帰ってきた「ででむし詩碑」-32
前述した河合氏の著書「友、新美南吉」によれば、河合氏は東京外語を卒業した後大垣に帰るとすぐ、肺結核を患い自宅での療養生活を何年も送ることとなります。そんな病床の氏を慰めたのが、南吉との手紙のやり取りなのでした。
前回見舞いのため大垣を訪れた、S14年12月28日の南吉日記(訪問は26日)の一部を紹介しましたが、河合氏も著書の中にその日のことを書いています。
『新美だな、とすぐ分かった。とつぜん、やって来たのだ。・・温かそうな茶色の背広を着て、もの静かな社会人になって。・・ばかに大きな菓子箱を持って来た。』
『うちにおける君の評判はよかった。母など行儀のいい人だとほめる。あれは生徒の家庭訪問などで慣れているのだろう。それにしても、ー・・息子はいつまでも病気していて、ーというような愚痴は金輪際もらそうともしなかったが。』
そして小康を得た時には、大垣城を案内したり、南吉の職場である安城高女を訪ねたことも書かれていますが、その時のことを記述した南吉日記は見つかっていません。
圓通寺にて河合家の墓に詣でました。
左が弘氏の墓で、右が先ほどの記述にもあった、弘氏の母「志やう」さんの墓のようです。
母の墓の裏面には、
「母の押すおば車は いつまでも動いていき 停まることはないようであった 弘」
と彫られており、南吉に息子の病気のことを愚痴にしなかった、優しい母の面影をにじませるような追悼文です。志やうさんは昭和46年7月15日95歳で亡くなられたようです。
そういえば関連は不明ですが、南吉の詩にも亡くなった実母が乳母車に乗って登場する「春風」や、「乳母車」という詩があります。