層住宅が見えていますが、「君ヶ橋住宅」のバス停より少し手前の左手に建つ、障害児用施設「愛厚 半田の里」が研究所があった付近のようです。
もちろん昔は知多鉄道・南成岩(みなみならわ)駅(現名古屋鉄道・青山駅)から歩くしかなく、入所した南吉を訪ねてきた恩師・遠藤先生の、特に奥さんのほうはすっかりくたびれて、施設を見る元気もなかったようです。
そして写真は現在その地にある「愛厚 半田の里」です。
さて給料の話に戻りますが、出納帳を見ると9~11月までは毎月3円の手当てが。支給されています。3ヶ月間は見習いとか研修期間だったのでしょう。
そして12月、初めて給料の額(手取り15円)を聞いた父・多蔵さんは憤然として、「そんなものはいらん」と言ったそうです。無理して東京の学校まで出してやった息子の給料としては、あまりにも安かったのでしょう。
坂を上って「愛厚 半田の里」の少し上方から東に向いて撮影してみました。実際の建物の位置等は不明ですが、この付近を中心に研究所や青年学校、そして畜舎等があったのでしょうか。今でも周辺は牧草地や耕作地が見られます。
そして12月7日に本社に転勤してからの南吉は、杉治商会の待遇に不満を持ってきますが、鴉根に入寮していた頃の南吉は、ここでの生活に満足していたようです。S12年10月9日の日記には、『病ひに仆れて恰度一週(ママ)年、かへりみて今日の仕合せを喜ぶ。今の自分に希望を持たすもの。ここで生活が大軆保障されるといふこと。』とあり、まだしっかり会社生活の厳しい実情を知らなかったように見えます。
例えば休みの話で言えば、休日など月に2回だけでした。
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0910-「20世紀少年」の町-346 (南吉生誕103年-163)
http://ttru.exblog.jp/25262169/
2016-05-26T23:45:00+09:00
2016-08-02T10:40:30+09:00
2016-05-24T20:22:06+09:00
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新美南吉
写真は前回の2つ目の地図の中央付近にマークした「榊原弱者救済所跡公園」で、手前のちびっこ広場奥の竹藪が見える所が史跡公園です。
道からの目印としては、付近に知多バスの停留所(まさに「鴉根(からすね)」)があります。
この榊原弱者救済所跡公園は竹藪に囲まれた小さな公園ですが、説明板が8つ程あり大正から戦後まで、この鴉根地区の変遷を、写真と説明文で伝えています。
そして新美南吉についても触れていますので、今や何の遺構のかけらも残っていない鴉根にあっては、非常に意義のある公園です。
説明板等によればM32(1899)~S7(1932)年頃まで、この地に榊原弱者救済所という社会から見捨てられた弱者(孤児・老人・重病人・出獄者・女性)を救済する施設があったと言います。
施設を主宰したのは榊原亀三郎(写真)という地元半田の元侠客で、改心したのちに弱者を救済する「新しい村」を運営し、常に50人~100人が暮らし延べ1万5千人が救済されました。
施設の運営支援には亀三郎の考えに賛同した地元の名士や篤志家91人が居り、大正9年建立の「紀念碑」が残っています。
この弱者救済所には、宿舎他・武道場・礼拝施設等10棟ほどの建物と畑・牧場・果樹園がありました。明治初期までは人家も無かった鴉根の雑木林を開墾していったようです。
昭和10(1935)年、鴉根に次に入植してきたのが、当時日本最大の飼料販売会社「杉治商会」の畜産研究所でした。
畜産研究所は写真のように、鶏舎もしくは豚舎が何棟も並び家畜は放し飼いで飼育されていました。敷地は先の弱者救済所の規模(6万6千坪)の上をいく36万坪もあり、研究施設のほか杉浦治助氏の信ずる「ひとのみち」教の布教及び、社員教育の施設である青年学校もあり、職員と学生で200余名がいたと言い、南吉もその中の一人でした。
この36万坪という規模、120ヘクタールだそうですから、1.2km×1.0km四方になります。おそらく鴉根地区のほとんどを占めてたように思います。
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0910-「20世紀少年」の町-345 (南吉生誕103年-162)
http://ttru.exblog.jp/25229235/
2016-05-19T00:08:00+09:00
2016-08-02T10:40:59+09:00
2016-05-14T23:23:35+09:00
ttru_yama
新美南吉
新美南吉の不遇な時代の1つに、杉治商会に勤めていた畜産研究所(S12.9-12、以後S13.3まで本社勤務)時代があります。杉治商会というのは当時家畜飼料の製造販売を行っていた、杉浦治助氏(三代目、碧南出身)の会社で、大正末期に半田の鴉根(からすね)地区で養鶏飼料の製造を始め、昭和10年には全国一のシェアを占めていました。(参考「棚尾の歴史を語る会」資料 /写真:新美南吉記念館)
ただ近年 杉治商会は、飼料の原材料高騰を受け採算が悪化、破産手続きをしているようです。(2011年現在)
現在の半田市の南部・鴉根地区には、当時の鴉根畜産研究所の施設等は残っていませんが、今回はそんな歴史の面影を追ってみたいと思います。
まず半田市の大まかな地図(Google)の説明ですが、中央を縦に延びているのが知多半島道路で、上部(北)にマークしたのは、新美南吉記念館(赤〇)と、南吉生家(青〇)です。そして鴉根地区は下部(南)の楕円形(緑色)部分で、なだらかな山(丘陵地)で南は武豊町となります。
自転車でもあれば生家から通えなくもない距離ですが、全寮制が会社の方針で朝も早かったようです。
もう少し地図(YAHOO)を細かく見ていきますと、地区には東西斜めに延びる主要道があります。右端の稲荷町交差点近くには、鴉根稲荷神社(黄〇)があり、中央付近にあるマーク(赤〇)は、後で出てきますが、榊原弱者救済所跡公園です。その左側の大きな丸で囲ったのが半田更生園(青〇)で、元杉治商会の中心部があった辺りのようです。
そしてこの東西の道は左へ行くほど登り坂となっていて、緑のマーク(緑〇)が坂の頂点あたりで、鴉根のシンボル的な松の木「鴻の松」が立っていました。
さて、ほとんど手がかりの無い鴉根地区ですが、まず稲荷町の鴉根稲荷神社から見ていくことにします。鴉根山には狐が居たということで、童話「狐」にも登場します。
『「鴉根山の方にゆけば、今でも狐がいるそうだから、そっちへゆくさ」
「母ちゃんや父ちゃんはどうする?」
(中略)「父ちゃんと母ちゃんは相談をしてね、かあいい文六が、狐になってしまったから、わしたちもこの世に何のたのしみもなくなってしまったで、人間をやめて、狐になることにきめますよ」
「父ちゃんも母ちゃんも狐になる?」』
ちなみにこの鳥居は、南吉が鴉根に来た、昭和12年に建てられたものでした。
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0910-「20世紀少年」の町-345 (南吉生誕103年-161)
http://ttru.exblog.jp/25164597/
2016-05-08T20:46:00+09:00
2016-08-02T10:41:23+09:00
2016-04-27T22:47:51+09:00
ttru_yama
新美南吉
どこでも朗読会(4月21日)
南吉関連の話をもう一つ。さる4月21日午後、声の贈りもの「どこでも朗読館」朗読会(主催、新美南吉に親しむ会・南吉朗読ででむし会)が、安城市の南吉下宿先にて行われました。
朗読は松丸春生氏と西川小百合氏のお二人で、1994年以来全国で朗読会を開かれ、2013年の「南吉生誕100年」でも「朗読のあるシンポジウム 南吉童話の「声」」にも出演されていますが、聞き手をぐいぐい引付ける朗読の力には定評があります。
今回朗読された南吉作品の目玉は、主催者側の目で見ると大きく言って2つあります。その1つは南吉が安城の下宿時代に書いた、良寛物語「手毬と鉢の子」で、これには当主側の大見まゆみさんも大変喜ばれました。そしてもう一つは、安城高女の南吉の教え子である加藤千津子さん(写真右)、のリクエストで実現した「鳥右エ門諸国をめぐる」でした。
加藤さんがこの作品をリクエストした理由は、この作品の副主人公・平次が、主(あるじ)・鳥右エ門に向けるある種冷めた感情を、松丸さんの朗読によってもっと深く理解してみたい、松丸さんならどんなふうにこの作品の世界を表現されるのだろう、と思ったからでした。
加藤さんがこう言われる原点には、高女時代の南吉先生が垣間見せた、ある出来事があったからでした。
それは2年生の時の予選会で先生が、「ガア子の卒業祝賀会」の配役決めをしていた時の事でした。ある生徒がブタの配役を拒んだ時、先生は「あっ、それならいいよ」と、サッと他の子に配役を回してしまったのです。
南吉先生には、そんな冷めた一面もあったのでした。その後の加藤さんは大人になってから読んだ、「鳥右エ門諸国をめぐる」の平次が時折見せる冷ややかなしぐさに、その時の南吉先生の姿が重なって見えたのでした。
また「和太郎さんと牛」の中にも、あることを除きいい嫁なのに、和太郎さんが離縁してしまう嫁が出てきます。加藤さんはこうした思いがあって、「鳥右エ門諸国をめぐる」をリクエストしたのでした。(後でお聞きすると、今回の朗読で作品をより深く感じられたとのことでした)
ということで朗読は、松丸さんが①「良寛物語」、西川さんが②「子どものすきな神様」、③「(宮沢賢治)ざしき童子のはなし」以下、松丸さんが④「(宮沢賢治)鹿(しし)踊りのはじまり」、西川さんが⑤「赤いろうそく」を朗読されました。
賢治作品との対比は、作品の類似共通性(子どもの数、手拭いやろうそくを不思議がる動物たち)を味わうため、また南吉の賢治作品に対する尊敬を感じられるようにとの配慮でした。
そして松丸さんが⑥「鳥右エ門諸国をめぐる」、西川さんが⑦「でんでんむしの悲しみ」を朗読され、会は終了となりました。
お二人は「たましいで読むこと」に気持ちを集中して朗読されました。松丸さんは「たましいで読む作品の要所では<私というものは>要らない」と話されました。そういう作品は作者がたましいで書いているから<私が前面に出て読むものではない>とのことでした。その文章も(おそらく)たましいが作者を通じて書かせているから、作品の要所に出てくる「ここはたましいで読みなさい」という呼びかけを感じ取って朗読する、ということを例を示しながら話されました。
そして朗読していて、そのたましいで読むことを一番感じさせてくれる作家が、新美南吉だと言われました。
(おわり)]]>
0910-「20世紀少年」の町-344 (南吉生誕103年-160)
http://ttru.exblog.jp/25146646/
2016-04-23T23:45:00+09:00
2016-08-02T10:41:52+09:00
2016-04-20T20:23:28+09:00
ttru_yama
新美南吉
本当は「貝殻碑」のある雁宿公園は半田市内有数の桜スポットなのですが、桜との構図が悪く断念しました。似たような理由で、半田中学校と岩滑小学校も割愛しました。
①ということで南吉記念館に来て、芝生広場越しに記念館を撮ってみました。②次の写真は逆の方角から撮ったもので、赤いよだれかけの六地蔵とその脇にいる「ごん」が、こちらの様子をうかがっています。
③次は市内のはずれにある「南吉の養家」の駐車場の桜です。この木も何となく後植えの感じがしますが、南吉にとっては寂しい思い出ばかりの家ですので、ある意味救われる華やかさです。ここには「墓碑銘」碑があります。
④そして知多半島の最後は、東海市にある星城大学(明徳短期大学)にある「イツノコトダカ」碑です。こちらもかなり難しい構図で、無理やり撮ったという感じになっています。
続いて4月5日は安城編です。①何といっても1番目は、元安城高女だった安城市立桜町小学校で、②ここには「南吉のうた」庭園があり、2013年に里帰りした「ででむし碑」があります。
③桜町小学校の南西には安城公園がありますが、その裏通りの歩道(中央アスファルト)には明治用水が暗渠になって流れています。左手に掘割がありますが、こちらもその一部かと思われます。
④この安城公園には文学の散歩道があって、安城に関係した人物の碑があり南吉の「牛」という詩碑があります。
次の写真は桜と関係のないものばかりですが、記録の為に載せました。①は市役所南の交差点から東に延びる花ノ木町通りで、少し先に今はアスファルトの下に埋もれた花の木橋があります。
花の木は南吉の「花のき村と盗人たち」の村の由来と言われていますが、少し前までこの写真の道の右手方向に「花ノ木観音」や「地蔵菩薩」があったのが、再開発で道を隔てて反対方向へ移動していました。②が移転場所になりますが、こうして地域の人に守られ存続しています。
③その再開発の中心的な存在がブルーネットで覆われ、翌H29(2017)年6月オープンを目指す「中心市街地拠点施設(愛称・アンフォーレ)」です。元更生病院のあった跡地で2013年の南吉生誕100年では、七夕まつりと合わせ付近はイベント会場となりました。
④このブルーネットの向こうの通りは御幸本町通りなのですが、その一方2012年4月28日オープンし、民間で安城の南吉情報を伝えてきた「ギャラリー&カフェ・南吉館」さんが、昨2015年12月で閉館してしまいました。(南吉を含む市内観光情報は、安城駅1Fの観光案内所「KEY PORT」で行われています)
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