帰ってきた「ででむし詩碑」-34
先の「
帰ってきたででむし詩碑-31」にて、河合弘氏が戦後の学制改革にて安城高校となった、旧安城高女の「ででむし詩碑」を訪ねた話を書きました。
その関連で「新美南吉に親しむ会」代表の澤田さんから、過去の安城高女や安城高校の資料をお借りしました。そこには貴重な写真が入っておりましたので、今回から振り返って「旧校舎の写真」や、「ででむし詩碑」の手がかりをなぞってみたいと思います。
安城高校(旧安城高女)の校舎を、上から撮った写真がありましたので、2つの写真を組み合わせてみました。上が「安城高校50年記念誌」よりS30年頃の校舎風景(編集・ 部分)で、下が戦前(大正・昭和初期?)の「安城高女の絵葉書」(個人蔵・部分)です。第二校舎の奥にあった講堂の様子がわかります。
S30(1955)年頃とわかるのは、運動場の右上一角に図書館が出来ていることからです。そして右端の第一校舎が、木造の2階建ての「北校舎」(上写真)に変ったのは、S(1951)26年3月(90年記念誌)だといいます。
S35(1960)年2月に第二・第三校舎は、一部4階建ての鉄筋新校舎(本館)となります。(80年誌)
そして木造2階建ての「北校舎」も、S46(1971)年3月に鉄筋一部4階建て校舎となります。(80年誌)そしてS53(1978)年12月23日、これら桜町校舎の閉校式が行われ、翌S54(1979)年1月8日、安城高校は赤松に移転し、開校式が行われたのでした。
この時 2年前に結成された「新美南吉に親しむ会」を中心にした有志が、1月早々より「ででむし詩碑」の移転反対陳情を行い、一時は受け入れられたかに見えましたが、反対にあい詩碑は3月下旬に移転してしまったのでした。