帰ってきた「ででむし詩碑」-1
南吉生誕100年-リーフレット-35
このブログは、ほぼ1年前にあった「新美南吉生誕100年」の様子を追っていますが、今回からそのイベントの中で、私が気になっていた帰ってきた「ででむし詩碑」の話をしていきたいと思います。
まず「ででむし詩碑」というのは何?と言うところからですが、昨年の12/22に掲載した「
南吉生誕100年-リーフレット-7」内に、その記事が少し載っています。
ということで、右写真のように「01」「安城高女址碑」と庭園「南吉のうた」、「02」「ででむし詩碑」とい記事があります。
「01」の場所は現在の安城市立桜町小学校の正門横なのですが、かつてこの地には、南吉が教師として勤めていた、安城高等女学校がありました。そして1948(S23).4.1.学制改革により、愛知県立安城高等学校となり、1979(S54).1.8、市内の赤松町に移転しました。
「安城高女址碑」はこのことを伝えるため、移転した3月ここに建てられました。
一方「ででむし詩碑」は安城高等学校となった1948(S23)11.20、南吉の同僚及び教え子ら有志により、無題の蝸牛(ででむし)のでてくる南吉の詩文を刻んだ石碑が、ででむし詩碑として除幕されますが、移転の際、赤松町の新校舎にひきとられました。しかし「02」の記事末尾に、誌碑が「生誕百年にあたり元の場所へ戻されることになりました。」と書かれています。
そして上記、記事の通り「ででむし詩碑」は、再び旧・安城高等女学校の地である、桜町小学校に戻り、2013(H25).7.27、当時の教え子らの見守る中、除幕式典がおこなわれたのでした。
左は、今年3月頃に出された安城市のリーフレット「安城の新美南吉 GUIDBOOK」内の記事です。
その写真を見ると、たしかに安城高等学校にあった「ででむし詩碑」が、元々あった桜町小学校に戻り、「安城高女址碑」とともに、「南吉のうた」庭園に溶け込んでいることがわかります。
いったいこの昭和23年から平成25年の65年間、詩碑にはどんなことが起きていたのでしょうか。
そんな「ででむし詩碑」にまつわる話を、これから見ていきたいと思います。