0910-「20世紀少年」の町-199 (南吉生誕101年-52)

南吉生誕100年-リーフレット-14(2012.7~)

・・ですが、今回は「南吉生誕100年-20」にて紹介しました、食酢の製造で知られるミツカンさんの「グループ本社地区再整備プロジェクト」の状況です。
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左の重機「ユンボ」のある場所は、昨年11月10日をもって一時閉館となった「博物館 酢の里」の入り口付近ですが、工場も博物館もすっかり解体され、2015年秋の完成に向け工事が行われています。

(ところでこの付近で昨年12月5日夕刻、大きな火事があり寿司店、焼き肉店、人形店等、4軒ほどの店舗が全焼しました。不幸な事故でしたが、幸い亡くなった方はいませんでした。記録として残しておくことにします。)

さて「新美南吉と刈谷の会」(酒井豊さん代表)さんの、リーフレットにある南吉の年譜に戻りますが、大事な個所を赤枠で囲みました。
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まず大正6(1917)年11月4日に生母の「りゑ」さんが亡くなり、翌大正7年4月、父再婚 継母・志ん(酒井家)同居、翌大正8年2月12日入籍、2月15日、弟・益吉生まれる、とあります。

そう、会代表の酒井豊さんは「志ん」さんの実家・酒井家の当主で、志んさんの甥にあたります。そして次の赤枠ですが、昭和3(1928)年12月(中学3年)、「兎の耳」に投稿し入選、賞品として大西巨口著「三人呑兵衛」の童話集が届き、「蔵書番号第壱号」と書き込む、とありますが、「蔵書番号第壱号」と記されたその童話集を、形見として従兄である酒井さんが所蔵されています。

f0005116_14594266.jpgその少年少女雑誌「兎の耳」を主宰する、大西巨口から送られてきた「三人呑兵衛」の本のことも、このリーフレット内に載っています。

南吉はこの本にわざわざ「蔵書番号第壱号」と、書き込みをいれるほど嬉しかったわけですが、残念ながらその昭和3年12月の日記は存在していないので、この冊子やその本への南吉の書き込みは貴重です。
そして南吉は本を貰った翌月の、翌昭和4(1929)年1月より日記を書いており、すでに「兎の耳」へ投稿していた様子が書かれています。
『朝、大西麟(巨口)宛にペン画「雪の朝」を送る。その裏に、「兎の耳の挿絵を書かせよ」と記す。』(1/3)
『榎本茂久に「兎の耳」新年号を借りた。余の童話「づいっちょ」がのっていたので、母、弟、父に見せた。此奴の賞は去年の師走に貰った。』(1/18)
『童話「チン・カム」童謡「枯野」及び昨夜書いた剣戟画を「兎耳」に投書す。』(1/20)

などとありますが当時南吉の小遣いは乏しく、投稿作品が載った月の雑誌でさえ買えずに、ほとんどの投稿雑誌は、友人から借りて読んでいたようです。それゆえの「蔵書番号第壱号」ということでもあったわけでしょう。
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by ttru_yama | 2014-02-10 16:45 | 新美南吉
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